ボブ・サムの語った物語 - クリンギットの人々にとって「森に還る」とは
ボブ・サムさんはアラスカ先住民クリンギット族長老、墓守、語り部。アラスカの自然写真家故・星野道夫さんと親交が深かったことでも知られています。
2019年夏にボブさんは来日し、巡礼した各地で『森に還ったワタリガラス Raven Walks Into The Forest』という物語を語りました。
「森に還る」「森に歩み入る」(walks into the forest)とは、クリンギットの人々にとって死を意味するとのこと。日本語の「土に還る」とか「夜空の星になる」などという暗喩に通じる表現なのでしょうか。
親友であった星野道夫さんの死を「ミチオも森へと還ってしまった」と、ボブさんは振り返っていました。
他方、「森に還る」には単純に「死にゆく」ことだけではない。他にも大切な意味があることを、ボブさんは物語『森に還ったワタリガラス Raven Walks Into The Forest』を通して教えてくれました。
ボブ・サムさんが日本各地で語った物語『森に還ったワタリガラス Raven Walks Into The Forest』
ボブさんが語った物語『森に還ったワタリガラス Raven Walks Into The Forest』はこんなお話です。
村の人々は困窮していました。先人からの教えを忘れ、自らの生き方を見失っていました。かつてこの村に突然現れ、戦士たちの命をいとも簡単に奪ってしまった大男の言い伝えも、すっかりと忘れていました。
その村のある若い男は、毎日のようにギャンブルに興じていました。やがて持ち金をすべて使い果たし、家も失い、家族も、妻さえ失ってしまいました。
悲しみに打ちひしがれた若い男は、森へと歩んで行きます。いくつもの山を越え、さらにもう一つ山を超え、ジグザグの山道を何日も歩き続け、ついに大草原の中にポツンとある家を見つけました。
若い男は扉に空いた小さな穴からそっと覗き込むと、大男が背中を向けて座っているのが見えました。
果たしてその大男の正体は…?
若い男が森の中で体験したことは…
最初にこの物語の原稿を読んだとき、僕はこの若い男は、希望を失い、自暴自棄となり、森へ入っていったのではなかろうか、もしかしたら森で自死を図るつもりだったのではと思ってしまいました。ボブさんは首を大きく振り否定しました。
なぜなら、この男は幾重もの山を乗り越え辿り着いた森の中での出来事によって、精神的に開眼し、飢えに苦しむ村人のもとに再び戻り、たくさんの大切なものを持ち帰ることになるのです。それは彼にしかなしえない重要な役目でもありました。
山中に分け入り、浄化し聖化する
2021年1月に映画『天鹿(ししかみ)・渡鴉(わたりがらす)巡礼 - 森に還ったワタリガラス』が完成し、僕は幾度となくこの物語を聞くようになりました。
やがて僕は、森へ深く歩み入った若い男の姿が、山岳で修行を行う修験者、山伏の姿に重なるようになりました。
遠いむかし、日本の民間信仰では、死者の霊魂は仏教の説く西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)などへは行かず、もっと近くの山中にこもって、盆や正月や彼岸には自分の家に戻ってくると考えられていたそうです。
「山」には死者の魂が住むと信じる日本の先人たちの信仰は、クリンギットの人々が死者は「森」に還って行くと信じることに、通じるものを感じます。
また、日本の先人たちの山岳に対する感情は、死者の行く「恐ろしい場所」と、死者の魂が安定する「親しい場所」の両極をあわせ持っていたとも言われているそうです。
クリンギットの人々の森に対するイメージも、生と死の両方をあわせ持つものなのではないでしょうか。
▲立石光正氏(和歌山県熊野・山修山学林)
山伏たちが山に分け入るのには、次のような目的があったとも言われています。
歩くだけでも多くの病気は癒されるのである。ただ漫然と歩くのだけでなく、(中略)自覚的に山中に分け入るならば、(中略)そこに浄化や聖化と呼ばれる現象が発生するのである。
環栄賢(たまきえいけん)著『熊野学事始め ヤタガラえスの道』より
ボブさんが日本各地で語った物語『森に還ったワタリガラス Raven Walks Into The Forest』。森へと歩みを進めた若い男の心が、山岳修行へ厳しい山道へ分け入る山伏の心と重なって見えてきます。
クリンギットの物語と、山を神聖視し崇拝の対象とする信仰する日本の山岳信仰は、深い根の部分でしっかりとつながっているのかもしれません。
映画『天鹿・渡鴉巡礼 - 森に還ったワタリガラス』で、ボブさんの物語を体感してください。
※ボブ・サム 奈良裕之ドキュメンタリー映画『天鹿・渡鴉巡礼 - 森に還ったワタリガラス』公式サイト