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後生の一大事の解決04/阿部信幾先生2023.10.06【仏教・浄土真宗】

後生の一大事の解決04


この度は業という宿業について話をしようと思う。

「業」という言葉をほとんどの布教師が言わない、嫌がる。なぜかというと、「業」の話をすると差別につながるからだ。だからこの話をしないという。

三世も言わない。前世と現世と後世、この三世を言わない。なぜかと言うと、これが絡むからだ。前世の行いが現世を作り、今現世でやっている行いが後世を作る。だから「業」は己の行いだ。行いによってこの世界が生まれると説いているのが仏教だ。

だから世界があってそこに私がいるのではなく、自分がこの世界を作っている。自分がやった行いによってこの世界ができている。その結果を自分が受けている、これを「自業自得」と言う。自業は自分の行いの結果を自分が受けるということが仏教の基本だ。この「業」ということをちゃんと言わないと、まさにここから差別が生まれる。

だから一番の大元になっている「業」の話の元は仏説無量寿経という教えだ。無量寿経にはっきり書いてある。その通りに浄土真宗の布教師が布教していったら、差別が生まれた。ひどい差別はハンセン病差別だ。ハンセン病は昔はらい病と言われていたが、現在は特効薬ができて治る病気だ。今、ハンセン病の施設にはほとんど人が入っていない。

私はハンセン病の施設にも布教に行ったりするが、入ってくる人はいない。かといってそこにもう感染しないから外にも出られる。しかし世の中の差別意識は強い。ハンセン病の人の顔が変形してしまうから一目でわかる。そのため、電車に乗ると他の乗客が拒絶することがある。

それで「なんで私がこんな病気になったのか」と聞かれたとき、浄土真宗の布教師は「それはあんたの前世の業だ」と答えてきた。だから「私がハンセン病になったのは前世の行いが悪かったのか」と聞くと、それが原因だと言う。そうするとその人はハンセン病を患っているだけで悪人になる。ここから差別が生まれる。だからこの話をしないようになった。しかし、お経にははっきり書いてある。

五悪段

無量寿経の「五悪段」には、例えば口が聞けない人は前世において仏法をそしった者が口が聞けなくなると書いてある。経にそう書いてあるから否定できない。しかし、これをその通り説教にすると差別が生まれる。

私は精神科の病院で10年近く法話をしてきた。毎月だ。今月からようやくコロナが収まって再開する。その病院は宮崎ホスピタルという茨城県の病院だ。月に一度法話会があり、夜だけの法話会もあって、10年以上やってきた。つい最近、その病院に30年以上入院していた統合失調症の患者、小松原さんが亡くなった。昨年12月のことだ。

その病院は最先端の病院で、最後をどのように過ごしたいかというアンケートが来る。延命治療を望むかどうか、宗教者を呼びたいかどうか、最後に会いたい人がいるかどうかといった質問がある。

小松原さんは最後に私の名前を出した。「阿部先生に会いたい」と言うので、宮崎幸恵先生から電話があり、車で3時間かけて群馬県から茨城まで行った。コロナの最中だったのでアクリル板越しに小松原さんと会い、「もうすぐお浄土だね」と言った。すると、「阿部先生、そんな早く来なくていいですから」と言われ、「今が一番幸せです」と続けた。

統合失調症の患者でありながら「今が一番幸せ」と言い切る。なぜかと言うと、統合失調症にならなかったらこの病院に入れず、浄土真宗の教えに出会えなかったからだ。彼は癌の末期で、あと3ヶ月の命だと知らされていたが、それでも「今が一番幸せ」と言い切った。病気だからではなく、死んでいける世界に出会ったから幸せなのだ。

だからこれは避けて通ると仏教の話にならない。じゃあどうするか。無量寿経に書いてある通り、体に障害を持ったり難病を患っているのは前世の行いが原因だと明確に書かれている。浄土真宗の布教師はこれを説いてきた。

差別

すると「差別が生まれていった」とはどういうことか。この話をしてから、「業」の話をしようと思う。無量寿経の構成は大きく二つに分かれる。前半は阿弥陀様が法蔵菩薩であった時に全てのものを救いたいという願いを起こして、本願を立てた。それが48の願いであり、その願いを成就するために修行を始めた。その修行が完成したという本願成就文が無量寿経の半分にある。それまでが前半で、後半には「五悪段」という前世の行いによって苦しみを受けることが書かれている。

無量寿経の分け方はいろいろあるが、本願成就文を境にして前半を受け止める方法がある。「法の深信」とは阿弥陀様がどのように私を救うのかという内容。阿弥陀様の救いは無条件であり、条件がついていない。条件をつけると、その条件に叶わない者は救われない。だから、条件付きの救いを捨てた。

超発希有大弘誓

正信偈には「超発希有大弘誓」とあり、阿弥陀様が本願を起こした。他の仏様にはない願いを起こしたということ。他の仏様の救いには条件があり、条件を満たさない限り仏になれない。阿弥陀様は全ての仏様の願いを見て、条件付きでは救われないと判断し、一切条件をつけずに救おうとした。

条件をつけると人々は逃げていく。だから阿弥陀様は条件をつけずに救う仏になった。無条件で救う仏になることが阿弥陀様の願い。他の仏様にはこの願いがない。無条件とは、一切救う相手に条件をつけないこと。阿弥陀様の救いはそのまま救うことを表す。

阿弥陀様の救いは無条件なので、今の私が外されていない。条件がつくと救われない。例えば、念仏を唱えたら救われると言ったら、唱えていない者は救われない。だから阿弥陀様は一切条件をつけずに救う仏になった。浄土真宗の救いは「私が変わる」のではなく、「阿弥陀様が変わった」という話を聞くこと。それが私の救い。

阿弥陀様は無条件の願いを起こし、無条件で救う仏になった。それが阿弥陀仏という名前の意味。阿弥陀仏とは法蔵菩薩が自分に48の条件をつけ、それを成就するまで悟りを開かないと誓った。その誓いを成就した仏様が阿弥陀様。無条件で救う阿弥陀様の姿を前にして、私が変わろうとしても救われない。

臨終に間に合わない

信心をいただこうと思っても、臨終には間に合わない。臨終の時には阿弥陀様の無条件の救いが必要。私が変わる必要はない。話を聞いて変わろうと思っても、それが仏になるわけではない。

だから話は「へえ」と聞いておけばいい。大切なのは、阿弥陀様の救いは無条件の救いということ。それが「法の深信」。阿弥陀様は悪人を救うと言っている。五逆罪や仏法をそしる者を除くと書かれているが、親鸞聖人はすべて救われると言っている。
でも、この点について皆よくわかっていない。

除く

たとえ話をする。温泉に入るとき、「体をよく洗って入れ」という張り紙がしてある。なぜその張り紙があるのか?洗わないで入る人がいるからだ。そういう人がいなければ、そんな張り紙はしない。だから「体を洗ってから湯舟に入れ」と書いてあるのだ。

これはつまり、湯舟に体を洗わないで入る人間を拒絶するための文章ではない。体を洗ってから入るようにという注意書きだ。洗わない人に対して、洗ってから入りなさいと言っている。これは五逆罪と仏法誹謗をする者を除くという意味で、「やるな」と言っているわけではない。「やるな」と言ってもやってしまう人間が阿弥陀様の救いたい相手なのだ。

法の深信・機の深信

阿弥陀様は無条件で救う。悪人を救う。これが「機の深信」だ。無量寿経という経典は大きく分けると前半が「法の深信」、後半が「機の深信」であり、本願成就文が中心にある。法蔵菩薩は48の条件がすべて満足しなければ悟りを開かないと誓っている。この本願成就文が無量寿経の中心だ。

無量寿経には「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」と書かれている。これが無量寿経の核心だ。築地本願寺では歎異抄が多く引用されるが、歎異抄は十八願が中心だ。十八願は「念仏申すものを浄土に迎える」という阿弥陀様の誓いだ。だから築地本願寺では「本願を信じ念仏を申せば仏になる」という説教が多い。

しかし、親鸞聖人が教行信証という書物を書いたのは、念仏に自力と他力があるからだ。自力の念仏では生まれ変わらない。他力の念仏が大事だが、念仏だけでは自力か他力か分からない。だから、信心が他力か自力かが大切だ。他力の信心は「本願成就文」によって得られる。阿弥陀様が48願を立て、それが成就した証拠が南無阿弥陀仏だ。

重誓偈

重誓偈(じゅうせいげ)は48願とセットであり、三つの誓いがある。

  1. 我建超世願(がけんちょうせがん)、必至無上道(ひっしむじょうどう)、斯願不満足(しがんふまんぞく)、誓不成正覚(せいふじょうしょうがく)

  2. 我於無量劫(がおむりょうこう)、不為大施主(ふいだいせしゅ)、普済諸貧苦(ふさいしょびんく)、誓不成正覚

  3. 我至成仏道(がしじょうぶつどう)、名声超十方(みょうしょうちょうじっぽう)、究竟靡所聞(くきょうみしょもん)、誓不成正覚

この中で三番目が一番重要だ。

至成仏道がしじょうぶつどう名声超十方みょうしょうちょうじっぽう究竟靡所聞くきょうみしょもん誓不成正覚

名声超十方みょうしょうちょうじっぽう:世界に超えて届く。何が届くか。私が本願成就したら、その本願成就したことを必ず救う相手に届ける。どうやって届けるか。名号が声となって十方世界に届きますように。

仏教はこう考える。世界があってそこにおる私がおるんじゃないんだ。私の見てる聞いてる触れてるこれを世界って呼んでる。だから、あの、あなたの世界と私の世界違うんだ。同じ世界にいると思ってるか?違うものを見てるんだ。だから私の見てる世界ってのは私しか知らない。

あと、あえて言うなら仏様しか私の見てる世界を知らないんだ。あれはあいつを全然俺の気持ち分かってくんないわって気持ち分かってくんない方が当たり前なんだ。世界が違うんだから。

仏様だけが私の世界分かってくれるんだ。それを世界って呼んでるんだろう?だから私が目で耳で聞き鼻で嗅ぎ舌で味わい体で触れてそれを受け止めてる。眼耳鼻舌身意の世界。これを世界と私たちは呼んでる。そこに届くっちゅうんだ。これがもう届いとる。

私が南無阿弥陀仏聞いてるってことは、この阿弥陀様の「重誓偈」の通りに本願が成就されて、その本願が成就したことを私に伝えてるのは南無阿弥陀仏なんだ。これを聞いてだからこの本願の成就を聞いてこれから私が何かすることがあるんだろうか?無条件で救うという仏様の願いが成就してるんだから、向こうさんは無条件だと言ってるのに、私が条件つけてんじゃないのか?

自力の計い

信心いただいてから参る、念仏唱えて参ろう。これを自力の計いというんだ。これは何かといったら、本願成就を疑っているんだ。南無阿弥陀仏を疑っているんだ。だからこの本願成就文に「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」とある。名号を聞いて、ということはどういうことかといったら、もちろん私の唱えてる念仏の意味を聞いて、と言ってもいいんだが、私に念仏を申させたのはお釈迦様なんだからね。だからお釈迦様が褒めたたえた南無阿弥陀仏の言われを聞いてだから、お釈迦様が南無阿弥陀仏の言われを説いたのが仏説無量寿経というお経だ。だから仏説無量寿経はこの本願成就文が中心なんだから、南無阿弥陀仏の言われを説いたんだ。

南無阿弥陀仏の言われとは何かといったら、もうあなたを無条件で救う仏が働いてるということを説いた。これが本願成就文だ。阿弥陀様が働いてるのに、私これからなんかすることあんのか?ないだろう?これが「聞其名号 信心歓喜」なんだ。信心歓喜ってことは南無阿弥陀仏の言われを聞いて計いがなくなったちゅうことなんだ。

諸々の雑行を投げ捨てて

だから名号を聞いて計いがなくなる。これを信心いただくっていうんだ。名号の言われを聞いて私の計いがなくなったってことはどういうことかといったら、今も私は南無阿弥陀仏の計いの中におるということなんだ。私の計いがあって、阿弥陀様の計いがあって、そんな世界じゃないんだよ。私の計らいで仏になれないから今までこうやって迷ってきたんだろう?まだこれから先も私の計いを頼みとするのか、それとも私の計いは捨てて、だから「諸々の雑行を投げ捨てて」、ってことは雑行の「雑」ということは計いが混じってるって意味なんだ。

「一心に彌陀に帰命すれば」、というのは、南無阿弥陀仏の本願成就ひとつを頼みとするってことだ。これが「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」だ。「乃至一念」を「憑む一念の時」と読んだのが蓮如上人なんだ。

今ね領解文が問題になってるけど、領解文を問題にしたのは布教師が悪いんだよ。私ははっきり伝道院でそう言ってきたんだ。

どんなにいい説教をしても、領解文最後読んだらね間違うんだよ。なんで間違うかというと、「たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定じじょうとぞんじ……」と言ったら、現代人はみんな「たのむ」を「お願い」と読むからね。だからお願いがいらない救いだろう?無条件なんだから。助けてくださいというより先にもう無条件の救いができてるのよ。

だからこっちはありがとうございますしかないんだ。助けてくださいないんだよ。これがね憑む一念だからね。諸々の雑行を投げ捨て、私の計いを捨ててそれで一心に彌陀に帰命すれば、ってことは、南無阿弥陀仏の名号六字の働ひとつを憑みとするならば、もうそこに信心歓喜 乃至一念の計いが取られる。計いが取られたらどうなるってことは、アミダの計いを生きるんだ。

憑む

信心いただくってことは、アミダの計いを生きるってことなんだ。憑むってことは受け持ちが変わるんだ。お姑さんが台所やってる。で、一緒にお嫁さんと料理作ってね。でだんだん料理がお嫁さんがうまくなってきて、ようやくそのうちの家庭の味が出せるようになりましたというところで、お姑さんが明日からあんた台所頼んだよって言うんだ。

頼んだよってことはどういうことか?台所の要するにあの台所やってるのがお姑さんからお嫁さんに変わったってことだろう。ってことは、お嫁さんの世界になったってこと。

だから弥陀を憑むって言って、阿弥陀様に任せる。阿弥陀様憑みました、お任せいたしましたよってことは、私の人生が私の計いの人生から阿弥陀の計らいの人生に変わるってことだ。これが往生浄土ってことなんだ。往生浄土はね、死ぬ時に行くんじゃないんだよ。自力心がなくなったということが、もう浄土参りが始まってるんだ。

大切なのは何かと言えば、自力心がなくなることだ。どこで自力心がなくなるかと言えば、ここでなくなる。浄土真宗の法話は南無阿弥陀仏のいわれを説くものだ。それ以外にない。これをやったのが蓮如上人であり、蓮如上人のご文章には「念仏したら助かる」とはどこにも書いてない。

ダブルスタンダード

しかし、歎異抄を持ち出すと「念仏して助かる」になる。これが現在、浄土真宗の法話におけるダブルスタンダードだ。話の内容はまるで歎異抄で、十八願の「信じて念仏申すものはみなお浄土に生まれる」という説教が多い。十八願を信じて念仏申すものは浄土に生まれると説教されたら、当然ながら「十八願を信じて念仏申しましょう」としか出てこない。これでは自力他力のけじめが立たない。

南無阿弥陀仏のいわれを聞いたら、すべて私が仏になる用意は阿弥陀様の方で整えてくださっているのだ。整えてくださって無条件で救うと言って任せよとおっしゃる南無阿弥陀仏のいわれを聞いて、こちらの計らいがなくなったのを「信心いただいた」という。これが中心だ。

後に出てくる「機の深信」とは何かと言えば、阿弥陀様がどんなものを救うかということがここに出てくる。前世の行いによって障害を持って生まれてきたり、貧乏に生まれたりする。お金持ちは布施をするべきで、お金を持ってない人が持ってる人に布施をするのが仏教の基本だ。

お金持ちとお金持ちでない人が生まれてくるのはしょうがない。前世の行いがこの世の中を作っている。お金持ちに生まれる人は前世の行いがあるのであり、そうでない人はその結果だ。それでもまだ人間に生まれたから良かったという話だ。これが阿弥陀様の救いの目当てである。

自業自得

貧乏なのは自己努力が足りないという政治家がいるが、この人は自業自得を間違って考えている。収入ある人と収入のない人の格差を是正しようとしない。この人は間違った仏教を聞いている。自業自得と言って貧乏な人間をしょうがないとするのは間違いだ。政治家としてそういう考えでやってほしくない。

自分の延長線上に考えて、お金がなくて困ってる人は自分だ。今、自分がいっぱいあっても明日からなくなるかもしれない。過去の前世にそういう時があったかもしれない。ここに書かれてあることは他人の話ではない。私の過去、現在、未来の話であり、すべて私一人の話になる。

「業」の話は人の話に持っていくと差別が生まれる。全て私の話として納得することで「業」の話が理解できる。どのような生活をしているものであろうとも、阿弥陀様の救いは無条件である。明日まで聞く必要はない。今日聞いて今日で終わりだ。無条件だから一生懸命聴聞する必要はない。阿弥陀様が一生懸命だからだ。阿弥陀様の一生懸命で私は仏になる。これが他力だ。

何もしなくてもいいのかというと、何もしないやつはダメだ。
お礼をしなければならない。
阿弥陀様の一生懸命で救われる。だから、お礼として南無阿弥陀仏のお念仏を唱える。これが話の結論だ。


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青樹謙慈(アオキケンヂ)
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