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【三国志正史】07曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 199年河北進軍~200年董承の反乱(三国志 正史)


公孫瓚滅亡(199年)

曹操袁紹は、これまで多少の対立はあったものの、基本的には協調関係にあった。

しかしこの年、曹操と袁紹の衝突が不可避となる大きな転機が起こる。
公孫瓚の滅亡である。

袁紹は長いこと北方の公孫瓚と戦い続けていた。
だからこそ南方の曹操とは協力してきたわけだが、この年、ついに易京を攻略して公孫瓚を滅ぼした。
北方を平定した袁紹が南下するのは確実となった。

袁紹は、曹操のもとに公孫瓚の首を送った(公孫瓚伝注『魏略』)。

鮮于輔の帰順

幽州では、公孫瓚と対立する勢力として鮮于輔がいた。
基本的には劉虞の勢力を引き継いでいたようである。

鮮于輔は袁紹と協力して公孫瓚と戦ってきた。
この戦いの中で、鮮于輔は幽州の遼西以西を制圧したようである。
あまり知名度はないが、この時点での群雄としてはかなり大規模な方だろう。

公孫瓚との戦いが終わると、鮮于輔は曹操に帰順した。袁紹との対決路線である。
曹操への帰順は、配下の田豫が提案した。

鮮于輔は建忠将軍に任じられ、幽州六郡の統治を認められた。
幽州牧としなかったのは、公孫度への配慮だったのかもしれない。

遼東の公孫度

幽州の東部・遼東は公孫度の勢力下にあった。
公孫度は董卓に任命されて遼東太守となった。以来、中央の動乱とは距離を置いて勢力を築いてきた。

一時期は、海を渡って青州東萊郡も支配下に入れていたが、この頃には袁紹に奪われていたようである。

曹操は、公孫度を武威将軍に任じた。
曹操としては、青州方面の袁紹軍に対する抑えとして期待したのかもしれない。
公孫度自身は独立国の王を自任していたので、曹操からもらった印綬をしまいこんでしまった。さほど曹操に協力するつもりはなかったようだが、かといって袁紹方につくこともなかった。

張楊の死、眭固討伐(199年2月)

張楊はもともと河内太守だったが、献帝の洛陽帰還に大きな功績があり、大司馬に任じられていた。
張楊と呂布は良好な関係だったため、呂布が下邳で包囲されると、呂布救援の構えを見せた。しかし張楊は、親曹操派の配下・楊醜に殺害されてしまった。
張楊配下には、かつて黒山賊だった眭固もいた。曹操がかつて戦った相手である。眭固は楊醜を殺害して、張楊の軍勢を掌握した。

199年(建安四年)2月、呂布討伐を終えた曹操は兗州山陽郡まで戻ってきた。
親曹操派の楊醜が殺害されたことを受けて、曹操は眭固攻撃の軍を出した。

眭固討伐は、史渙曹仁が先陣を任された。徐晃楽進于禁が従軍した。
史渙・曹仁らが黄河を渡ると、眭固は本拠の射犬を部下に任せ、自ら兵を率いて出撃した。
眭固は史渙・曹仁らと戦い、撃ち破られて戦死した。

その後、曹操自身が黄河を渡って射犬を包囲した。
徐晃と于禁は、史渙・曹仁の指揮下にあったことが明らかだが、楽進は曹操の本軍にいた可能性もある。

曹操は河南尹董昭を同行させており、射犬に単身送り込んで説得に当たらせた。董昭は説得に成功し、射犬の軍勢は開城して降伏した。

この功績で董昭は冀州牧に任じられた。冀州牧にはもともと袁紹が任じられており、曹操は袁紹への敵対を明確に表明したわけである。

董昭が河南尹から冀州牧に移ったので、済陰太守夏侯惇が後任の河南尹となった。
この時期、董昭の地位は非常に高い。ただし、単身で敵地に送り込まれるなど、丁重に扱われてはいない。

夏侯惇の後任の済陰太守には程昱が就いた。
程昱は東中郎将・都督兗州事も兼ねた。かつて曹操が鎮東将軍・兗州牧だったことが思い起こされる。

程昱は曹操の側近として普段は参謀役を務めていたが、戦略上の要地に派遣されることが多い。
青州黄巾賊との戦いでは、戦闘の中心地だった寿張令を任された。張邈・呂布の乱では、曹操自身が戦略上の要地と表明した東平国の相となった。
この時は、兗州が動揺したため鎮める任務を与えられた。
兗州が動揺したのは、袁紹からの離反工作があったと見るのが妥当だろう。

曹操に許された造反組

董昭の説得で射犬が降伏した時に話を戻すと、捕らえられた中に魏种という人物がいた。
魏种はかつて曹操が取り立てた人物だが、張邈が背いたときに曹操を裏切った。
曹操は、魏种だけは味方でいてくれると信じていたので、魏种が背いたと知ると激怒し、必ず殺害すると公言していた。
しかし魏种を捕らえると、その才能を愛してふたたび登用し、河内太守に任じた。その後の事績は残らない。

この頃、琅邪国相臧覇の元に徐翕毛暉が逃れてきた。徐翕と毛暉は、もともと曹操の配下だったが、張邈の反乱に応じて曹操を裏切っていた。
曹操は劉備を派遣し、二人の首を差し出すよう臧覇に求めた。しかし臧覇は逆に劉備を説得し、二人をかばうよう依頼した。
劉備が戻って曹操を説得すると、曹操は臧覇の道義を認めて、徐翕と毛暉を太守に登用した。ただし二人も、このあとの記録は残らない。

孫策の帰順(199年)

この年、孫策が曹操に通じた。
曹操は孫策を討逆将軍に任じた。曹操の姪と孫策の弟・孫匡の間で婚姻が結ばれた。

孫策の参謀だった張紘は使者として許にやってきた。曹操は張紘を引き留めて司空府に招いた。

袁紹との開戦(199年8月)

199年8月、曹操は黎陽に進軍した。袁紹と直接の戦争がついに始まった。

曹操と袁紹の戦いは、袁紹側が仕掛けた印象が強い。
それは、この後の戦いで基本的に袁紹側が主導権を握っていたためだろうが、実際には仕掛けたのは曹操の方だ。

曹操の進軍に合わせて、東方では臧覇孫観らが青州に侵攻した。臧覇らは斉・北海・東安を破った。
以後、臧覇らは青州へ出兵を繰り返し、東方戦線を担った。
袁紹側では袁譚が青州を任されていた。

翌9月、曹操は、于禁に歩兵二千を預けて延津を任せると自身は許に戻った。
延津は黄河南岸にある。
武帝紀にはしれっと書いてあるが、曹操は河北での戦いに敗退し、袁紹の反撃を呼び込んでしまったものと思われる。

こんどは袁紹が攻勢に出たが、于禁が固く守り切った。
曹操は黄河からだいぶ南に入った官渡を拠点とした。官渡自体は河南尹にある。

「官渡の戦い」がここから始まったと見ても良いように思われるが、一般的には翌200年から始まったとされるようだ。

張繍の降伏(199年11月)

11月に入って、張繍が兵を率いて曹操に降伏を願い出た。賈詡の提案によるものだった。
曹操は張繍の手を取って喜び、婚姻を結び、揚武将軍の位を授けた。賈詡は執金吾に任じられた。
張繍はここから続く官渡の戦いに奮戦して大きな武功を挙げる。

袁術の死と劉備の反乱

呂布の死後、袁術はすっかり勢力を失い、仲の帝号を袁紹に譲ることにした。袁術が袁紹領を目指して揚州から北上を始めたので、曹操は兵を派遣して袁術を討伐しようとした。

劉備朱霊路招を徐州に派兵した。
武帝紀の記述順によれば、臧覇ら徐州諸将は既に青州に進出して袁紹軍と戦っていた。臧覇らに袁術を迎え撃つことは難しかったのだろう。
劉備・朱霊らと接触する前に袁術は病死した。
一方、『後漢書』献帝紀によれば袁術の死は6月なので、劉備らの派兵は曹操・袁紹の戦いが始まる前の出来事になる。

劉備の派遣は、曹操の独断で行ったことらしく、その決断時にブレーン集団は居合わせなかったようだ。董昭郭嘉程昱が駆けつけて劉備の起用に反対したが間に合わなかった。

朱霊と路招は袁術の病死を知ると任務を完了して帰還したが、劉備はそのまま徐州に残った。
劉備は下邳に進み、徐州刺史車冑を殺害して徐州南部を制圧した。

東海太守昌豨が劉備に呼応して反乱を起こした。
同じく東海郡の襄賁校尉杜松の配下も昌豨に通じて反乱を起こした。呂虔が襄賁校尉に任命されて反乱を鎮圧した。

劉備は下邳を関羽に任せて、自らは小沛に駐屯した。
孫乾を袁紹の元に派遣し、同盟を結んだ。
袁紹は援軍として騎兵を派遣した。

曹操は中郎将王忠と司空長史劉岱を派遣して劉備を討伐しようとしたが、二人は劉備に敗れた。以後、劉岱は記録が見られない。

劉勲の帰順

袁術の死後、蘆江太守劉勲曹操に帰順した。もともと劉勲は袁術に仕えていたが、袁術が死ぬとその旧勢力を吸収して大勢力となっていた。劉勲の元には劉曄も参じた。
しかし劉勲は孫策に敗れて勢力を失い、逃れて曹操を頼ってきた。劉曄は現地に残った。

劉勲は、曹操が挙兵した頃に沛国建平県の県令を務めていた。曹操の故郷譙県の隣であり、その頃に曹操と縁があった。この頃からみると10年前の出来事である。
曹操は劉勲を丁重に迎え入れた。以後、劉勲は曹操の側近として政治・軍事の議論に加わるようになった。

董承の反乱(200年正月)

199年12月、曹操は許から出陣して官渡に駐屯した。

200年(建安5年)正月、董承による反乱計画が漏れた。
董承は曹操の暗殺を図り、「献帝からの密勅があった」として仲間を増やしていた。
劉備もこの計画に誘われていたが、実行する前に袁術討伐のため兵を与えられて東征に出ていた。

曹操が献帝を奉戴してから約三年。
董承はこの前年199年に車騎将軍に昇進し、将軍府を開いていた。

献帝の長安脱出を主導してきた董承は、許に入って以来、曹操に主導権を奪われいた。曹操を暗殺して状況を打開しようとしたものと思われる。
袁紹との関係は定かではないが、タイミングからして無関係とは考え難い。

董承の計画に加わっていたものは処刑され、計画は失敗に終わった。

曹操は前月から官渡にいたようなので、反乱に対処したのは留守を守る荀彧だっただろうか。
潁川太守夏侯淵、許県令満寵、執金吾賈詡らが鎮圧に関わった可能性もあるが、いずれも記録にはない。

劉備討伐

曹操は、対袁紹戦線を一時離れて、劉備を先に討伐することにした。

諸将は曹操が官渡を離れることに強く反対した。
袁紹の攻撃は于禁が延津で防いでいたが、袁紹方に押され気味だったのかもしれない。

郭嘉は劉備征伐を勧めた。
曹操以下、楽進徐晃に劉備討伐に従軍した記録がある。董昭も従軍した可能性は高い。

曹操は劉備の守る小沛を攻略した。劉備はほとんど抗戦せず、袁紹の元へ逃亡した。
曹操はさらに進軍して下邳を攻略し、関羽を捕らえた。
東海の昌豨も攻撃して降伏させた。

曹操は劉備の反乱をすっかり鎮圧し、官渡に戻った。

曹操が劉備を討伐している間に官渡を攻撃するよう、袁紹配下の田豊が進言した。袁紹は子供の病気を理由に拒否したという。田豊は杖で地面を叩き悔しがった(袁紹伝)。

董承の反乱が露見したのは正月のこと。その後に曹操は劉備討伐に出発し、翌二月には袁紹は軍を動かしている。
時系列から見ると、田豊のエピソードは事実でない可能性もある。

劉備征伐後、董昭は冀州牧から徐州牧に転じた。
後任の冀州牧には賈詡が任じられた。冀州牧には実態がなかったので、曹操は賈詡を側におき、参司空軍事として参謀を務めさせた。

荊南四郡・劉表から離反

劉表は、袁紹と同盟を結んだ。
もともと曹操とは交戦状態だったので、劉表としては当然の選択である。

長沙太守張羨は、袁紹との同盟に反対して曹操に通じた。
当時、張羨配下だった桓階の進言によるものである。さらに桓階の策に従い、周辺の三郡を誘って劉表に反乱した。
劉表の勢力範囲は明確ではないが、四郡というのは支配下にある郡の半数に達するだろう。

劉表は張羨攻撃のため兵を出し、荊州南部攻略戦を展開することとなった。

張羨の乱は、曹操にとっては極めて大きな助けとなった。
劉表は張羨討伐のため手一杯となり、官渡の戦いに関わることは出来なかった。
ただし、曹操も同様に官渡の戦いで手一杯だったため、張羨を救援することは出来なかった。

そこで、曹操は益州牧の劉章に劉表を攻撃させようと企図した。
尚書郎衛覬を治書侍御史に任じて、長安経由で劉章への使者とした。
しかし張魯が道を塞いでいたため、衛覬は長安から先に進むことは出来なかった。衛覬は長安にとどまって行政に当たることになった。

張羨は数年に渡る籠城戦の末、最終的には劉表に敗れることとなった。

孫策の反乱と死

孫策は長江以南の地域で急速に勢力を広げていた。
袁術の死後は劉勲も破り、揚州をほぼ手中に収めている。

この前年、孫策と曹操とはよしみを通じて婚姻を結んだところだった(上述)。
孫策は劉表と敵対関係にあり、また袁術からは最終的には独立したという関係もあって、同じく劉表・袁術と敵対している曹操とは良好な関係だったようだ。

袁術が死去すると、孫策は袁術の旧領を吸収して急速に勢力を拡大した。
その結果、徐州南部の広陵太守陳登と領土を接し、曹操と孫策は敵対関係となってくる。
孫策は広陵を襲撃し、陳登に撃退された。

袁術の死後、曹操は厳象を揚州刺史に任命した。
孫策は厳象に従わず、盧江太守李術に攻撃させて厳象を斬った。

曹操は、厳象の後任として劉馥を選んだ。
劉馥は合肥に入城した。劉馥は物資の蓄積に努め、合肥を孫呉への備えとして育てていった。

曹操と袁紹が本格的な交戦状態に入ると、孫策は許の襲撃を計画した。
劉勲から盧江郡を奪っていたので、許への進軍自体は不可能なわけではない。三年前には、袁術も九江・盧江から陳国を襲撃した実績がある。

ただし、許への侵攻は唐突すぎるとして古くから疑問が呈されている。
裴松之は、孫策は陳登を攻撃しようとしたのではないかと考えた。孫策の計画は実行されなかったので、正解は分からない。

孫策は単騎で外出したところを襲われて死亡した。
あとをついだ孫権は曹操に帰順した。
曹操は孫権を討虜将軍・会稽太守に任じた。

曹操の元にいた張紘は、孫権のため揚州へ戻ることにした。
張紘は曹操から会稽東部都尉に任じられて、任地に赴いた。

この頃の配下

車騎将軍董承と鎮東将軍劉備が背き、代わりに(?)揚武将軍張繍と建忠将軍鮮于輔が加わった。
また、程昱も東中郎将から振威将軍へと昇進した。

鮮于輔は、帰順して建忠将軍に任じられたが、曹操と袁紹の戦いが始まると自ら曹操の元を訪れて度遼将軍となる。しかし213年、曹操に魏公就任を要請した時にもまた建忠将軍である。ここでは、とりあえず建忠将軍としておく。

この時期、確実に将軍職にあるのは夏侯惇・程昱・張繍・鮮于輔・陳登の五人。(それに孫権。)
基本的には群雄が帰順すると将軍に任じられるようだ。
一州を任せられると将軍というようにも見える。

劉勲も将軍職に任じられていたかもしれない。
鮮于輔や張繍のように軍勢を引き連れて帰順したわけではなく、孫策に敗れて単身逃亡してきたのだが、それでも群雄であったことには違いない。
213年の魏公就任要請時には平虜将軍の職にあった。帰順とともに平虜将軍になったと見るのはやや無理があるかもしれないが、ここではとりあえずそうしておく。

この時期は州牧と州刺史の記述が安定しない(※このシリーズ内もブレブレである)。
董昭は徐州牧に就任したが、前任の車冑は徐州刺史と書かれている。
同じ董昭伝の中で書き分けられているので、実際に州牧と州刺史を使い分けていたのかもしれない。

厳象は、荀彧の推薦を受けて登用されて揚州刺史となったが、孫策との戦いで敗死した。荀彧が推薦した人物の中で、数少ない「失敗例」として挙げられるが、いささか酷な評価である。

一覧

曹操とその配下たち
録尚書事・司空・兗州牧 曹操
侍中・尚書令 荀彧
軍師 荀攸
軍師祭酒 郭嘉
建忠将軍 鮮于輔 新加入
伏波将軍・広陵太守 陳登
建武将軍・河南尹 夏侯惇
振威将軍・都督兗州事 程昱 
揚武将軍 張繍 新加入
平虜将軍 劉勲 新加入
諫議大夫 曹洪
議郎 曹仁
議郎・司空参軍事 曹純
侍中・司隸校尉 鍾繇
徐州牧 董昭 前職:冀州牧
冀州牧・参司空軍事 賈詡 新加入 (前任:董昭)
揚州刺史 劉馥 新加入
泰山太守 薛悌
督軍校尉・潁川太守 夏侯淵
東郡太守 劉延
琅邪相 臧覇
北海太守 孫観
東海太守 昌豨 ※劉備に通じて反乱を起こした
領軍 史渙
護軍 韓浩
偏将軍 関羽
裨将軍 徐晃
裨将軍・陽安都尉 李通
平虜校尉 于禁
討寇校尉 楽進
襄賁校尉 呂虔
典農中郎将 任峻
中郎将 王忠
中郎将 張遼
中郎将・離狐太守 李典
都尉 許褚
屯田都尉 棗祗
司空主簿 王必
司空東曹掾 毛玠
司空西曹属・許令 満寵
司空西曹掾属 陳羣
県令・県長 司馬朗趙儼梁習
その他の配下 丁斐朱霊婁圭
尚書郎 衛覬

曹操は別に勢力を築いている群雄
大将軍・冀州牧    袁紹
鎮南将軍・荊州牧   劉表
益州牧        劉章
武威将軍・遼東太守  公孫度
鎮民中郎将・漢寧太守 張魯
討虜将軍・会稽太守  孫権

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