【三国志正史】03曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 192年東郡太守~袁術の兗州侵攻
黒山賊との戦い(192年春)
192年(初平二年)春、曹操は東郡太守・行奮武将軍として東武陽に政庁を置いていた。
曹操は兵を率いて出陣し、頓丘に陣を敷いた。
東武陽から黄河沿いに南西へ進んだところで、黄河を挟んで濮陽の北にある。
曹操とすれ違う形で、黒山賊の于毒・眭固は東武陽を攻撃した。
諸将は東武陽を救援するよう提案した。この時点の諸将と言えば、夏侯惇・夏侯淵・曹洪・曹仁・史渙らであろうか。武帝紀を除く伝記には、この時期の記録が残っていない。
曹操は諸将の提案を蹴り、西方へと進軍を続けて于毒の本拠地を攻撃した。于毒らは本拠地救援のため、東武陽の包囲を解いて退却を始めた。
曹操軍は退却してくる黒山賊を待ち伏せし、眭固を破った。
その後、曹操軍はさらに西に進んで内黄で於夫羅を破った。
於夫羅は反董卓連合時には袁紹軍に加わっていたが、この頃には袁紹に反逆していた。
ここから先、魏郡での黒山賊らとの戦いは袁紹が引き継いだようだ。
青州黄巾賊の侵入(192年夏)
長安では、王允・呂布が董卓を殺害した。
張遼は呂布の配下に入った。
李傕・郭汜・張済が賈詡の策を授かって政権を掌握し、王允は殺害され呂布は東方に逃れた。
呂布は袁紹の陣営に加わり、黒山賊と戦うようになる。
この頃、青州から百万人とも言われる黄巾賊が兗州に侵入してきた。
青州黄巾はどのようなルートを取ったものか、まず初めに任城国を攻撃した。任城国相の鄭遂は敗死した。
続いて、黄巾賊は東平国に進んだ。
この頃の東平国相ははっきりとは分からないが、李瓚だろうか。
李瓚は、最終的な官位が東平国相だった。
本人の活動内容は不明だが、子供たちへの遺言が残っている。「曹操・張邈・袁紹のうち、曹操に身を寄せるように」という内容で、三者を並べる書き方からして、曹操が東郡太守に就任した191年冬から、張邈が離反する194年までの間に亡くなったものと思われる。
この頃に東平国相でも、そんなにおかしくはない。
兗州諸侯と青州黄巾の戦いは、東平国が主戦場となった。
青州黄巾に対処するため出陣したのは、兗州刺史の劉岱である。
劉岱は、東平国の南隣・山陽郡の昌邑を拠点にしていただろう。
この頃は州刺史から州牧への移行時期で、劉岱が兗州全体に対してどの程度の権限を持っていたかは明らかではない。
後漢後期の州刺史は州内の太守たちを監察するとともに、州治周辺に所領を持ち、小さな太守のような存在であったとも言われる。
一方で、州牧はというと、後漢末の動乱中に州内の太守を完全に支配下に置く支配者になっていく。
ともあれ、劉岱は済北国相の鮑信に出陣を求めたようだ。
鮑信は籠城策を提案し、出陣を拒否した。
山陽太守の袁遺も出陣を拒否したものか、劉岱は単独で戦いを挑んで敗死してしまった。
曹操の兗州牧就任・黄巾との戦い
兗州刺史劉岱の敗死を受け、鮑信と州吏の万潜は東郡まで出向き、曹操に兗州牧就任を求めた。
曹操配下の陳宮が兗州牧就任を提案し、州の官僚たちを説得して回ったとの説もある(ただし出典は『世語』)。
どちらにしても袁紹の命ではない点が注目される。この後も曹操と袁紹の友好関係は続くが、ここで袁紹配下から独立して同盟相手に変わったと見ることも可能なのかもしれない。
とにかく、曹操は兗州刺史または兗州牧に就任した。ここでは兗州牧としておく。
曹操が兗州牧に就任すると、東郡の程昱が出仕して配下に加わった。
曹操は、自身のあとがまとして夏侯惇を東郡太守に任じた。
ただし袁紹の方でも臧洪を東郡太守に任じて、東武陽に赴任させている。
夏侯惇は黄河南岸の白馬に駐屯していたので、黄河の南北で東郡を分けたのかもしれない。この後の展開を見ると、曹操は黄河以南の東郡を明らかに掌握している(し、北岸にはほとんど関わらなくなる)。
夏侯惇は配下に典韋と韓浩を迎え入れた。東郡太守・折衝校尉となったので、必要な人員を集めたのだろう。
典韋は折衝校尉の司馬となったようだ。
兗州の郡国
兗州には、8つの郡国がある。
東郡・陳留郡・山陽郡・済北国・済陰郡・東平国・任城国・泰山郡である。
曹操が兗州牧となった時点での郡太守・国相は、ある程度分かっている。
東郡 夏侯惇/臧洪
陳留郡 張邈
山陽郡 袁遺
済北国 鮑信
済陰郡 呉資?
東平国 李瓚?
任城国 鄭遂が敗死した直後で空席か
泰山郡 応邵
兗州牧となった曹操は、済北国相・鮑信を率いて青州黄巾との戦いに挑んだ。他の郡国が加わったかどうかは分からない。
戦いは寿張周辺で行われた。曹操軍は新兵が多く、勢いに乗じて前進してくる黄巾賊に苦戦した。
鮑信も戦死してしまったが、最終的には曹操軍が勝利を収めた。
この戦いには李乾が加わり、勝利に貢献した。
寿張での戦いに敗れた黄巾賊は済北国まで進んだところで曹操に降伏した。これが192年冬のことなので、黄巾賊の侵入から鎮圧までに半年を費やしたわけである。
曹操は、降伏した黄巾賊の中から精鋭を選り抜き、青州兵を組織した。以後、曹操軍の主力の一角となる。
青州兵は単独で運用されていた様子だが、指揮官の名が残らない。
公孫瓚との戦い
青州黄巾との戦いと並行して、公孫瓚方との戦いもあった。
高唐に劉備、平原に単経、発干に陶謙が駐屯し、袁紹・曹操軍と戦った。最も進出してきたのが陶謙で、発干は東郡の北西部に位置する。
いずれも袁紹・曹操軍が撃破したが、詳細は分からない。
兗州牧時代に加わった曹操配下
曹操は、のちに冀州牧となるまで、兗州牧の地位を保持し続ける。しかし兗州にいた期間自体はそう長くない。
192年の後半に兗州牧に就任し、196年には豫州に進出し許昌に拠点を移すことになる。「曹操が兗州にいた頃」と表現されるのは、193・194・195年の限られた時期だと考えて良いだろう。
この頃に登用された人物は、基本的に兗州の人である。
東郡太守までの時代に比べて、急激に人員が増える。
程昱は、兗州刺史劉岱の誘いには応じなかったが、曹操が兗州牧となると出仕して仕えた。程昱は寿張令となった。寿張は曹操と青州黄巾が戦っていた地であり、戦争中の要地を任されたものか。
ちなみに、曹操陣営に加わった当時の名前は程立だった。
別駕従事に畢諶を登用したのがこの時期なのは間違いがない。
薛悌も従事となった。
毛玠は治中従事となった。
徐翕・毛暉の二人も武将として曹操に仕えた。
許汜と王櫂は従事中郎に任命された。従事中郎は兗州従事ではなく、将軍府の属官らしい。
黄巾との戦いで活躍した李乾は、済陰郡の豪族である。軍勢を引き連れて曹操の配下に加わった。
呂虔は、曹操が兗州にいる頃に兗州従事となった。家兵を率いて山陽郡の湖陸を守った。湖陸令となったのか、一時的に駐屯したのか判然としない。
満寵も兗州従事として召し出された。満寵は、県令を務めたのちに官を捨てて山陽郡の故郷に戻っていた。
戦死した鮑信の軍勢も曹操が吸収したようだ。
もともと鮑信配下だった于禁が曹操配下に加わった。于禁を見出したのは曹操配下の将・王朗である。王朗の勧めで于禁を引見した曹操は、于禁を軍司馬に任じた。
王朗は、于禁を発掘するという大仕事を為したが、ここでしか名前が見えない。のちに魏の高官となる王朗とは同姓同名の別人である。
袁術の兗州侵攻(193年春)
193年(初平4年)春、曹操は鄄城に駐屯した。
この頃、袁術自ら率いる軍勢が陳留郡に侵入してきた。
袁術は封丘県を占領し、黒山賊と於夫羅が援軍として加わった。
一方、曹操側には袁紹からの援軍があったようだ。
袁術は軍を分け、部将の劉詳を匡亭に駐屯させていた。
曹操軍は劉詳の方を攻撃し、救援に現れた袁術軍を大破した。
敗れた袁術は封丘に退却したが、曹操軍が封丘を包囲し始めたので、包囲網が完成する前に脱出して襄邑に逃れた。
曹操軍が追撃して襄邑を破り、袁術は大寿へと逃れた。
逃げる袁術軍と追う曹操軍の戦いは夏まで続き、曹操は豫州梁国の寧陵まで進軍した。
寧陵で敗れた袁術は遠く九江まで退却していったので、曹操は追撃をやめて引き返した。曹操は済陰郡の定陶に入った。
袁術との戦いでは曹仁が特に活躍した。
曹操配下一覧表(193年夏ごろ)
兗州牧・行奮武将軍 曹操
司馬 荀彧
仮司馬 楽進
軍司馬 于禁 新加入(鮑信の死後)
従事中郎 許汜 新加入(時期不詳)
従事中郎 王櫂 新加入(時期不詳)
その他の配下 王必、丁斐、戯志才、陳宮、王朗、徐翕、毛暉、韓浩
別駕従事 畢諶 新加入(時期不詳)
治中従事 毛玠 新加入(曹操が兗州に兵を進めたとき)
従事・寿帳令 程昱 新加入(劉岱の死後、曹操が兗州に来たとき)
従事・湖陸令? 呂虔 新加入(曹操が兗州にいたとき)
従事 満寵 新加入(曹操が兗州を支配したとき)
東郡太守・折衝校尉 夏侯惇
司馬 典韋 新加入(時期不詳)
騎都尉 夏侯淵
鷹揚校尉 曹洪
行厲鋒校尉 曹仁 前職:別部司馬
中軍校尉 史渙
黄門侍郎 曹純
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