【三国志正史】08曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 200年官渡の戦い
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袁紹の攻勢(200年2月~)
200年2月、袁紹は黎陽に進出して陣をおいた。
袁紹は郭図・淳于瓊・顔良に黄河を渡らせた。
顔良が白馬を攻撃した。曹操方は東郡太守劉延が白馬の防衛に当たった。
一般的には、ここから袁紹が撤退するまでの戦いを「官渡の戦い」と呼ぶ。
白馬はかつて夏侯惇も駐屯した所で、東郡の黄河南岸拠点だったようだ。
劉延は籠城し、二カ月に渡って攻撃を防ぎ続けた。曹操軍は白馬になかなか援軍を送れなかった。
郭図・淳于瓊が接近を防いだのかもしれない。彼らの動向はよく分からない。
4月に入って、曹操は白馬救援のため延津に進出した。
白馬の厳重な包囲を薄くするため、荀攸が策を立てた。曹操は策に従い、于禁と楽進を陽動のために出動させた。
于禁と楽進は兵五千を率いて黄河を渡った。黄河北岸を西へと進み、河内郡の汲県・獲嘉県まで進出して、袁紹の陣営をいくつも攻撃した。河内郡東部には袁紹軍が展開していたわけである。
もともと、曹操軍の河北軍政は河内太守魏种が担っていた。魏种は、袁紹が河内へと進出した際に敗れたと見て良いだろう。
袁紹はすぐに本軍から兵を分けて、于禁・楽進を追わせた。
于禁と楽進は袁紹軍を立て続けに破り、何茂・王摩ら二十数人を降伏させた。于禁・楽進は陽動が目的だったはずだが、陽動にはとどまらない大きな戦果を上げた。
于禁・楽進が黄河北岸で袁紹軍を引き付けている間に、曹操は白馬救援の戦いを起こした。
白馬を包囲していたのは顔良である。顔良との戦いでは、張遼と関羽が先陣を務めた。董昭も曹操に付き従っていた。
張遼は数カ月前に呂布軍から降伏したばかりで、関羽もこの直前に降伏したばかりだった。関羽の方は、劉備と共に曹操に仕えていた経験もあるが、いずれにしても直近の降将コンビである。
二人のほか、徐晃も戦いに加わって活躍した。
この戦いで関羽が顔良を討ち取り、白馬の包囲は解かれた。
劉延は包囲が解けるまで白馬を守り抜いたが、以後の記録は残らない。
曹操は、白馬の民を移住させた。包囲は解いたが、白馬を維持することは難しく放棄したと見られる。
袁紹は自ら黄河を渡って攻勢を強めることにした。
延津の南方まで進んで砦を築いた。
また、詳しい時期は分からないが青州から長男の袁譚を呼び寄せた。
延津は曹操軍の拠点だった。
白馬の戦い以前、袁紹軍は于禁が守る延津を落とせず前進を阻まれていた。于禁は楽進とともに河北へ出陣したので、曹操軍は延津を守れなくなったのかもしれない。
ともあれ、袁紹軍は兗州東郡内に拠点を築いた。
程昱は都督兗州事に任じられて鄄城に駐屯していた。
程昱は兵七百しか率いていなかったので、曹操は兵二千を増強しようとした。
しかし程昱は「兵が少なければ袁紹は無視するだろう。増強したら攻略目標とされ、勝ち目はない」と言って、増援を断った。曹操は、そばにいた賈詡に振り返り、程昱の胆力を褒めたたえた。
はたして袁紹は東方の程昱を無視し、南進を優先した。
袁紹は、文醜と劉備を先鋒として曹操の陣営を攻撃した。
曹操は荀攸の計略を用いて、輸送隊を囮にした。
文醜の部隊が物資や馬の捕獲に気を取られている隙をついて攻撃に出て、文醜を討ち取った。
白馬の戦いに続き、徐晃が活躍した。
張遼伝にはこの戦いの記述がない。ただし、その前の白馬の戦いも張遼伝には載っていないので、この時期の記録がまとめて抜け落ちているようだ。
顔良に続いて文醜も討ち取られ、袁紹軍は一時恐慌状態となった。
しかし曹操は袁紹軍を撃退することは出来ず、官渡に帰還した。
于禁は別軍を率いて原武に駐屯し、杜氏津にあった袁紹軍の陣営を打ち破った。この功績で、于禁は裨将軍に昇進した。
袁紹は延津から陽武に進出して拠点を築いた。官渡攻撃の準備が整った。
ここまでの記録では曹操軍が優勢のように見えるが、実際には袁紹軍が前進を続けている。
官渡攻城戦(200年8月~)
8月に入って、袁紹は自軍を東西数十里に渡って広く展開し、じわじわと前線を押し上げていく作戦を取った。
曹操は一万の兵を複数の部隊に分割して対応しようとしたが、兵力で劣っており敗戦となった。
曹操軍は官渡まで押し込まれて籠城戦となった。
袁紹は高い櫓と土山を築いて、官渡の城内に矢を射かけた。
官渡城内では、于禁が守備の指揮を取って対応した。それまで于禁が駐留していた原武は放棄したのかもしれない。
籠城戦は状況がはかばかしくなく、曹操は許まで撤退することを考えた。
荀彧に手紙を出して相談したが、荀彧は曹操の意見に同調せず、官渡で戦うよう曹操を励ました。
糧食の少なくなる中、曹操は厳しい籠城戦を続けることになった。
ただし官渡は完全に包囲されていたわけではなく、ある程度自由に出入りしていた様子が伺える。
李典は一族を率いて穀物と布を官渡に補給した。
また、幽州の鮮于輔も官渡まで駆けつけている。
袁紹の南方調略
袁紹は官渡への攻撃を続ける一方で、曹操領内への調略もぬかりなく続けていた。
陽安都尉李通のもとには、征南将軍の印綬が届いた。李通の周囲、汝南郡のあたりには袁紹・劉表の調略が及んでおり、李通は孤立状態になっていた。親族たちも袁紹・劉表と手を結ぶよう訴えた。
李通は曹操への忠義を選んだ。李通は袁紹からの使者を斬り、印綬を曹操に送るとともに、郡内の反乱を鎮圧した。
李通は、規定通りに領内で物資を徴発して、曹操の元へ送ろうとした。
しかし徴発内容は厳しく、領民の反発が起きた。
郎陵県令趙儼が李通を諫め、徴発を停止するよう求めた。
趙儼は荀彧と連絡を取り合って事情を説明し、曹操から正式に徴発停止の命令を受け取った。陽安郡の動揺は鎮まった。
劉備の汝南進出
豫州で袁紹派の中心となったのは劉辟である。
劉辟は、曹操が豫州に進撃した際に破った諸勢力の一人。武帝紀では、そのとき斬られたことになっていた。実際には、降伏して曹操に仕えていたようだ。
袁紹は劉辟を支援するため、劉備に兵を貸し与えて派遣した。
劉備は豫州牧に任じられていたので適任だっただろう。劉備が汝南にやってくると、関羽が脱走して劉備に合流した。曹操は関羽が劉備の元へ向かうことを許した。
祝臂も劉備らの勢力に加わった。
劉備・劉辟・祝臂は汝南を荒らしまわり、許に迫った。
許の隣・イン強も陥落した。
曹仁の豫州平定と再乱
曹仁は、劉備の率いている部隊が袁紹の兵であり、十分に統制出来ていないことを見抜いた。かなり細かく偵察出来ていたようだ。
曹仁は騎兵を率いて反乱鎮圧に向かい、劉備・劉辟を破った。劉備は袁紹の元へ撤退した。
曹仁は劉備らに呼応した諸県を平定した。
曹洪と徐晃も出撃し、イン強で祝臂を破った。
袁紹は韓荀を派遣したが、ふたたび曹仁に破られた。
袁紹の元に戻った劉備は、元来の部下を率いてふたたび汝南へと出陣した。
この頃、袁紹が拠点にしていたのは陽武だろうか。豫州とは自由に行き来できているようだ。
張飛も兵を率いて活動している。張飛は汝南郡の隣、沛国まで進出した。沛国で夏侯淵の姪を捕らえている。張飛はその娘を妻とした。
劉備は汝南の反曹操陣営と合流し、その勢力は大きく伸びた。
曹操は蔡陽を派遣したが、劉備に敗れて斬られた。蔡陽は他に事績が残らない。
劉備は官渡の戦い後も汝南郡に駐屯を続けた。
兵糧を巡る戦い
官渡や豫州をめぐる攻防戦が続く一方で、袁紹・曹操はお互いの補給妨害に力を入れた。
袁紹軍の攻撃で、曹操軍の補給隊にはしばしば被害が出ていた。
曹操軍の兵糧輸送を司っていたのは任峻である。
任峻は曹操の信任厚く、以前から曹操が出陣するときには留守を預かり、兵糧輸送を担当するのが常だった。
任峻は、攻撃に対応するための防御陣形を考案した。
車千台を一部隊とし、二重の護衛隊で囲むというもので、かなり大規模な輸送である。
この形を取るようになってから、曹操軍の補給隊には被害が出なくなった。ただし補給隊は相当に酷使されていたらしい。曹操自身が「もうすぐ敵を打ち破って、これ以上補給隊に苦労はかけないからな」と謝罪している。
一方、袁紹の方はさらに大規模で、数千台規模の補給隊を組んでいた。
荀攸が策を立て、史渙、徐晃、曹仁が補給隊に攻撃をしかけた。史渙らは袁紹軍の兵糧を焼き払った。
袁紹軍は兵糧不足に陥った。袁紹は断続的に補給を行うのではなく、大規模な輸送作戦を実施して、兵糧不足を一気に解決しようとした。
その任務は淳于瓊に託した。
淳于瓊は補給隊を迎えに行き、護衛しながら南下を始めた。
補給隊は順調に進軍を続け、目指す拠点まで四十里のところまで来た。
淳于瓊は陣営を築き、敵襲に備えて守りを固めた。
その場所が烏巣である。
許攸の裏切りと決着(200年10月)
袁紹の側近許攸が曹操の元に投降してきた。
この頃、曹操側から袁紹へと投降する将兵は多かった。あまりにも多く投降してくるので、袁紹軍は兵糧不足がさらに悪化している。
許攸は逆である。
裏切りの理由は複数挙げられている。
・許攸は財貨に貪欲だったが、袁紹は満足させられなかったため
(武帝紀)
・許を急襲するよう袁紹に進言したが、聞き入れられなかったため(武帝紀注『漢晋春秋』)
・許攸の家族が法令に違反し、それを審配が逮捕したため(荀彧伝)
・曹操と戦ってはいけないと袁紹を諫めたが、聞き入れられなかったため(崔琰伝注『魏略』)
どれが正しいのかは分からない。
許攸は淳于瓊と補給隊が烏巣にいることを曹操に知らせた。
側近の多くは偽投降を疑ったが、荀攸と賈詡は烏巣攻撃を勧めた。
曹操は烏巣急襲を決めた。
官渡の留守は曹洪に任せた。
いざというとき、曹操の代理人となるのはやはり曹洪のようだ。
荀攸も官渡に残り、曹洪を支えた。
曹操は自ら兵五千を率いて夜中に出発した。
部将には楽進を選んだ。
他の諸将は曹操・曹洪のどちらに属したのか分からない。
曹操・楽進は、夜明けごろ烏巣に到着した。
淳于瓊は迎撃に出るとともに、すぐ袁紹に通報したようだ。
烏巣から袁紹の陣営までは四十里。
袁紹は、烏巣救援のため騎兵を送り込んだ。速度を重視したのだろう。曹操が淳于瓊を破るより早く、援軍は烏巣へと迫った。
曹操は援軍接近の報を無視して強攻を続けた。
結局、曹操は淳于瓊・援軍ともに破り、烏巣の兵糧を焼き払った。
袁紹は官渡への攻勢を強め、曹操が留守にしている間に陥落させようとした。
張郃・高覧らが官渡を攻撃したが、曹洪が防ぎ切った。
淳于瓊敗北の方がもたらされると、張郃・高覧は曹洪のもとに投降してきた。
曹洪は疑ったが、荀攸の勧めで二人を受け入れた。
張郃らの投降をきっかけに袁紹軍は総崩れとなり、袁紹と袁譚は黄河を渡って河北へと逃走した。
曹操軍は追撃に出て、多数の捕虜を得た。その中には沮授もいた。曹操は、捕らえた袁紹軍の兵たちを殺害した。
この頃の配下
鮮于輔は幽州から官渡に駆け付けてきた。その際、左度遼将軍に任命された。
また、戦い中に閻柔も帰服を申し出ており、護烏丸校尉に任命された。
曹操は「袁紹が公孫瓚の首を送ってきた時は、ただ茫然と見るしかなかった。今こうして勝利を得たのは天の御心によるとともに、諸君のおかけでもある」と述べ、幽州諸将に感謝を伝えた。
鮮于輔は幽州に戻り、現地の統治に当たった。
揚武将軍張繍は、官渡の戦いで大きな武功を挙げ、破羌将軍に昇進した。具体的な動向は分からない。
伏波将軍陳登は、広陵太守から東城太守に移った。孫権が帰順してきたので、陳登と孫権の衝突を避けるための処置を取ったのだろう。
夏侯淵は官渡の戦いのとき行督軍校尉となった。校尉と言っても、将軍配下の部隊長ではなく高級武官の方の校尉である。潁川太守から移ったのか、督軍校尉を加えられたのかは分からない。
于禁は官渡の戦いでもっとも大きな功績を挙げた一人で、戦い中に裨将軍に任命された。戦後には偏将軍へとのぼった。
于禁と共に活躍した楽進には昇進の記録がない。楽進は、淳于瓊を斬って戦いの帰趨を決めた立役者なので、記録漏れなのかもしれない。
徐晃も官渡の戦いで大きな活躍があった。裨将軍から偏将軍に昇進した。
張遼は裨将軍に昇進した。
李典も戦後、裨将軍に昇進した。
張郃は、投降してくるとすぐ偏将軍に任じられた。
この時期、裨将軍と偏将軍が乱発されている。
許褚は、曹操周辺で起きた反乱を鎮圧した。普段から曹操に随行していた兵士たちが曹操暗殺を図ったもので、この一件以降、曹操は許褚を左右から離さなくなった。
華歆は孫権に仕えていたが、官渡の戦い中に曹操から招かれた。曹操のもとに到着すると、議郎・参司空軍事に任命された。
王朗も同様に曹操から招かれたが、こちらは曹操の元へ出頭するまで数年かかった。
徐州牧董昭は、官渡の戦いが起こると魏郡太守に転任した。劉備反乱の後始末を終えて、曹操の元へ戻ってきたということだろう。官渡の戦いにも曹操の側近として参加している。冀州牧賈詡と同じく、実態はなく曹操のブレーンを務めた。
荀攸と郭嘉も参謀として戦いに参加し、特に荀攸は献策の記録が多い。
荀彧は許に残って留守を守った。
東海太守昌豨はふたたび叛いた。詳しい時期は分からない。
官渡の戦い直前に曹操の討伐を受けて降伏していたが、直後にまた反乱を起こしたようだ。
豫州方面の混乱を鎮めるため、曹操は陳羣と何キを県令として送り出した。劉備の反乱に伴って動揺した地域を慰撫するための人事なので、本当の時期は前回の記事で扱った頃である(忘れていた)。
許攸は袁紹を裏切り、官渡の戦いの帰趨を決定づける情報をもたらした。許攸は曹操の幕下に加わったが、具体的な官職は分からない。
録尚書事・司空・兗州牧 曹操
侍中・尚書令 荀彧
軍師 荀攸
軍師祭酒 郭嘉
左度遼将軍 鮮于輔
伏波将軍・東城太守 陳登
建武将軍・河南尹 夏侯惇
振威将軍・都督兗州事 程昱
破羌将軍 張繍
平虜将軍 劉勲
諫議大夫 曹洪
議郎 曹仁
議郎・司空参軍事 曹純
議郎・参司空軍事 華歆
侍中・司隸校尉 鍾繇
魏郡太守 董昭(前職:徐州牧)
冀州牧・参司空軍事 賈詡
揚州刺史 劉馥
泰山太守 薛悌
督軍校尉・潁川太守 夏侯淵
東郡太守 劉延 ※以後記録なし
琅邪相 臧覇
北海太守 孫観
東海太守 昌豨 ※二度目の反乱を起こした
領軍 史渙
護軍 韓浩
偏将軍 徐晃
偏将軍 于禁
裨将軍・陽安都尉 李通
裨将軍 張遼
裨将軍 李典
討寇校尉 楽進
襄賁校尉 呂虔
校尉 許褚
中郎将 王忠
典農中郎将 任峻
屯田都尉 棗祗
司空主簿 王必
司空東曹掾 毛玠
司空西曹属・許令 満寵
県令・県長 司馬朗、趙儼、梁習、陳羣、何キ
その他の配下 丁斐、朱霊、婁圭、許攸(新加入)
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