『高原郷土史』から江馬氏に関わる記述を抜粋して読みやすくしたもの
「高原郷土史」より江馬氏に関連する部分を抜粋し、
旧字体を新字体に、送り仮名を現代風、数字をアラビア数字に改めたもの。
分かりにくそうな箇所には※印をつけ、その段落または文の終わりに注釈をつけた。
一部の字はひらがなに置き換えた。
例:其→その。之・是→これ。専ら→もっぱら など。
一部の字を(ほぼ)同義の別字に置き換えた。
例:遁れる→逃れる。嗣ぐ→継ぐ 鬩ぐ→攻める など。
『高原郷土史』
著者 柴田袖水
発行 昭和12年/住伊書店
平成3年に神岡ニュース社より復刻版
船津町、上宝村、阿曽布村、袖川村の沿革を書いた本。著者は地元の学校の先生。
【江馬氏の飛騨入り】
①江馬輝経
仲恭天皇承久3年9月13日、江馬輝経飛騨に入り、高原郷日向野村に着す。
これより先、安徳天皇文治元年3月、平氏の一族源氏の兵に攻められて西海に逃れ、須磨の内裏没落するや、平経盛の愛妾益世姫、妊娠中船に乗り遅れて悲嘆措くあたわず、海に投じて死せんとせしが、経盛の遺胎を宿せるもって果たさず、北条時政に助けられて鎌倉に下り、一男子を産む。時政これに竹壽丸と名づけ養子とす。
年十五、源頼朝命じて北条氏の一族となし、江馬小四郎時経と名付け、武州川越城に封ず。
正治元年頼朝薨じ、子頼家将軍を継ぐ。建保3年北条時政もまた薨じ※、その子義時執権を継ぐ。義時鎌倉にありて暴威を振るい、官軍と戦いてこれを破り、ついに後鳥羽・順徳・土御門の三帝を遠流し、与謀の諸皇子・公卿を流し、公卿・武家の領地三十余ヶ所を没収する等、暴虐を極めしかば時経おおいにこれを憂う。
※薨…こうじる。なくなること。
たまたま河越重親、事を以って時経を嫉み誣るに反逆を以ってす※。義時これを信じ時経を流謫※せんとす。時経憤りに堪えず重親を討って自殺せんとせしも、北条時房の諌めによりて果たさず、家臣川上光久・和仁勝雅・吉村雅成・神代正秀等の一族を率いて、飛騨に下り、荒城郡高原郷日向野村に着し、同地箕手なる浄土宗延命寺を居館として、もっぱら人民の撫育に努めたりければ、里民もまたこれに懐き、ついに高原領主として家運の繁栄を見るに至り、時経名を江馬修理太夫輝経と改め、貞応元年10月27日逝去す。年40、円城寺勇山威光大禅定門と諡し※、墳墓は今円城寺境内にあり。
※河越重親事を以って時経を嫉み誣るに反逆を以ってす…河越重親は理由があって時経をねたんでおり、時経が反逆すると嘘の密告をした
※流謫…るたく。遠くに流すこと
※諡…おくりな。なくなった人に名をおくること。
②江馬朝方
嗣子朝方は北条時直の子。幼にして輝経に養われ高原太郎と称す。父に従いて飛騨に入り、職を継ぐや修理亮と称す。時に年18、和仁勝雅・川上光久これを補佐してもっぱら領民の愛撫に努め、ついに父の志をつぎ、旭山に城を築きて諏訪城と称し、おおいに規模を拡張してこれに拠る。
江馬累代此所を根拠とし、北飛半国の政令これより出づ。この地を名付けて殿村といい、昭和4年3月25日岐阜県史跡に指定せられ、城砦・居館・馬場等の跡、今に歴然たり以って当時の隆盛を想うべし。
朝方、弘安6年12月12日逝去、年七十九、本覚寺殿仁峯義海大禅定門と諡す。
③江馬氏系図
輝経-朝方-光盛-公時-朝光-時光-時則-徳盛-輝時-宗時-時直-時重-時正-
-時経-時盛-輝盛-女桂松院(金森左京母)
___-直盛 信盛
___-重輝 貞盛
④著者注
著者云、江馬氏を記すもの、飛州志を始め諸書あり。しかるにその記載する所の事項一致せず。また事歴を正史に対照して、疑義にわたるところ少なからず。しかれども、高原一帯における神社・仏寺・墳墓・古跡等、大半江馬氏に関係し、遺物・伝説の残れるもの少なからずを以って、ここに記載して後考に資することとせり。
なお江馬家系のごとき、もっぱら江馬累代記による。
⑤円城寺
江馬初代輝経、鎌倉より飛騨入国の時、奉持せる聖観音を安置して殿村に一寺を建立す。天照山円城寺これなり。爾来江馬家累代の菩提寺たりしが、天正10年江馬氏没落の時、三木のために兵火にかかり、一時廃絶に帰したりしを、金森可重、その母桂松院は江馬氏の出なるを以ってこれを再興す。
のち慶安2年、金森重直船津に移し、殿村には別に一寺を建て臨済宗とし、高山宗猷寺南叟を請して中興開山とす。
【戦国時代の飛騨概略】
①戦国時代の概略
足利氏の世衰えて、天正・文禄の頃まで、ほとんど一百余年、戦乱打ち続き、君臣あい討ち、父子あい攻めぎ、兄弟親族あい争う。
この間諸国に割拠する英雄中、もっとも顕わるる者、上杉謙信・武田信玄・北条早雲・毛利元就・織田信長・豊臣秀吉、これを戦国の六雄と称し、蒲生氏郷・佐々成政・小早川隆景・加藤清正・黒田如水・加藤嘉明・前田利家・伊達政宗、これを戦国の八将と称す。
英雄乱世を生ずるか、乱世英雄を作るか。剣戟の閃き、軍馬のいななき、戦国の世惨憺の極みをなす。この時、飛騨に関する両雄あり。上杉謙信・武田信玄これなり。
②上杉謙信と武田信玄について
謙信は越後の人、長尾為景の二子。享禄3年に生まるる。本名景虎、のち輝虎と改む。性急峻にして胆略あり。
はじめ僧となりしも、父の跡を継ぎ、軍将として世に鳴る。その兵を用いる最神速にして、奇策縦横、ついに多くの土地を領し、越後・越中・能登・佐渡をあわせ、加賀・飛騨・越前・上野を分かつ。
心進めばいかなる難所も越え、心進まざれば勝つべき軍をも退く。近国の将士恐るること雷のごとし。北条・今川の強敵ありしも、相対して常に心を悩まししは甲斐の信玄なり。
信玄は甲斐の人、武田信虎の長子なり。性豪胆、静かなること林の如く、動かざること山の如く。天上天下唯我独尊の旗印を銘として、向かうところ山河草木なびかざるなし。さもよく、人言をいれ、下を愛し、士卒また心服し、近国その猛におそれ、国内その勇に驚く。村上義清のことより上杉謙信と争い、これを好敵手として、ともに軍略を進め、飛騨を各その勢力下に入れんとす。
③飛騨の土豪
この時代における飛騨の形勢をみるに、益田桜洞城に三木氏あり、高山天神山城に高山氏あり、広瀬高堂城に広瀬氏あり、高原諏訪城に江馬氏あり、江名子に畑氏あり。宮の山下城に一ノ宮氏あり、大八賀鍋山城に鍋山氏あり、白川帰雲城に内ヶ島氏あり、高野に塩屋氏あり、小嶋に小嶋氏あり、小鷹利に牛丸氏あり、岡本に岡本氏あり。
互いに隙を窺いて呑噬併略※せんとし、飛騨国中四分五裂し、各自上杉・武田・織田等の諸豪と結びておのれの地盤を固めんとし、諸豪もまたこれらを利用して勢力を張らんことに努め、戦乱やまず。
※呑噬 どんぜい。飲み込むこと。転じて他国を攻略して制圧すること。
④三木(みつき)氏について
飛騨諸豪割拠の中、最も威勢ありしものを三木氏とす。三木氏は、佐々木経高の末裔にして、正頼はじめて飛騨に顕わる。
応永18年、飛騨国司征討の時、京極高員戦功あり。足利将軍賞して竹原郷を賜う。高員すわなち家臣三木忠右衛門をして、竹原を治めしむ。忠右衛門はすなわち正頼なり。
正頼卒し※、子重頼、孫直頼あい継ぐ。直頼大和守と称し、武幹あり。上呂郷・馬瀬郷をあわせ、阿多野郷を略し、城を萩原の桜洞に築きてこれに拠り、勢いようやく盛となる。
永正17年、兵に将として大野郡を略し、三佛寺城にいること二十余年、天文23年6月24日卒去す。禅昌寺殿徳翁宗功大禅定門と諡す。
※卒す…なくなる
子良頼継ぎ、永禄中京都に上り、請いて姉小路を冒し※、大納言と称し、のち剃髪して雲山と号す。
弘治元年、江馬時盛、甲斐の武田信玄に属し、隣邑を侵さんとするや、良頼兵を出してこれを攻め、その子光頼とともに古川・小嶋・向の三城を陥れ、また高堂城主広瀬宗域と兵を合わせて、高山外記を天神山に攻めてこれを抜き※、畑佐城主山田紀伊守を滅ぼし、勢威益田大野二郡に振るう。
※冒す おかす 仮に名乗ること
※抜く 城、地域を攻略すること
朝廷、良頼を従三位参議に任じ、光頼を三国司※の内に加え、従四位下に叙せらる。ここにおいて良頼は、古川国司中納言嗣頼と改め、子光頼を宰相自綱と称す。実に武家より出でて、一躍参議の官を得、名家をつぎたる、余慶とはいえ、稀代の例なり。嗣頼元亀3年11月12日卒去。前三品黄門雲山観公大禅定門と諡す。
※三国… 飛騨国司・姉小路氏が三家に分かれており、その総称。小島家・古川家・向家があり、そのうちの古川家を三木良頼が継いだ。
自綱入道して休庵と号し、自ら姉小路大納言と称す。松倉城を築き、畑休高・大谷蔵人・岡本豊前等の諸将幕下に帰し、高原の江馬を滅ぼし、また小嶋・広瀬・鍋山の諸城を陥れ、勢力飛騨国中に振るいしが、天正13年8月15日、金森長近飛騨征討の際、高堂城にありて、防御叶わずして降参し、京都に逃れて死す。
その子秀綱、松倉城にありて防戦せしも、城陥り逃れて信州大根川に走り※、土民に惨斬殺せられ、三木氏ここに滅ぶ。
※走る…敗走する。逃げる。
【戦国時代の飛騨のできごと】
※ここから先は時系列で出来事が記述されている。ここから三木氏滅亡までは抜粋ではなく全文。ただし史料の引用は省いた。
後奈良天皇享禄中、麻生野右衛門直盛、その地に両全寺を建て、桃源を開山とし慶雲山と号す。直盛永禄7年3月21日卒去。両全寺殿慶雲秀山大禅定門と諡す。
同天皇天文元年7月27日、江馬の臣川上中務之丞富信の三男慶之進正秀、大和国大峰山に修行して修験となり、帰りて高原郷寺林村に慶判院を創む。これ山内家の祖にして、代々宮司たり。
同天文中、江馬右兵衛佐時正、高原郷殿村に瑞岸寺を再興し、殿秀山と号す。この寺もと丸山村にありしが、江馬初代輝経、母益世姫の捧持仏観世音を奉置して、菩提寺となさんとし、ここに移したるものなりという。時正、天文4年8月5日卒去。瑞岸寺殿雲宅行安大禅定門と諡す。
同天文2年、江馬左京之進時経、56歳にして薙髪し、高原郷船津木戸脇に草庵を結び、閑居して永常庵と称す。時経天文7年9月4日卒去す。年六十一、遺命してこの地に五輪塔を建つ、永常院殿観山見流大禅定門と号す。
同9年正月、益田桜洞城主三木良頼の室女※没す。年16、月江宗光禅尼と諡す。高原城主江馬時経の娘なり。
※室女…妻
同9年、麻生野右衛門大輔直盛、その地を拓き宇佐八幡宮を勧請して、社殿を建て、産土神…と崇む。今の麻生野神社これなり。直盛は江馬時経の次男、天文の頃、同地洞山に一城を構えて居る。里人、洞殿と称す。
産土神…うぶすながみ。土地の守護神。
同19年、高原城主江馬時盛、船津に洞雲寺を再建し、補陀山と号し、利天玄説を開山とす。時盛天正6年7月16日卒去、洞雲寺殿一朝秋露大禅定門と号す。
同22年9月21日、高原郷鹿間村白山神社再建の棟札見ゆ。
正親町天皇永禄2年6月、武田信玄信州へ出馬し、その臣飯富三良兵衛尉昌景を先陣とし、馬場民部少輔景政、甘利左衛門尉晴吉を大将として、大峠を越え、信飛の境、安房峠まで押し来たりしが、険難の桟道馬足立ち難く、安房ヶ原に陣小屋をかけ、大木を伐倒し、道橋を開きて攻め寄す。
江馬国中の加勢を以って、国境へ馳せ向かい、防戦すといえども、険阻の山道進退自由ならず、むなしく数日を経るに、飯富方に都竹五良右衛門なるもの、飛騨出身の故を以って、江馬に勧めて降参せしむ。
江馬すなわち武田の大敵に対しがたきを知り、ついに都竹を通じて降参の意を表し、誓紙及び人質を入れて、7月帰陣す。
同7年7月15日、江馬輝盛信州松本において信玄に謁し、同9月麻生野慶盛もまた甲州に赴き、信玄に謁して御礼を述べ、幕布・大坂紙等の献品をなす。
後奈良天皇弘治中、高原郷峰記山に、和佐保所兵衛銅抗を開堀し、出鉱繁昌しこの地を和佐保村と名づく。
永禄4年7月中旬、上杉政虎※信州川中島に出陣す。この頃江馬時盛、武田に応じて兵を挙げ、三木良頼これを伐つ。
※上杉政虎 上杉謙信のこと
永禄5年8月、聞名寺の飛騨留守職・願智坊へ、武田信玄より寺内掟状を授く。按ずるに※願智坊は越中本願寺門徒と武田との交通に便宜を計りて功ありしゆえなるべし
※按ずるに 思うに。筆者の意見。
永禄7年、武田の家臣飯富昌景、江馬氏と謀り、高原郷野尻に居館を築き、加賀国白山の神霊を勧請して鎮守とす。これより浄化の人家繁昌し、上町下町・城下町等成り、産土神として崇敬す。今の東町白山神社これなり。
同年※10月20日、越後上杉謙信の将・河田長親より飛州江馬の家中、河上中務丞・河上式部丞へ復書して、輝盛が三木良頼と協力して、江馬時盛を攻め下したる功を賞し、かつその主政虎の7月以来60日に及び川中島に出陣したるは、甲州援兵牽制のためなりしことを告ぐ。
※同年…おそらく永禄5年のこと。
永禄7年6月上旬、信玄、山県昌景を先鋒として、飛騨に討ち入り、荒城郡内の服従せざるものを征服し、江馬時盛と謀りて越中を討たんと、飛越の境に軍し、馬場信房・真田一徳※はじめ木曽兵をもって椎名肥前守の城砦2ヶ所を屠り、また越中松倉城を抜かんとす。
※山県昌景…飯富昌景(永禄2年に攻めてきた武田の武将)と同じ人。
※馬場信房…馬場景政(永禄2年に攻めてきた武田の武将)と同じ人。のちに馬場信春。
※真田一徳…真田幸隆。真田幸村のおじいちゃん。
椎名はしばしば越後・上杉輝虎※に悩まされて苦しみしに、また武田の兵、飛騨より攻め来たると聞き、周章狼狽してすみやかに和睦し信玄の幕下となる。
この時、昌景、越中・中地山※を攻めて江馬輝盛信玄に下り、弟円城寺※を質として甲府に入れる。
※上杉輝虎 上杉謙信のこと
※中地山…富山側から有峰に登る入り口あたり。当時、江馬輝盛は富山に拠点があった。江馬輝盛は上杉に協力してたが、攻めてきた武田軍に降伏した。
※円城寺…江馬輝盛の弟・江馬信盛のこと。出家して円城寺の坊さんになっていた。輝盛が武田に降伏したので、人質として武田家に送られた
昌景、高原郷野尻に居館を築き、乗鞍岳北峡より小八賀郷に入り、千光寺に牒して、三木氏に背きて広瀬宗域と協力すべく勧むといえども、十九院の衆徒これを承引せず、鳥越山に要害を構えて立てこもり、松倉城なる三木氏へ急報し加勢を請いしも、三木いかに思いけん一騎の加勢も出さず。
されども衆徒は事ともせず、中にも宝光院の玄海、普門院の亮輝、吉祥院の尊順、説法院、不動院、蓮華坊の阿闍梨等、必死となりて奮戦すれども、寄せ手は名ある大将、無二無三に攻め寄す。
たまたま江馬勢荒城郡より千光寺背後に上りて攻め寄せ、火を放ちしかば、大衆潰乱し、四散するもの多く、三佛寺城主・三木新左衛門尉は飯富軍のいまだ向かわざるに、城を焼きて益田にのがれ、三木良頼は三佛寺領を江馬氏に渡して降参せり。
同年3月、越後謙信の将・河田長親越中より兵を飛騨に入る。江馬輝盛中地山城を退きて、高原諏訪城を保ち、塩屋筑前守秋貞は、越中船渡城をもってこれに下り、新川郡船倉・栂尾城に移りて、謙信のために守る。
同年7月19日、信玄飛騨出征により信州諏訪社にて戦勝祈願をなせしが、21日上杉謙信川中島へ出陣につき、いそぎ飯富昌景を召還す。よって三木ことなきを得たり。
永禄10年5月、信玄飛騨に入り、高原越しに越中国境を巡視し防備を修めしむ。
永禄12年2月10日、謙信陣中より書を三木良頼および塩屋秋貞に送り、飛州の近況を報ぜしむ。同日、越後の将・村上源五国清より、書を江馬の家臣・河上式部少輔へ送る。按ずるに飛州の土豪、近頃武田に親しみ、自然越後と疎遠なりしゆえならん。
正親町天皇元亀2年6月13日、江馬輝盛、河上中務丞をつかわし、謙信の越中静謐につき、納馬の賀を述べしむ。
同10月、飛州塩屋秋貞、家臣後藤内記・和仁藤兵衛をつかわし、謙信へ熊皮10枚、鉛10斤献ず。
同9月18日、謙信越中富山にありて、書を留守中の諸将へ送り、武田勢越後侵入の聞こえあるをもって、春日山の守備を厳にせしめ、また飛騨の江馬輝盛陣中へ来会せし由を報ず。同日、江馬の将・和仁備中守、謙信の越中出馬を祝して太刀を献じ、謙信書を下して謝す。
同天皇天正元年、久嶽祖参、高原郷一重ケ根禅通寺を興し、開山となる。この寺永享年中、江馬時経の開基なりしが、その後廃退せしを再興せしものなり。
天正元年4月30日、越後上杉の将・河田長親、謙信の侍臣・吉田喜四郎へ信玄死のこと、不確かなるにより、塩屋筑前守を近日飛州へ下し、探聞すべき旨を諭す。
同年9月塩屋秋貞、家臣後藤内膳をつかわし、熊皮100枚・綿300把・鉛1000斤を春日山へ献ず。
天正2年9月28日、武田信玄・勝頼連署にて書を鍋山豊後守へ送り、明春出征して、三木自綱を誅伐すべき由を告ぐ。けだし江馬氏より出征を請いしも、時すでに向寒降雪の期に向かうをもって延引したるものならん。
同9月2日、金森五良八長近、軍功により織田信長より越前大野の地を賜り、その地に亀山城を築く。
同年7月14日、高原郷、西漆山地内、高原川餅ヶ淵に石地蔵尊浮現し、里人堂を建て安置す。養蚕守護仏として今に崇敬者多し。
同9月23日三木自綱上洛して、織田信長に謁す。
天正3年正月11日江馬輝盛、富奥甚助へ鎧一領を賞与す。
天正4年5月、本願寺顕如、願智坊を飛騨へ下し、籠城危急につき門徒の合力を求め、同月21日、本願寺家宰、下間頼廉書を飛州の総門徒に下し、紀州雑賀に異心の徒出来に付き、速やかに来援を求む。けだし、この頃織田信長しきりに本願寺を攻め、大坂城危急に迫りたるによるなり。
同年7月25日、足利将軍義昭、上杉謙信に内書を下し、加州本願寺一揆と和し、速やかに越前へ出馬せんことを勧め、謙信これを諾す。けだし信長に対する戦策ならん。
同月下旬、謙信その将柴田・色部両氏をつかわし、塩屋秋貞を先鋒として飛騨に乱入し、三木自綱・江馬輝盛・内ヶ島氏理等を攻めてこれを降す。
同年9月8日、上杉謙信、越中国、栂尾城※・𡑭山の2城を陥れ、飛騨口に砦2ヶ所を築く。
※栂尾城…とがお。現富山市大沢野、猿倉山。
天正6年7月16日、江馬時盛、高原城に横死す。はじめ江馬時盛嫡子輝盛とともに武田信玄に属し、戦功多かりしが、永禄8年信玄越中・中地山討伐の時、輝盛恩賞の薄きを不平とし、ひそかに越後の上杉に通ず。
父時盛これを諫むれども聞かず。輝盛豪胆不仁にして暴行多し、時盛常にこれを憂う。たまたま時盛は高原城に、輝盛は中地山城にありて、互いに反目す。
時盛老齢家をその次子信盛に継がしめんとし、分家麻生野慶盛またこれに与かる。しかるに信盛は輝盛を恐れて諾せず。のがれて甲斐に赴き、信玄の幕下となる。時盛やむを得ず、小嶋城主時光の子を入れて嗣となさんとせしも、重臣らの諌むるところとなりて果たさず。
輝盛これを聞きてますます憤り、その臣鎌崎忠胤をして、事に托して時盛を殺さしむ。ここにおいて中地山城を家臣河上中務丞に守らしめ、自ら高原本城に帰りて、家を継ぎ、また麻生野慶盛が父に加担して己を除かんとせしを憤り、夜に乗じてこれを襲撃す。慶盛衆寡敵せず、奮戦城を焼きて自殺す。年35。時に天正6年8発17日、麻生野家ここに滅ぶ。慶盛法名良心院殿通月清沢大禅定門と号す。
この時、慶盛の室女小松は、一子小次郎を携え家士大坪某に助けられ、城をのがれて白川郷より越中五箇山を経、射水郡小泉村、内ヶ戸某に頼り、小次郎を同地の真言宗泰立寺幸尊の徒弟とし、養慶と名付く。これ後の江馬大成院の祖なり。
天正6年3月13日、上杉謙信、越後春日山城に卒去す。年49。
同4月7日、織田信長さきに謙信卒去し、その子景勝・景虎、家督を争うて上杉家に内訌起こる聞き、神保長住に佐々長秋を添えて越中に下らしめ、飛騨国司姉小路自綱をして、これに合力せしむ。
長秋ら越中に下り、書を越将河田長親に送り、勧降せしむ。
同9月24日、信長の将斎藤新吾、飛騨にあり、兵を駆って富山城を屠り、10月4日、河田豊前※・椎名小四郎の守れる今泉城下に火を放ち、新川郡月岡に戦い、上杉方の首を斬ること360、かつ所々の人質を取り、神保に送る。
※河田豊前 河田長親のこと
同天正6年9月5日、江馬の拠城中地山城陥り、守将たりし河上中務丞富信逃亡し、河上伊豆守戦死す。
同天正6年10月27日、江馬輝盛書を河上用助に下し、商人方の儀諸事上下宿の事をつかさどらしむ。
天正7年4月、三木自綱(姉小路を称す)、松倉城を築き、これを夏の城とし、益田桜洞を冬の城として居る。
同天正7年12月29日、江馬小三郎貞盛卒去す。貞盛は時盛の三男、輝盛の弟なり。輝盛家督の事より父時盛と不和となり、ついに鎌崎忠胤をしてこれを殺さしむ。
爾来兄弟親戚を疑うこと甚だしく、弟信盛を追い、麻生野慶盛を滅す等、暴挙多し。貞盛、禍の身に及ばんことを恐れ、夜に乗じて従士とともに城を逃れ、能登へ赴かんとし、鹿間谷より山道を越え、笈破※に至る。
道路険悪、たまたま大風雪にあい、進退きわまり雪に埋もれて死するもの多く、貞盛もまた助けられて笈破村の百姓中田某の家に入りしも、ついに同家にて凍死す。相光寺殿東山一光大禅定門と号し、墳墓今笈破にあり。
※笈破…オイワレ。地名。
著者いう。江馬輝盛の逃遁は兄輝盛との関係にあらず、金森氏の征討を恐れて逃れてたるものとある史家は言い、死亡年月日法名等も、諸書一致せず。右記録は現今郷土における古文書および菩提寺過去帳によりて記載し後考に資せるものなり。
同天正10年、信長、武田勝頼を征伐せんと、2月9日軍令を発し、自ら7万余騎を率いて、伊那口より向かい、信忠は5万余騎をもって木曽口より、金森長近は3千人にて飛騨より、徳川家康は3万5千騎を率いて駿河口より向かう。
同天正10年6月2日、信長京都本能寺において、逆臣明智光秀に討たれ、同日織田信忠もまた、二条城にて戦死す。この金森長近の息、忠次郎殉死す。歳19。松山貞室大禅定門と諡す。
同13日、長近、羽柴秀吉に従い、明智光秀を山崎に討ちてこれを滅ぼし、10月15日大徳寺における信長の葬儀に参列す。
同天正10年10月26日、江馬輝盛兵を率いて小嶋城下に迫り、城主時光を攻む。たまたま和議起こりて、輝盛荒城梨打城へ引き上ぐ。
27日三木自綱入道休庵、古河・小嶋・小鷹利3ヶ所の兵をもって、輝盛と荒城八日町に戦い、輝盛は牛丸又太郎のために討たる。江馬の重臣川上縫殿介以下これに死す。輝盛法号旭光院殿天岳良英大禅定門。
安国寺別源は大檀那たるをもって、とみに葬儀を行う。荒城川の橋の側に墓碑を建て、和仁・河上等13士の屍もまた道筋に埋めて、塚を立つ。今十三墓峠という。
同10月28日、小嶋侍従時光の兵高原に討ち入り、江馬の本城諏訪城を陥れ、大鐘・経巻・その他を分捕りして帰り、これを己の城下なる宮谷寺に寄進す。
天正12年4月14日、江馬時政、中山弥四郎分ならびに荒木下切1貫200文の地を河上用介へ宛てがい、河上中務丞富信一人の状を添う。按ずるに、時政は輝盛の子ならん。
同天正12年9月23日、石徹白彦右衛門長澄※、三木挙兵の噂を聞き、尾州在陣の金森長近に報ず。長近この日復書して事実精査の上再報せしめ、また当所閉陣の後、郡上長滝へ出陣すべきよしを告ぐ。
※石徹白彦右衛門長澄…人名。姓が石徹白(いとしろ)
同10月2日、長近豊臣の命を奉じて、飛騨国へ発向し三木氏を討つ。
天正13年8月6日、長近、飛騨白川岩瀬橋にて、内ヶ島の将尾上備前守と戦う。8月8日秀吉越中征伐のため京都を発す。同10日金森父子、原・遠藤と兵を合わせて、白川牧戸城を攻め、遠藤慶直戦死し、同胤安負傷す。この夜、長近間者をして火を白川城に放ち、襲撃して100余人を殺す。
牧戸城主川尻備中守氏信、これより先内ヶ島を背きて越前に走り、この役に嚮導たりしと。
同11日金森父子兵を分かちて、長近は小鳥谷を越えて、吉城郡下山中へ回り、可重は馬瀬谷を越えて、美濃の和良より、益田郡下原口に向かう・
同13日長近下山中、稲越に至り、小鷹利城を攻撃す。城主小鷹利某、家老牛丸某、敗走して常陸に赴き、佐竹氏に頼る。この夜長近小嶋城を襲い、城主小嶋時光敗走し、追兵のために討たる。また、可重は美濃金山口より益田に入り、三木の将・舟坂又左衛門、熊崎某を捕らう。
14日長近古河城を取り、本営とす。今の高野蛤城なり。この日可重は益田萩原城を陥れる。
15日長近広瀬城を攻め、城陥り、城主三木休安自綱京都に逃ぐ。この役に旧城主広瀬兵庫守宗直、長近の嚮導たりしという。同日可重は進んで阿多野城に迫り、城主東藤甲斐守逃走し、信州に赴く。また鍋山城主鍋山豊後守季綱は開城して松倉城に赴き、兄秀綱と合す。
16日長近、可重、鍋山城に入りこれを本営とし、可重は松倉城に向かい、長近は一ノ宮城に向かう。城主一ノ宮入道三澤、夜に入りて出逃し、翌日山之口村にて捕らえらる。
17日可重松倉城を攻む。畑六良左衛門よく戦いしも、金森の家士・山蔵縫殿介これを討殺す。
18日、長近、合崎山にて松倉城と対陣し、ついでその将嶋野隼人、川尻備中守、江馬左馬介、広瀬兵庫らをして、川上郷に入り、松倉の背後を脅かす。城方の将、垣見和泉守、中田大隅守ら野居原に迎え戦い敗れ退く。
20日、豊臣秀吉、加越境、倶利伽羅嶺に至る。この日松倉城なる広瀬新蔵ひそかに金森に通じ、夜に乗じて城に火を放ち、城ついに陥る。三木秀綱兄弟、松倉を脱して平湯の険路を越え信州へ逃れんとし、途中大根川にて秀綱は土民のために殺さる。
8月下旬、白川帰雲城主内ヶ島氏理、鍋山に来たりて金森に降参す。長近許して本城に帰らしむ。この時、長近飛騨国平定せしをもって、可重を鍋山城の留守たらしめ、自ら越中に赴き、秀吉に謁して飛騨一国平定の旨を報ず。
閏8月15日、はじめ一ノ宮入道三澤の捕らえらるるや、長近旧領民の請を容れ、放ちて久々野村に居らしむ。しかるに不平の徒、ひそかに三澤を擁して一揆を起こし、鍋山城を襲う。長近討ちてこれを退く。また久々野、阿多野の一揆は一ノ宮城を襲う。可重銃火を乱射してこれを防ぐ。一揆退いて一ノ宮に籠もる。長近、可重一ノ宮に合して三澤を攻めてこれを殺し、その首を梟す※。一揆はじめて平らぐ。
※梟す 梟首(きょうしゅ)。さらしくび。
同天正13年11月一揆また起こり、江馬左馬介・広瀬兵庫守・鍋島左近太夫、その首領たり。可重討ちてこれを滅ぼす。広瀬は信州へ走り、その後江州井伊家に仕え、鍋山は吉城郡山本村にて自殺し、江馬は荒城八日町にて切腹し、国侍三家断絶す。
天正14年10月27日、僧了最寂す。了最は吉田村常蓮寺八世の住職にして、室は江馬時盛の女なり。資性剛健、おおいに武道を練る。傑僧の名あり。この寺江馬氏の姻戚たりしをもって、三木氏の憎む所となり、江馬落城の翌日兵火にかかりて焼失し、了最もまた奮戦して討ち死にす※。その三男常五郎忠茂は、上杉謙信の家臣となり、山本勘介らと所々に出戦して勲功多く、今に遺物を残せり。
※ 難解。了最はこの文章の中で二回死んでいる。
以下略。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?