【三国志正史】01曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 189年霊帝死去~曹操挙兵
霊帝死去 当時の曹操と周辺
西暦189年4月(年は西暦、月は旧暦)、当時後漢の皇帝だった霊帝が死去した。
このとき、曹操は都の洛陽にいて、典軍校尉を務めていた。当時曹操は35歳。
典軍校尉は西園八校尉の一つ。新設された霊帝直属軍の指揮官だった。典軍校尉のほかに中軍校尉袁紹や、佐軍校尉淳于瓊などがいる。
この前後に都にいて、のちに曹操配下となるものには、守宮令荀彧、黄門侍郎荀攸、尚書郎華歆がいた。当時の曹操との関わりは分からない。
曹操の一族曹純も黄門侍郎だった。曹純と荀攸は同僚だったことになる。曹純は18歳で黄門侍郎になり、20歳で曹操が襄邑で行った募兵に参加した。(ただし曹純の生年については諸説ある)。
マイナーなところでは趙戩(ちょうせん)という人物が、尚書選部郎として都にいた。
のち劉表に身を寄せて、曹操が荊州を制圧するとその配下に加わった。その際、曹操は趙戩の手を取り「なんと出会うのが遅かったことか」と言ったとのことなので、面識があったのかもしれない。五官中郎将曹丕の司馬となる人物。
この当時の都にいた大物政治家たちは、曹操の政権に加わることはなかった。
霊帝死後の政界の動き
霊帝の次の皇帝には少帝が立てられた。
皇帝の後継争い、即位後の政権争いがあり、大将軍の何進と宦官たちの間で対立が激化した。
袁紹・袁術が、何進配下として策謀に関わった。曹操は、政権争いからは少し距離のあるところにいたようだ。
何進は各地に人員を派遣して募兵を行わせ、また地方の軍事指揮官に兵を率いて上洛するよう求めた。軍事力で政権を補強しようとした。
張遼、張楊、鮑信、王匡などが各所で兵を集めた。
また東郡太守橋瑁や執金吾丁原、并州牧・前将軍董卓が兵を率いて洛陽に向かった。
8月、兵力が集結する前に、何進は宦官に殺されてしまった。
袁紹・袁術は、宮中に乗り込み宦官を虐殺した。しかし少帝を連れた宦官を取り逃がすという致命的なミスが起きた。
洛陽の外まで連れ出された少帝は、ちょうど洛陽に向かっていた董卓の軍勢が保護した。
皇帝を戴いた董卓軍は洛陽に入京した。
董卓が洛陽に入る
董卓は洛陽に入ると、軍事力を背景に政権を握った。
この時点での董卓配下のうち、後に曹操周辺に関係がある武将としては、賈詡・徐栄・李傕・郭汜・張済・張繍・段煨・董承などがいる。
この直後に関係するのは徐栄。董承は董卓配下だった説と、董太后(霊帝の母)の親族という説がある。董卓配下ではなかった可能性のほうが高いかもしれない。
董卓はもともと涼州の人。
并州牧に任命されたのはこの年のことで、それまでは涼州を主戦場としていた。そのため董卓配下には涼州の人が多い。賈詡、李傕、郭汜、張済、段煨らは基本的にみんな涼州人。
なかには例外もいて、徐栄は幽州の出身である。
董卓同様、何進の命を受けて兵を率いていた丁原も洛陽に入った。
丁原は、配下の呂布に暗殺されて、その兵力は董卓に吸収された。
丁原の配下には、張遼もいた。
張遼は、何進の命を受けて募兵を行っていた。張遼は兵を率いて董卓軍に加わった。
董卓は何進の兵力も吸収し、さらに軍事力を強化した。
諸侯の動き
董卓・丁原と同様に、何進の命で兵を催していたのが橋瑁。
橋瑁は洛陽の東方・成皋県に軍を率いて駐屯していた。
鮑信も何進が暗殺された時には成皋まで戻ってきていたという。橋瑁と鮑信は、ともに行動していたのかもしれない。橋瑁はその後、任地の東郡に戻ったようだ。
王匡も鮑信とともに募兵を行っていたから、このときまで一緒にいた可能性はある。
鮑信は洛陽に入り、袁紹に董卓打倒を勧めた。しかし鮑信の兵だけでは不十分だったか、袁紹は行動を起こせなかった。鮑信は洛陽を離れ、泰山郡に戻ってさらに募兵を続けた。
張楊も、何進の命で兵を集めていた。ただし張楊は他と異なり、并州上党郡で募兵をしたのちは都を目指さず、同郡の山賊を討伐していた。
袁紹は、はじめ有力者の一人として董卓の政権に関わったようだ。董卓は、少帝の廃位を袁紹に相談した。袁紹は廃位に反対し、洛陽から脱出した。許攸と逢紀が袁紹に随行した。
董卓はもちろん怒って追っ手を差し向けたが、袁紹は冀州まで逃れた。
やがて董卓は袁紹に官位を与えて懐柔する方針に変わり、袁紹を渤海太守に任命した。
袁紹のほかにも、多数の人材が地方官に任命された。冀州牧・韓馥、兗州刺史・劉岱、豫州刺史・孔伷、陳留太守・張邈、河内太守・王匡、南陽太守・張咨などの名が残る。
袁紹が洛陽を去った直後、9月には少帝が廃されて、献帝が即位した。
曹操は驍騎校尉に任命された。中央の高級武官だろうか。霊帝直属軍だった西園八校尉からの異動なので、指揮する兵は失ったのかもしれない。
やがて家族を洛陽に残したまま東に脱出することになった。9月中のことと見られる。
曹操にも追っ手が差し向けられ、途中で捕まったりもした。最終的には兗州まで逃げ切ったが、袁紹とは異なり、逃亡後に官職が与えられていない。洛陽に残った家族には袁術が情報を伝えたという。
袁術は、もともと虎賁中郎将だった。董卓によって後将軍に任じられ重用されたため、洛陽からの脱出が遅れた。袁紹や曹操は東に逃れたが、袁術は南に逃れた。
曹操の挙兵
189年12月、曹操は兗州陳留郡の己吾県で兵を集めて挙兵した。夏侯惇、夏侯淵、曹洪、曹純、史渙、王必、丁斐、楽進といった人物が配下に集まった。
陳留太守張邈の配下衛茲が募兵を全面的にバックアップした。衛茲は己吾県の人なので、それが募兵する土地を選んだ理由なのかもしれない。
己吾県の隣には襄邑県があり、曹純はそこでの募兵に参加している。
曹操としては故郷まで逃れて挙兵したかっただろうが、州郡には曹操追捕の手配が回っていて、故郷には戻れなかったものと見られる。
挙兵に対する、曹一族の対応
曹操の父・曹嵩は挙兵に加わらなかった。
なんとなく隠棲していた印象が強いが、実際は前年まで三公の一角・太尉を務めていた。三公を退任していくばくも経っていない、現役のトップ政治家である。曹操の挙兵時には故郷の沛国に戻っていた。
挙兵には参加せず、故郷を離れて徐州に避難した。
曹嵩と同世代と見られる人物に、曹洪の族父・曹瑜という人物がいる。衛将軍にまで出世したとあるが、具体的な事績が見えない。
曹邵は、挙兵に応じて人数を集めた。
挙兵に参加した数少ない一族だが、曹邵は豫州の州郡に殺害されてしまった。
曹氏の故郷は豫州沛国譙県で、当時の沛国相は袁忠。のちのち、曹操は袁忠がはるか交州まで逃れたところをわざわざ殺害している(ただし出典は『世語』)。袁忠が沛国に残った曹一族を弾圧したか。
曹邵は豫州刺史黄琬が殺害したともいう。
譙県には豫州の州治が置かれていたから、曹氏の本拠地であるとともに豫州刺史黄琬の拠点でもあった。州兵も駐屯していたはずで、中央からの命令が届けば、すぐに攻撃することができただろう。
なお劉勲がこの頃(中平の末)に譙県のお隣・建平県の県令を務めている。その際に曹操と交流があった縁で、のちに曹操陣営に加わった際には丁重に迎え入れられた。袁忠との差がどのようにして生まれたのか気になるところだ。
曹邵遺児の曹真は曹操に保護され、曹丕とともに生活することになった。
曹休は、「曹操が義兵を起こすと遠く呉郡から駆けつけた」とされる。曹操は大変に喜んで曹丕と共に生活させたというが、この時曹丕は3歳。
宗族が故郷を追われてちりぢりになった後、十歳余りのときに父をなくし、老母を連れて呉郡に渡っていた。
曹休の老母は文帝在位中に亡くなるので、220年~226年のこと。すなわち、この時からおよそ30年後。
曹休が呉に渡り、そして戻ってくるのはもう少し後のことと見られる。
というよりも、そもそも曹一族が故郷を追われて散り散りになったの自体が、曹操挙兵の時のことかもしれない。
(豫州は黄巾の乱の中心地なので、黄巾賊から避難したと考えることもできる。黄巾の乱発生はこのときより5年前)。
曹純の兄・曹仁は挙兵に加わらず、徐州で独自の勢力を築いた。
この兄弟は、曹純14 歳のときに当時39歳だった父・曹熾を亡くした。その時点で曹仁は家を出ており、曹純が家を継いだ。挙兵時に曹純が20歳だったとすると、6年前の出来事である。
曹操挙兵からしばらくの間、一族の中で活躍が見られるのは曹洪しかいない。
曹操の父曹嵩、曹洪の族父曹瑜ら、上の世代は挙兵に参加した形跡がない。
曹操と同世代と見られる一族は、曹仁・曹純兄弟の父曹熾、曹休の父、曹真の父曹邵の三人が確認できるが、三人とも命を落としてしまっている。
曹邵は挙兵に参加したことが明確なので、曹邵が生きていれば一族の重鎮として活躍したのかもしれない。
挙兵に参加した人物
鮑信は兵を率いて曹操の挙兵に応じた。配下に加わったとみて良いか。
曹操は挙兵すると行奮武将軍になり、鮑信は行破虜将軍となった。ともに将軍職だが、奮武将軍がやや格上かと思われる。二人とも袁紹から任命されたと見て良いだろう。
史渙は行中軍校尉となった。先日まで袁紹が務めていた役職である。
曹操と同郷の人で、挙兵の時点では客将の立場だった。
史渙はのちに韓浩とともに「中軍の指揮官」と言われるようになり、曹操直属軍の指揮官・諸将の監督者としての立場になるが、この時点での中軍校尉とはそういう意味ではなさそうだ。
西園八校尉の中軍校尉は、上軍校尉・中軍校尉・下軍校尉のうちの中軍なので、中央軍ではなくランクを表している。ただし、のちに中軍という言葉を曹操軍が使い始めるきっかけになっている可能性はある。
夏侯惇は奮武将軍の司馬、夏侯淵は別部司馬、楽進は帳下の吏となった。
この三人は将軍の属官で、鮑信・史渙に比べるとより部下感が強い。
曹洪と曹純は挙兵時に与えられた官位の記録がない。曹洪は若いころ荊州の蘄春県長(時期により揚州)に、曹純は二年前に黄門侍郎にそれぞれ任じられている。
丁斐も一族の二人同様、官位の記録がない。
曹操と同郷の丁氏なので、丁夫人の関係者・すなわち曹操の姻戚と考えるのが自然だろうか。
挙兵に参加するとさっそく賄賂を集めて不正をたくさん働いたとあるので、それなりに重要な立場ではあったのだろう。収賄・不正はさんざん告発されたが曹操にはすべて許された。
丁斐の官位は夏侯淵に次いだらしく、後に丁斐は夏侯淵の後任として典軍校尉になる。
王必も同様に不明。王必は曹操からの信頼が厚い古参となっていくが、記録が少ない。将軍長史や主簿などだった可能性もあるが、立伝されていないこともあって分からない。
曹操軍はこのあと、本陣が壊滅し曹操自ら剣を振るうような戦いが続くので、初期に軍内の要職を務めた官吏は命を落とした可能性もある。
曹操配下一覧表 (189年12月ごろ)
行奮武将軍 曹操
司馬 夏侯惇
別部司馬 夏侯淵
その他 楽進、王必、丁斐
行中軍校尉 史渙
蘄春県長? 曹洪
黄門侍郎 曹純
(行破虜将軍 鮑信)
次の話はこちら