Lizette~オーダーケーキは食べないで~ 第一話 誘拐容疑の向日葵
大きなティースプーンの杖を持った少女はパティシエを思わせるドレスを着ていた。翻る短いスカートは芸術的なケーキのように豪華で美しい。身体のラインが分かるデザインだがいやらしさはなく、彫像のような完成度だった。
物語のお姫様を思わせる姿は平凡な日常の中では異様だったが、その少女にはよく似合っていた。顔立ちに幼さは残るが紅茶色に透き通った瞳は意志の強さを感じさせる。たおやかな微笑みは気品すら感じた。
少女はとろりとしたミルクティのような長い髪を耳にかけ、ティースプーンの杖を掲げる。
「オーダーケーキを作りましょう」
ティースプーンの杖が振り下ろされると星屑が舞い、蠢く生クリームは溶けて床に広がっていく。少女が踊るように杖を振り回すと宙に飛びあがり、星屑と踊りながらバタークリームの立体花に形を変える。
踊り終わると、芸術品となったケーキが少女の手のひらで踊るようにくるくると回っていた。私は愛らしくも美しい光景に釘付けになっていた。
葵が遠野翔と出会ったのは、大学に入学して数日経ったころだった。
サークルの勧誘が始まり、種類の多さと華やかに目移りをしていた。運動系はどこそこの大会で優勝した――と、充実した指導と真面目な活動をアピールをする者が多い。逆に自由さや交流の多さをアピールするサークルも多かった。
受け取った大量のチラシに目を通していると、仲良くなったばかりの友人が勢いよく抱き着いくる。
「わっ!」
「葵! サークル決めた⁉ まだ決めてない⁉」
「歩美~。あぶないでしょ。肩を叩くとか声をかけるとかにしてよ」
「ごめんごめん。で! サークル決めた⁉ 決めてない⁉」
「決めてない。無趣味なんだよね。けど交流目的のとこはいる人によるから抵抗あって」
「ふふ~ん。それなら葵にぴったりのサークルがある!」
「断る」
「ちょっと。聞いてから断ってよ!」
「断る! どうせ園芸系でしょ! この流れは昔からお決まりなのよ!」
「あ、やっぱり? さすが向日葵ちゃん」
「むかいあおい! ったく! 名前と趣味は一致しないの!」
葵の苗字は『向日』だ。面白がった親が『葵』とつけたせいで、フルネームの文字列は『向日葵』となり、付けられるあだ名はほぼ『ひまわり』だった。黄色い服を着てれば向日葵みたいだと言われ、暗い顔をしていれば向日葵なのにと言われる。学校では植物関係の委員会や活動に推薦され、やりたくもないことばかりをやらされてうんざりしていた。
「どいつもこいつも同じこと考えてくれちゃって!」
「今回は違うの! ぜーったい入る気になる! とりあえずチラシ貰うだけでもさ!」
「えー! 嫌だってば!」
抱き着いたままの歩美にひきずられ、人付き合いだと諦めて園芸サークルへ向かった。チラシなんて捨てればいいだけだ。しかし、チラシを受け取り葵の考えは一転した。
「園芸どう? 入らない?」
「入ります」
「よっしゃ。じゃあ気が変わらないうちに入部希望書いちゃって」
葵は即答した。見たのはチラシではなく、配っていた男子生徒の顔面だ。屈託のない笑顔は太陽のようで、爽やかな微笑みに心をつかまれた。流れるように名前を書いていると、歩美がぽんっと肩を叩いてくる。
「四年の遠野翔先輩。園芸サークル総勢五十名。新入生の入部希望は二十人越え」
「は⁉ なにそれ!」
よく見れば、翔は女子に囲まれ人数は増え続けていた。全員チラシなど見ていなくて、愚かしい姿に自分が重なり苦笑いを浮かべた。
「完全にモブじゃん……」
「そ。でもほら、葵は名前ウケるから。台詞のあるモブにはなれるよ」
「確かに」
葵は名前の横に向日葵のイラストを描いた。向日葵のような笑顔で翔に書類を渡すと、翔は太陽のように眩しい笑顔を向けてくれる。
「すごい。園芸の申し子じゃん」
「じゃあ先輩は太陽ですね。向日葵を引き寄せた太陽!」
「あはは。いいね。うちのサークルみんなで夏祭り行くんだけど、本領発揮できるじゃん」
「ええ? なんのですか」
「それはもちろん、向日葵の。お祭りを明るく演出」
人生で似たような台詞を何度も言われて辟易していたが、今日ばかりは名前に感謝だ。
だが葵自身に興味を持ってもらえたわけじゃないのは分かっている。翔はすぐに他の生徒へ笑顔を向け、次々に入部届を獲得している。台詞はあってもモブはモブだ。
それでも葵は翔から目を離せなかった。地上からは届かない太陽を見つめる向日葵の気持ちがわかった。
いざ園芸サークルの活動が始まり三か月経つと、二十人以上いた新入生は葵と歩美を含めて五名に減っていた。翔はまったく顔を出さない幽霊部員だったからだ。
「翔先輩ってなんでこないんですか……」
「十歳の弟が病気で入院してるんだって。毎日病院に通ってるから、授業も最低限しか出席してないよ」
「うちの大学選んだのも、資格とれば単位になるからなんだと。漢検とか英検とか、すげーハイレベルなのいっぱい持ってるよアイツ」
「へ~……そりゃこんなお茶会サークルには来ないですよね……」
「こんなって言うな。お茶会ではなく植物鑑賞会と言え」
「会費で花買うのは園芸とは言わないのでは?」
園芸とは名ばかり、活動内容はほぼお茶会だった。翔先輩は行事の客寄せ要員で、日々の活動にはやってこない。先輩は全員男で翔先輩のおこぼれにあずかるのが目的らしい。しっかりグループチャットが組まれていて、必然的に連絡先を交換することになる。
残念ではあるが、モブが減ったとポジティブにとらえて歩美と二人でサークルに通っている。それに、夏は一大イベントがある。勧誘のときに聞いた夏祭りだ。
「夏祭りは全員参加なんですよね! それは来ます⁉」
「一応誘うけど来ないよ。でも写真は送るから浴衣姿を見てもらうチャンスだぞ~!」
「マジですか! 葵! 浴衣買おうよ! 向日葵でお揃いにしよ!」
「歩美、完全に私をダシにしてるよね。安いレンタルでいいよ」
「でも効果あるかもよ。新入生の顔と名前覚えたの、向日さんが初めてだよ」
「えっ! 本当ですか⁉ やった! 有難うお父さんお母さん!」
「げんき~ん。名前イヤだって腐ってたくせに」
「いいことなかったんだもん。でも初めて役に立った。よーし、向日葵の浴衣探そう!」
先輩たちに乗せられて、新入生女子五名は全員参加を決めた。葵は歩美と向日葵の浴衣を探し回ったが、翔からはグループチャットに『不参加!』とシンプルな断りの返信が届いた。
先輩たちは「翔がいなくても俺達がいるだろー」と盛り上げてくれて、なんだかんだ新入生は先輩と距離を縮めているようでもあった。
だがお祭りの前日、葵はモブから主役級へ躍り出た。翔から葵だけにチャットが届いた。グループチャットではなく葵個人にだ。内容は不参加のときよりも多い文字数を使っている。
『やっぱり行きます。場所が分からないので十五時に改札まで迎えに来てくれませんか。一人で来てほしいです』
突然の参加表明、それも葵だけに連絡をくれたことに飛びあがった。即座にグループチャットで報告すると、女子生徒はずるいと嫉妬を叫んだ。男子生徒も衝撃を現すスタンプを連投し、葵は優越感で笑いがこぼれた。
「一人で来てって、そういうこと……いや、なんとなくの可能性も高い……でも……」
ぶつぶつ問答を繰り返しながら、初めて買った黒地の浴衣を見ると向日葵が咲き誇っている。子どもっぽくならないように、水彩で絵画のようなタッチで描かれた向日葵にした。
「どうせダメもとだったんだから! 最初で最後と思ってやってやる!」
ガッツポーズで気合を入れ、明日に備えて早めに就寝した。
そして翌日、お祭り当日の八月十五日十四時半。日差しが熱気を煽り、日中を過ぎてもほんのりと汗をかく中で葵は改札でスマートフォンをいじっていた。モニターに表示されているのはチャットアプリだ。上部の氏名欄には『遠野翔』と表示されている。待ち合わせより少し早いので、まだ連絡はない。
顔を上げ周りを見ると、まばらだが浴衣姿の人々が歩いている。家族連れの子供ははしゃぎ、女性の複数連れはお互いの浴衣を褒め合っている。とくに気になるのは仲が良さそうな男女だ。二十歳になるかならないかという外見で、笑いながらどの屋台を回るかを話し合っている。寄り添う距離感は恋人であると予想できた。
「……私と翔先輩もあんな風に見えるかな」
恋人ぶりたい想いを口にすると、押し寄せる現実にため息が出た。待ち合わせをしていても、実際はサークルの行事であってデートでもなんでもない。浮かれているのは葵だけだ。
「けどただのモブは脱したわよ! 少なくとも神社までは二人きり!」
葵は衆人環視の中で一人ガッツポーズをした。三十分後には翔がやって来る。どんな会話をするか脳内シミュレーションを繰り返す。一分、また一分、時間が進むたびに緊張は高まっていく。
しかし十五時になると葵の心境は少しずつ変わっていった。一分、また一分、待っていた間と同じように進んでいく。だが五分経っても翔は現れない。
「誤差だよね。歩美なんて平気で十五分こないことあるし」
翔が待ち合わせにルーズなのかは知らないが、五分程度なら許容範囲だ。自分に言い聞かせながら待ち続けたが、さらに五分経っても翔は現れなかった。電車が遅延しているのかと思い改札を見るが、電子掲示板はダイヤが通常通り表示されている。
「全然違う路線なのかもしれないしね。バスとかタクシーの可能性もあるわよ」
言い聞かせて待ち続けたが、十五時半になっても翔は現れなかった。葵はチャットで『やっぱり来れませんか?』と送る。だが既読にはならないまま、五分、また五分と経過し気が付けば十五時四十五分になっていた。そこでようやくチャットに通知が来たが、送り主は翔ではなくサークルのグループチャットで先輩からだった。画面には『たぶんこないよ。向日さんもこっちおいで』と書かれていた。
「……来ないって、皆わかっていたのかな。馬鹿みたい。浴衣なんて用意して」
今までは忌み嫌っていた向日葵柄を選んだのは、モブにできる数少ないアピールだからだ。でも意味はなかった。葵はがくりと肩を落として神社で合流した。結局その日は既読が付かず、所詮そんなものかと現実に引き戻された。
それから三日経過したが、相変わらず翔は部室に来なかった。いつも通りだが、一つだけ気になっていることがあった。
授業が始まるのを待ちながらチャット画面を見つめる。返事はきていないが、ないのは返事だけではなかった。
「未読スルー……まさかブロックされてる、とかだったり……」
葵の胸はずきりと痛んだ。私信が届いたのはミスで、未読スルーがモブに対する一律の対応なのかもしれない。それでも真相がわからないので悪い方悪い方へ向かってしまう。ため息は止まらないが、慰めるように歩美が背を撫でてくれる。
「どうせ弟君だよ。あんま長くないらしいじゃん」
「……止めなよ、そういうの」
「でもどうかと思うじゃん。来れないにしても連絡くらいすべきでしょ。弟君がいる限りデートもできやしない」
「だから止めてってば。それにモブなんてこんなもんよきっと」
「強がっちゃって。こんな礼儀知らずの翔先輩はナシ! やめ! 次いこ、次!」
励ましなのか本心なのか、歩美は侮辱する言葉を吐いてきゃははと笑った。会話が聴こえたであろう周囲の生徒は冷ややかな顔をしている。思わずぺこりと頭を下げ、教師が入って来たのを理由に歩美の存在をシャットアウトした。
そしてさらに二日ほど経過したが、学内の様子がおかしかった。妙にざわついていて、誰もが小声で声を忍ばせている。正門を目前にしたあたりで歩美が血相を変えて飛びついてきたが、表情は恐ろしい何かを見たかのように歪んでいる。
「葵! なにのんびりしてんの! 大変よ!」
「もうちょっと落ち着いた登場できない? 突進されるの結構つらいんだけど」
「それどころじゃないって! 翔先輩が失踪したって! 行方不明!」
歩美の叫び声が辺りに響いた。全員がこちらを振り返り、眉をひそめて耳打ちをしている。明らかに不審がられていて、歩美を引っぺがして背を向けた。
「そういうのいいって。この前から感じ悪いよ。私先行くから」
「本当だって! 弟君が死んだらしいんだけど、遺体もないんだって! 事情聴取されてる生徒もいるんだよ!」
「だから!」
いい加減にして、そう叫ぼうとした時だった。とんとんと誰かに肩を叩かれて、振り返るとスーツを来た二人連れの男性がいる。
「向日葵さんですね。遠野翔さんのことで少々うかがいたいことがありまして。お時間よろしいですか」
「……はい?」
歩美はびくっと震えて一歩下がった。まるでドラマのような展開に葵は固まり動けなかった。
葵は警察へ連れて行かれ、スーツの男性二名と個室で座らされた。人生で警察の厄介になることがあるなんて思ってもいなかった。悪いことはしていないけれど、緊張感で指が震える。
「えーっと。もう噂で聞いたかもしれんですが、遠野翔さんが失踪しましてね。八月十五日の十五時前後。あなたと待ち合わせをしてたって聞いたんですが、本当ですか」
「……はい。サークルで夏祭りに行くから待ち合わせてたんです。でも先輩こなくて、私も神社へ行きました」
「待ち合わせ時間と、君が帰ったのは何時?」
「十五時に待ち合わせました。十五時半まで待ってたんですけど、諦めてサークルの皆に合流しました」
「ふうん。最近変わったことはありませんでしたか。妙な素振りがあったとか」
「わかりません。姿を見てもないで」
「少しはあるでしょ。サークルの活動とか、なにかで」
「先輩はサークルにはこないんです。イベントの客寄せ要員で。授業も来てないらしいです。最低限の単位だけで、ずっと弟さんの病院にいるって聞きました」
「ふうん。待ち合わせの連絡の内容見せてもらうことはできるかな」
「はい。どうぞ」
葵はチャットアプリを立ちあげスマートフォンを渡した。警察官は画面をスクロールしようとしたが、やりとりは当日の一度きりなのでスクロールはできない。モニターと葵をちらちらと見比べる様子はひどく腹立たしかった。
「君が悪口を言っていたという話もあるんだけど、それはどう? 弟さんを邪魔に思っていて無理に連れ出したっていう」
「は⁉ 知らないですよ! 言うわけないじゃないですか!」
「ふむ。君としては悪口を言ったつもりはないと」
「つもりも何も言ってません! 言ったのは歩美で、私はやめろって言いました!」
「歩美さんというのは佐々木歩美さんでいいかな。たしか同じサークルだよね。どういうつもりだったと思う?」
「そうです! どういうつもりかなんて歩美に聞いてください!」
この日はそれで終わったが、翌日から葵の日常は一変した。
遠野翔が弟の遺体と共に失踪したという噂は、一日と絶たずに大学に広まり騒ぎとなった。翔は弟を溺愛していたらしく、近しい人間は『やっぱり』と言っていた。きっと遺体と心中したのだと誰しもが思っているようだった。
そんなことすら初めて知った葵は愕然としたが、葵自身の問題は同時に出たもう一つの噂だった。
「ほらあれ。向日葵。弟いなけりゃデートできるのにーとか言ってたんだって」
「全然フツーの子じゃん。あれで人殺しかあ。人は見かけによらないよね」
事実に反する噂と悪意は驚くほどの速さで広まった。無実だというのに、突き刺さる視線と陰口に葵の拳は震えた。
それからも何度か警察はやって来た。間を置かずマスコミも湧き始め、家の前にも大学付近にも記者がやってきた。噂の断片だけが広まり、どういうわけか歩美も陰口を叩く生徒のグループに立っていた。
「歩美! なんなのよ! 悪口言ってたの歩美じゃない!」
「押し付けないでよ! 警察が疑ってんの葵でしょ! 話しかけないでよね!」
遠野兄弟失踪事件の犯人は向日葵である――この噂は真実のように広まった。大学からはやんわりと登校を控えるように促され、授業はすべてリモートで参加することになった。歩美に連絡しても未読スルーなので、おそらくブロックされている。園芸サークルのグループチャットからもはじき出され、大学の友人へ連絡しても返事はなかった。
葵は居場所を失った。近所でも白い眼を向けられ、外に出ることもままならない。
「なんで私が! 私はなにもしてない!」
つらいことは時間が解決するなんて言葉もあるが、一か月経っても状況は変わらなかった。葵はすっかり引きこもりになり、両親はゆっくりすればいいと言ってくれている。ただ不動産屋と電話することが増え、聞いたこともない土地のマンション情報を集めていた。勤務先企業まで一時間ほどかかる父が「交通の便が良いところに引越したかったんだ」と言い訳を立ててくれたが、罪を認め逃げるようなやり方には腹が立った。
それでも元気づけようと、明るい話題を振って気を紛らわせようとしてくれている。今日ものろのろと夕飯を食べていたが、そうだ、と母が嬉しそうに手を叩いた。
「ケーキ屋さんから招待状が届いてるのよ。すっごく綺麗なケーキでね」
母は笑顔で招待状だというハガキをくれた。載っている写真は真っ白な生クリームの土台に、バタークリームで作られた立体の青薔薇と緑の葉が乗っている。煌めいて見えるのは粉砂糖か金粉だろうか。現実にはありえない色なのにリアルな薔薇は生花のブーケが飾られているようで、芸術品といえる。たくさん並べれば美術館になるだろう。
「素敵……」
「そうでしょう。郵便局のちょっと先にオープンしたみたいよ」
母は宛先の下にある地図を指さした。生クリームのように白いハガキには『Lizette』と金の箔押しがされている。
「リゼット……」
「カフェもあるんですって。行ってみたら?」
「……うん。行ってみよっかな」
美しいケーキに心惹かれ、一か月ぶりに外へ出る意欲を取り戻した。お気に入りのワンピースに着替えて玄関に立つと、母は嬉しそうに見送ってくれていた。
玄関を出ると話したこともない近所の中年女性が二人で立ち話をしていた。葵を見ると嫌そうな顔をして立ち去っていく。こんなのはもう日常だが慣れることはない。遠回りでも人気のない裏道を選び店へ向かう事にした。
「えっと……あれ? この道どれだろ」
パンフレットに乗っているおおざっぱな地図通りに歩いて行くと、あるはずの道がなく、ないはずの道があった。裏道を選びすぎて間違ったのかときょろきょろしていると、ふいに白い服を着た女性が見えてきた。道を聞いてみようかと思ったが、異様な姿に足を止めた。
「なにあの人。全身生クリームじゃない」
白い服に見えたのは生クリームだった。身体にどっしりと生クリームを乗せている。身体を覆う生クリームの下には、寝起きのように皺だらけの黄色いシャツを着ている。顔は地面と垂直になっていて、長い髪がカーテンになり顔を隠している。背骨を曲げて地面だけを見つめて進む様子はあまりにも気味悪かった。とても声をかける気になれず距離を取ったが、進む方向が同じらしく後を付けることになってしまう。追い抜いてもいいが、後ろから突進されるほうが怖い。
重い足取りで生クリームの女性の後ろを歩くと、十分ほどして地図の示すLizette近辺に辿り着いた。
「この辺のはず――……きゃっ!」
地図から顔を上げると、唐突に教会のような小さな建物が視界に飛び込んできた。住宅地には馴染まない建物の登場に瞬きを繰り返す。
「こんな建物あったっけ。工事なんてしてたかな……」
ここはまだ葵の家からほど近い。引きこもっていたから準備していたかはわからないが、工事の音は聞いていない。そこまで世間に無関心だったつもりはなかったので首を傾げたが、生クリームの女は迷わず教会へ入って行く。
「大丈夫なのかな。なんか怪しいけどこの教会……あれ?」
教会の大きな扉には『Lizette』という金文字だけの看板が付いている。葵が目指すオーダーケーキ店の名だ。
「え、まさかここ?」
驚いて顔を上げると、扉の前にはいつのまにかパティシエのようなドレスを着た少女が立っていた。物語から出てきたお姫様のようで、見惚れていると少女は葵にすっと手を伸ばす。
「あなただけのケーキを作るわ。向日葵の笑顔を取り戻す太陽のようなケーキを」
「……え?」
少女は葵と翔を思わせるような言葉を言って、ヒールをカツンと鳴らして近付いてくる。柔らかい声は、紅茶に注がれたミルクのように葵の中へ溶け込だ。
「オーダーケーキLizette店長のリゼットよ。さあ、どうぞ」
ゆるりと差し出された白い手を、葵は無意識のうちに握り返していた。
ミルクティのような髪にいざなわれ中へ入ると、内装はお城のようだった。外から見た印象よりも天井が高く、フロアは壁のない大ホールになっている。耐震性が不安になるほど大きな窓があり、大きいだけあって光がたっぷりと差し込んでいる。シャンデリアや装飾に派手さはないが上品で涼やかだ。座席は壁際にテーブル席が六個点在しているが、テーブル板はケーキとティーカップをぎりぎり置ける程度の大きさしかない。客をもてなす気があるようには思えないが、店内の雰囲気にはよく馴染む。
中でも一番目を惹くのは中央に聳え立つ巨大な柱だった。ショーケース代わりなのか、ぎっしりとケーキが並んでいる。
「全部違うケーキだ。オーダーケーキってそういうこと。本当に美術館みたい……」
圧倒的なケーキ群に見惚れていると、すっと一人の青年が近づいて来た。黒髪に黒い目、黒いシャツに深いブラウンのタイ、黒いロングエプロンをしている。ブラックコーヒーのような黒尽くめはスタイリッシュで、生クリームのように白い店内にはフィットしている。端正な顔立ちはこの店のために作られた芸術品のようにも思える。
「お待ちしておりました。お座席にご案内します」
「は、はい……」
青年は深くお辞儀をし、令嬢をダンスに誘うかのように手を差し伸べてくる。洗練された動きは物語に出てくる騎士のようだ。騎士様にお姫様扱いしてもらえるのは悪くない。葵はそっと青年の手を取ると、流れるように座席へエスコートされた。
これほど美しい店と店員なら行列になりそうなのに、客は先ほどの生クリームにまみれた女一人だけだ。貴重な客かもしれないが、奇妙な姿は店の品位を下げる。
女が視界に入らない座席がよかったなと思っていると、リゼットが生クリームの女の前に立った。手には紅茶の入ったティーカップを持っていて、女にそっと差し出し立ち会話をしている。内容は聞き取れないけれど、生クリームの女はこくんと小さく頷いたのが見えた。リゼットは優しく微笑むと、ティースプーンの杖を掲げた。
「オーダーケーキを作りましょう」
リゼットはティースプーンの杖を振り下ろした。すると女性客の身体に乗っていた生クリームがとろりと溶けていく。リゼットが杖でトンと突くと宙に飛びあがり、杖から溢れる星屑と踊りながら固形になる。リゼットも踊るように杖を振り回し、その度にぽんぽんとバタークリームの立体花が出来上がっていく。
リゼットが踊り終わると、芸術品となったケーキがお姫様の手のひらの上で踊るようにくるくると回っていた。
「保管期限は一ヶ月。願いが叶うことを祈っています」
リゼットに頬を撫でられると、生クリームの女は支払いもせずに店を出てしまった。まさか生クリームの女は店員で、すべて演出だったのだろうか。それにしても生クリームが宙を舞いケーキになる、魔法のような調理はどんなトリックがあるのだろう。
まったく想像がつかずぽかんと口を開けていると、リゼットがくるりと葵を振り向きに微笑んだ。
「オーダーは決まったかしら、向日葵ちゃん」
大きな紅茶色の瞳に見つめられ、葵の胸はどきりと大きな音を立てた。甘やかなリゼットが放つ星屑が濁った葵の心を照らしているのがわかる。
ファンタジーのような光景に、葵の胸も煌めき始めていた。
(第一話 終了)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?