「不思議ちゃん」からの脱却
ーいち、にぃ、さん、し、ごー、ろく、しち、はち。
小さい子供が数を数えている場面を想像してほしい。覚えたての数字をまだおぼつかない様子で声に出す姿は、大人から見るととても微笑ましいだろう。
ーいちは、はいいろ。には、きいろ。さんと、ごはあおで、よんはあか。
子供のひとりごとがこう続いていたらまずどう感じるだろう。何か保育園で見たおもちゃに描かれた色を思い出しているのかな、記憶力がいい。この子はかしこく育つのかもな、などと将来に期待を膨らませることもあるかもしれない。
では次はどうだろう。
ーにはね、かわいいおんなのこ。さんはおとこのこで、ごとなかがいいの。でもはちはきらい。こわいおんなのひとだから。
今度は色ではなく性別がついている。しかも、そこにはその子の感情も乗り、可愛いだとか、怖いだとか言い始めたのだ。それを聞いた大人はどうする?
大人は何を思う?
この子に、なんと声をかける?
私の共感覚は、まさにここからだった。子供ながらにあまり言って大人がいい反応をすると思わなかったからなのか大々的にいうことはなかったが、3歳のころからこんなふうに数字が見えていた。
色、までは大人はなんとか理解できるかもしれない。この世は色であふれているし、知育玩具はカラフルで、子供の意識の中に入り込んでもなんら不思議ではない。だけど、性別は?
8が怖いなんて言われたら、大人はどう思うだろう?
今私が大人になって、共感覚という言葉を知り、数字に性別があることを話すと周りはみな「面白い」という反応をする。そうだ。面白くていいのだ。共感覚を知っていて、面白い反応を見せるんだね、それでいいんだ。
だけど、共感覚を知らないと、大人になっていないと、
こういったことをいう子供に無意識に、時に残酷に、傷つけてしまう言葉を言ってしまうことがあるのだ。
先日アベプラに共感覚アーティストとして生放送に出演した。Youtubeが見れたので後から見てみるとコメントには私がさんざん言っている
「不思議ちゃん」の言葉がずらりとあった。
「不思議ちゃんにまで配慮しないといけないの」
「はいはい、見える見える。」
私が印象的だったコメントだ。まさに、共感覚当事者の苦悩の一つ「周りに理解されない」がここに詰まっていると感じた。
冒頭で出したこの女の子が、もし誰かに向けて数字の話をしたらこんな反応をされるんだ。だって、共感覚はまだほとんど理解されていないのだから。
今はいろいろな特性が注目されてきていて、様々な配慮をされている。私は、配慮を促すために共感覚を伝えているのではない。共感覚に触れて、知ってほしいのだ。こんな感覚があると知識の一つに加えてほしい。それだけなのだ。それだけで傷つかない子が増える。それだけで、救われる人がいる。
たったそれだけのことを、ずっとずっと伝え続けているのに、なかなか世間は難しくやはり「不思議ちゃん」という言葉で片付けられてしまうのだ。
どうすればいいだろう。どうすればもっと認知されるのだろうか。
山口葵