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スーパーゼネコン、なんで入社して、なんで辞めたんだっけ②

入社してから(東京編)

研修は東京のちょっと良いホテルに1か月宿泊しながら、昼は研修、夜は同期と東京ど真ん中で飲み会といった感じ日々だった。まだ世間を知らない若造に対して、「大企業に入社したぞ」という自尊心をくすぐり、愛社精神を植え付けるための研修だったんだろう。と今は思う。

最初の配属は東京の大学改修工事の現場だった。
与えられた1Kの借り上げ社宅は都内にあって不便はなかったが、通勤に1時間半を要した。
現場は小規模なもので、再雇用されたばかりの61歳の所長の下に37歳の主任が一人、派遣のおじさんが一人という体制だった。(当時だいぶおじさんに見えていたあの主任と同い年か。。。)
私立大学の工事ということもあり、発注者に土木技術者もいないことから互いの信頼関係のみで品質や出来栄えを保証しあうような特殊性で成り立っていた。
土木技術的な深みや、輻輳する現場の工程調整、発注者対応などは少なく、相対的には暇な現場だったと思う。
それでも通勤時間が長いこともあって、日常のルーティンとしては、朝は6時前に家を出て、帰宅するのは22時のような感じだった。週に1回くらいは帰宅する気力を失って、現場近くのカプセルホテルに泊まり、睡眠時間を稼いでいた。

この現場は1年程度で異動となった。(新入社員を長く置くべき現場ではないとの意見が社内を飛び交っていたよう。。。)
NEXCOの新しい高速道路を作る大規模現場への配属が決まった。

次の現場は元請け職員だけで、事務CADオペさんなんかも全員含めると100人くらいいた。工事の進捗も芳しくなく、輻輳する現場の中で皆必死で働いていた。私も2年目にしては経験が少ないことを負い目に感じていて、少しでも役に立とうと必死で働いた。
日常のルーティンとしては、6時半に家を出て帰ってくるのは23時、終電を超えることも多く、ピーク時は週の半分くらいは事務所に寝泊まりしていたような、、、
ここには4年間いることになる。自身の能力が高くないことを思い知らされることも多かったが、安全、工程、品質、出来形管理、関係者とのコミュニケーション方法など多くの成功と失敗を経験することができた。
それでも、現場が大規模すぎて2~4年生など所詮兵隊。3年目にもなると与えられた業務をひたすらこなすだけとなっており、このままではまた成長できないまま時間が過ぎてしまうという焦りを抱えるようになった。

と、ここまで書いてきたが
実は1年目から既に辞めたいと考えていた。
あまりの自由時間の少なさ、目に入るさらに忙しそうな諸先輩方の姿。いくら給料をもらってもこれをあと40年続けていく自信が持てなかった。
建設業はどこを見渡しても大変そうだ。だけど、土木技術者が再就職できる先なんて、公務員しかないだろうな、給料は下がってしまうが。。。そう思い、公務員試験の参考書も手に入れ、機を見て受験したいと考えていた。
学生時代、進路を最後に決定したときに心に決めていた、プロジェクトXへの決意などこの程度のものだ。
しかし、そもそも勉強時間なんて微塵もとれる気がせず、公務員への転職はぼんやり考えているだけの状態だった。

一方で4年目に入るころには、日々状況は厳しいながらも、また少しづつではあるが現場の楽しさややりがいも実感できるようになってきていた。仕事は続けざる負えないし、続けることもできるかもしない。そんな心境になっていた。

そんな中、土木技術者としての成長を求めて自ら異動を志願し、5年目の春次の現場が決まる。

その③へ続く

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