戒厳令下の韓国で起きた悲劇、光州事件を描いたマンガ『望月(マンウォル)』
12月3日に韓国の尹大統領(尹錫悦=ユン・ソンニョル)が発令した戒厳令。
戒厳令自体はすぐさま国会に集結した議員たち(と市民たち!)のおかげで数時間の内に解除となりましたが、その後の動きは今なお進行形。連日報じられる韓国の騒然とした雰囲気に、私もマンガを読む手が止まっております。
もっともらしい顔で尹大統領が口にした「戒厳令」という言葉、そして「反国家勢力から国家と国民を守る」という大義名分で真っ先に連想したのは光州事件です。私にとってこの事件は知識であり、記憶ではありませんが、記憶として光州事件を連想する方であれば尚更のことだっただろうと想像します。
韓国の報道を2つご紹介させてください。
1つ目は、戒厳令が出されてから間もなく「自分のおばあちゃんからこんなメッセージが来た」とSNSに公開されたキャプチャ画像です。
もう1つは韓国の放送局、MBCのニュースです。これもほぼ同じタイミングだったでしょう。軍隊の前方部隊にいる現役将校に、父親が電話をかけて伝えた内容が報じられています。リンク内の動画、49秒から一部を翻訳します。
お父さんの声に切迫した様子が伝わりますが、インタビューによれば、戒厳令ですぐに息子さんのことが浮かんで足がすくんだそうです。「本当にどうなるか分からない」、「息子の声だけでも残しておかなければ」と思い、通話を記録したとのこと。
報じられているのはこの2つに限りませんが、どれも「戒厳令」という物々しい言葉に、戸惑いや漠然とした不安を感じるのではなく、非常に具体的な恐れを感じている点で共通しているように見えます。
先程も書いた通り、私にとって光州事件は知識です。この事件は韓国映画でも文学でも繰り返し描かれているので、それらの作品のいくつかにはすでに触れ、またこれからも触れていきたいと思っていますが、私が一番最初に触れたのはマンガでした。
もし光州事件のことを知りたい、マンガで読みたいという方がいらっしゃれば、自信をもっておすすめしたい作品があります。
マンガ『望月(マンウォル)』について
私がこのマンガに出会ったのは、自己紹介の記事にも書いた、2015年の留学生活の期間でした。私は延世大学の語学堂に留学したのですが、留学生も利用できる大学図書館に韓国マンガの書架があり、その中に並んでいたのです。当時の私は今のように韓国語を読むことができませんでしたが、この表紙は印象に残りました。
若者が主人公のように見えるので、青春モノ? でも若者が銃を持ち、反対側で銃を持つ人物も若者のように見えます。戦いモノ? 誰と誰が? 背を向けた怪しい男がいっそ『デス・ノート』における死神や『ジョジョの奇妙な冒険』におけるスタンドのように派手なキャラクターであれば少年マンガのような面白さを予想したかもしれないのですが、それにしては男の怪しさがリアル。
一言で言えば、何のマンガか分からない、飲み込みにくい表紙でした。
私の表紙予想が本来の的中率(?)を発揮できなかったのも無理からぬことでした。というのも本作は、日本ではあまり見かけない「最近の歴史的事実を描いたマンガ」、そしてそういった歴史モノにありがちな説明文過多の形式ではなく、あくまで「ダイナミックなマンガ表現」で読者を物語に引き込み結末まで連れて行く、私にとってはそれまで読んだことがないマンガだったからです。
本作で描かれる歴史的事実とは、1980年、韓国で国家が市民を暴力で制圧した光州事件です。事件が5月18日に始まったことから、韓国では「5.18(オー・イルパル)」、または「5.18光州民主化運動」と呼ばれるのですが、日本でも公開された映画『ソウルの春』で描かれた全斗煥(チョン・ドゥファン)の軍事クーデターが1979年12月12日ですから、あの半年後に韓国で何が起きたのか、何を避けるためにチョン・ウソンはファン・ジョンミン率いる反乱軍に最後まで一人抵抗を続けたのかが描かれた作品と見てもよいかもしれません。
光州事件について人々が記憶する国家の行い、市民たちの行いが真正面から描かれた本作、それだけでも読むに値するとまずは言っておきますが、この作品が優れているのは話運びのうまさ。
話は現代から始まり、現代の若者が自分の人生を取り戻すため、やむをえず光州事件について調べていく構成をとっています。光州事件がいくら韓国の歴史的事件といっても、過去は過去として関心がない若者が多いのも事実。そして光州事件は実際に、事件当初から偽の情報が国民には伝えられ、事件でおきた被害者の正確な数も、未だ明らかにされていません。
事件に関する認識の違いで、現代の若者が言い争う場面を引用し、一部だけを翻訳します。
現代と並行して描かれるのが、本作の核心である1980年5月の光州です。
武装した軍人と、それを恐れずに立ち向かう市民たち。勿論この中に本作の主人公もいることはいるのですが、主人公が勇敢な市民ではなく、臆病な青年に設定されているところに意表を突かれます。
この直後に惨劇が起きる光州で、青年セファンが結局何を見て、何をするのかはここでは書きません。本当を言えば、お話も一から終わりまで私が語りきってしまいたいくらいなのですが、私の目的はあくまで「面白そうと思ってもらうこと」、そして「本作の邦訳版を出したい出版社さんにお会いすること」なので…。ストーリーの紹介はこのくらいにしておきましょう。
あとは本作が、史実マンガとしての簡潔な語り、読みやすさを備えたことが分かる数ページを引用して今回の記事を終わりたいと思います。光州事件直前までの激動の過程が、現代の青年の目線で語られる場面です。
ここに出てくる内容は、近年日本でも公開された映画『KCIA 南山の部長たち』、『ソウルの春』で語られた出来事でもあります。何より、最後のページで登場する第1空挺部隊は、今回の尹大統領の指示で国会を制圧しようとした部隊でもあるわけで…。現代史を扱った作品ならではの生々しさ、恐ろしさがしっかりと伝わってきます。