料理の鎖に囚われて(私小説)

私は梅田にある某調理師学校の卒業式を控えていた。
3月から、京都にある某ホテルの中華料理店に就職がきまっていて、入居の準備が、やっと終わったところだった。
私と留学生の任さんは、在学中の話などをしていて、ホテルに出す書類の話をした。
卒業証明書と呼ばれる証明書がいるのだが、頭の悪い私は、卒業試験で、2度失敗し、卒業見込み証明書しかもらうことができなかったのだが、事務に、話すと2度目の試験で、受かったら、卒業証明書を出せると言われたので、受かったら、卒業見込みじゃなくて、卒業証明書にしてくるとばかり思っていた。
卒業式当日、卒業証明書をもらえると思っていたら、卒業見込み証明書の券しか買っていなかったので、卒業見込み証明書しかもらえなかったのである。
焦った私は、すぐに、学校に連絡をした。
その後、卒業証明書の券のお金を払って、発行し、事務の人に渡した。
どうやら、卒業証明書ができるまで、一週間もかかるというので、後で渡すと会社に伝えた。
卒業式を終えて、ホテルの研修中のことだ。こんなにも恥ずかしいことはないと思った。
4月1日から、4月の5日までが、研修の期間だった。
研修の内容は、礼儀作法や水をグラスに注ぐ方法や料理が入った皿の運び方、洗った皿の拭き方、畳の上での歩き方、などを、教わった。
内心厨房で働くので、料理の入った皿を運ぶことはないと思いながらも、真剣に、研修をおこなった。
最後の5日目には、試験のようなものがあり、喫煙の場所はどこかなどの、ありがちな客の質問に答えた文を覚えて、暗記して書くテストがあった。
私は、全然できなくて、赤点だったことは、覚えている。
研修が終わり、4月6日が休みで、4月7日と4月8日が仕事だった。
4月7日の日の業務内容は、中華料理でよく使う調味料の補充や、準備などをしたり、料理の盛り付けなどを行う業務をした。
昼休憩に、食堂にいって、かけうどんを注文して、食べながら、テレビをみた。
その時みたテレビ番組は、ニュース番組で、緊急事態宣言を出すのかどうか、というもので、皆が注目する内容だった。
同期のメンバーがその時奇跡的に集まっており、「緊急事態宣言になったら、どうなるのかなぁ」「出ても、変わらないだろ」と呑気なことを、口ずさんでいた。
その日の夜、料理長から電話があって、4月8日の仕事は休みになり、その後の予定はわからないという事態になった。
聞けば、緊急事態宣言が発令したということだった。
私は、親にこのことを、連絡して、実家に帰ることになった。
なんかこの時の私は、一回職場体験をしたみたいな感じの気持ちだったのである。
そんな鈍感な私でも、少しは不安な気持ちを感じて、調理師学校時代の友人に連絡を取ったりしていた。
実家で、2ヶ月間くらい過ごしたある日、ホテルの総務から、連絡があり、仕事が再開した。
再開したものの、1ヶ月の出勤日が8日だけとだんだんなってきた。
料理長も危機感を感じたのか。このままでは潰れるんじゃないかと呟きだしたのだった。
盛り付けなどをしていて、こうやってやるということは、わかっていたのだが、盛り付けの仕方が悪かったらしくだんだん注意から、怒鳴られることが多くなり、渋々洗い物をすることがあった。
仕事を覚えたいはずなのに、気がついたら、この店の、洗浄機となっていたのである。
真空の機械を使って、真空袋に入った食材の空気を遮断して、しめるという作業に時間がかかってしまったことが原因で、私は、料理長や職場の人たちから、無能というイメージが、定着しつつあった。
そんな時、一緒の調理師学校を卒業した。在学中同じクラスで、卒業後それぞれ京都の店に就職した。江崎さんと矢野さんと集まることが多くなった。
よく、料理長から怒られたりするという話をすると、みんなは「1年目はそういうもんだろ」と口を揃えていったので、そういうものなんだ。聞き流すべきものなんだと思いあまり、真剣に考えずにいた。
それでも、料理をやめたら、次どうしたら良いのか分からなくて、でもなんか今の職場が、楽しいという感情を感じることはなかった。
なんか、みんなから、讃えられるようなことがしたいと思い。なろう小説を書いたりした。最初はSFっぽい、星新一先生のショートショートみたいなものを書いたり、エッセイみたいなものも書いたりして、読者から感想があったりもしたが、それ以降は、何も評価されない日々が続いた。
その後も、血迷って、悩んだりしながら、ホテルで怒られて、働き、たびたび料理長から、呼び出されて、これからどうしていくべきか考えていくべきだという話をした。
そんな日々を送り、また矢野さんと江崎さんと会って話をした。
江崎さんは、ホテルに就職が決まったが、やめて、祇園にある居酒屋で働いている。
矢野さんは、フランス料理店で働いていて、持ち前の生意気な性格から、フランス人の料理長から目の敵にされているという。
江崎さんの話は、本当の話なんだろうと思って聞いているが、矢野さんの話は、少しというかかなり、脚色した内容ぽくて、大袈裟であった。
矢野さんはよく「料理長に気に入られる方法を知っているか。ここの店の味、美味しくないですね僕、ここの店より美味しい店知ってますよって言うねん」と言っていた。
そんなこと、口が裂けても、言えるわけがないなと思い正直に、「そんなこと言えるわけないねん」と返していた。
矢野さんは、どれが本当の話なのかわからないと噂されるほどの、作り話の天才である。
そういえば、矢野さんのエピソードで好きな話がある。
それは、矢野さんは誕生日の日に製菓のほうに、顔を出し、自分のためにお菓子を作って欲しいと、はっきり言わずに、つくってほしいような素振りを見せて、「僕、あんまりご飯食べてなくて」と何度も連呼して言ったら、優しい製菓の人がお菓子を作ってくれたという話が、私のお気に入りである。
ちなみに、矢野さんと江崎さんは、一軒屋の店で働いていたので、休みが少なくて、大変だとも言っていた。
そうか、みんな頑張っているんだな、僕も頑張らないといけないと思い怒られながら、働いていた。
仕事で注文の伝票を読まして、いただくことがあって、漢字が並んでいるのが料理名で、その料理名を音読するというものがあって、まず初めに見た時に、えっこれって、こう読むのと思ったりした。
覚えているので言うと、粟米湯や乾焼蝦仁、古老肉などである。
粟米湯はスーミータンと言い、乾焼蝦仁をがんそうみぃーしゃと言い、古老肉をクウロウルと言う。
意味は、粟米湯はスープみたいなもので、乾焼蝦仁は、エビのチリソース煮、古老肉は、酢豚みたいなものである。
これを覚えるのにも結構時間がかかり、かつ厨房の奥にいる人にも聞こえるように読まないといけないのが難点だった。
実は、私は声量が小さいのである。
中学の時にやっていたテニス部の時の掛け声で、声変わり中に、ファイト、などを大声で言ってたのが原因で、喉を痛めているかだと、個人的には、思っている。
仕事を覚えたくて、先輩にしつこくつきまとい、「やることありませんか」と聞きに行ったりもしていた。
蟹の身をほぐしたりや生姜の皮を剥いたり、唐辛子の種を取ったり、エビの背腸を取ったりもした。
そして、例えば生姜の皮を全部剥くのに、かなりの時間がかかってしまったので、先輩から「遅い、俺がやった方が、数倍ははやい」と言われたり、「お前がやったら、またどうせやり直さなあかんから任したくない」とも言われた。
その度に、私は「すみません」と謝って、恐縮する。
任してもらうことがあるたびに、こんなことを言われ続けて、恐縮することに、嫌気もあった。
そんなこともあって、盛り付けなども、相変わらず汚いままだったので、「洗い物をしろ」と言われて、洗い物をやることが多くなった。
料理長に、また呼び出されて、親に今後のことについて相談するということになった。
そんな矢先に、矢野さんが、仕事を辞めたことを知る。
私は矢野さんに電話をかけて、これからどうするつもりなのかと聞いた。
すると、バイトをしながら、就職先を決めると話ていた。
バイトもその時は、探し中だったらしく、いいところがないと嘆いていた。
私は「派遣はどうなん」と言って、偉そうに、アドバイスしてみたら、「嫌」とその時は言われた。
その後、矢野さんは、派遣のバイトをして、就職活動を頑張っている。
時々「交通費出ないのは、だるいわぁ」と愚痴っている。それを聞くたびに、学生時代に派遣バイトをしていた私はうなずいて、感傷に浸っていた。
正直私は、矢野さんが働いていた職場は、かなり労働環境が悪かったと聞いていたので、やめたのは、よかったと思っていた。
そんなこともあって、自分もやめたら、次の就職先も決まらずに、困難に直面するだろうと思い気を引き締めていくべきだと、思った。
母親に、とりあえず、職場の話をすると、料理長が私をいじめていると解釈したらしく、「あんたのことを、やめさせようとしてるんやで、それ、何度も呼び出して話したんやろ」と怒りの感情を爆発させながら、ぼそっと呟いた。
私は、料理長が私のことを思って、今後のことを考えていったらいいと言っているのか。ただ私が無能だから排除したいのか分からなかったので「う…うん」というしかなかった。
母親は、子供の一大事なことは、父親に相談するので、もちろんこのことも父親が、出てきたのである。
父親は、威厳を保つため、大事なことしか口を出さない人というイメージがあったので、やっぱり出てきたかと思った。
父親は、私の話を冷静に聞いて、さすが夫婦というやつなのか。料理長が私を辞めさせようとしていると解釈したようだった。
父親は、「料理長に、明日なぁ、父親が食べに行こうと思っていると言いなさい。さすがに、父親がきてると思ったらしっかりするだろ」と言った。
私はそんな単純なことではないような気がするとおもいながら、料理長に、「僕の父が、今日食べにいこうと思っているそうです」と言ったら、料理長はその日はずっといるわけではなかったので、「何時に来るねん」と言った。私は、「何時か分からないです」というと、「時間を聞け」と言われたので、父親に電話をすることになった。
私は「料理長が話があるから、何時に来るか知りたいらしい」と言った。
すると、父親は、「はぁ、何で何時に来るか言わないとあかんねん」ときれぎみで言って、はっきりと時間は言わなかったが、17時くらいだというので、「17時くらいだと思います」と料理長に伝えた。
その後11時半から15時までのランチが終わり、休憩に入った。
その時に、父親から、17時過ぎになるというラインが来た。
その後廊下で、料理長と鉢合わせになったので、「17時過ぎになるそうです」と言って、更衣室に戻り、椅子に腰掛け休憩していると、先輩がやってきて、コック服を替えるようにと言われた。
その時着ていたコック服は、昨日に替えたばかりだったので、「昨日かえたばっかりなんですけど」と言ったら、「父親が来たら、ご飯を一緒に食べることになるんじゃないん一応替えとけって」と言われたので、今来ているコック服を脱いで、クリーニングしたのに、着替えた。
やれやれと思って、「一応着替えましたけど、言われてからでもよかったんじゃないんですか」と先輩に言うと先輩は「知らん」と言って突き放したので、そのままの格好で午後のディナーはすることになった。
料理長に休憩いただきましたと挨拶して、溜まっている洗い物を片付けていた。
そしてディナーが始まる時間になり、父親とLINEでやりとりをして、コースを食べているということがわかった。
その前に、「いやぁ今ランチ食べてるそうです」と言ってしまったのである。ディナーの時間でランチなどありえないので、「えっ」と言われて、変な顔をされた。
そして、何のコースを頼んでいるか分からなかったので、また電話をして、一万円のコースを頼んでいるということが、判明したのである。
料理長に伝えにいって、その後料理長と父親は話すことになり、私は結局父親とご飯を食べることはなく、ずっと厨房にいたのである。
21時になり、私は定時業務なので帰る時間となった。
その時に、料理長にお疲れ様ですお先失礼しますと言いに行くと、今日父親と話をしたという内容を聞いた。
その内容は、無能な自分の息子をどうしてもおいてくれないだろうかという内容だった。
もし強制的にクビにしたら、訴えるなどと言って脅してきたともいう。
やれやれ、ホテルということもあって、親が、執着している部分もあるのかもしれないと思った。
そして、料理長も僕の親がどんな人なのかわかったらしく、親に相談しろとは言わなくなった。
その後も、盛り付けなどを頑張っていたが、先輩に退けと言われて、だんだん先輩に盛り付けなどの仕事を奪われていった。
私が先輩に、「なんで、やらしてくれないんですか」と言うと、先輩は、私が覚えようとしないからだ。言い訳を言ってなどと言うので、ため息をつくしかなかった。
ちなみに、箸で盛り付けるので、かなり食材が、すべるのである。
それに、これは慣れもあるかもしれないとも思っていた。
何を言っても、言い訳にしか聞こえない先輩の耳に、何を言っても無駄だと思ったので、「ふぅ〜」と言う感じである。
そんな時に、江崎さんも、今の職場を辞めたという。聞けば、かなりやばいところで、保険証もろくにもらえなかったともいう。そんなところならば、すぐにやめるべき決定打にもなるなと思った。
江崎さんが働いていた時に、矢野さんと私は、江崎さんが働いていたところの居酒屋の近くで待ち合わせしていた。
先輩のパシリで、コンビニに、コーヒーを買いに行ったりしているのを、みて、街場の居酒屋の下っ端料理人って辛いなと思った。
なにより、コロナで、業績が悪化して、潰れていくところもあり、ホテルというものにしがみつきたい気持ちが強くあった。
それは、両親もそうだと思う。だから、ホテルにある中華料理店の料理人をどうしても辞めて欲しくないのだろう。
それは、かなり私も感じていたのである。
それからも、周りからいろいろと言われながら、働いていた。
もうこうなってきたら、何のために、料理人を志したのか分からなくなった。
思い返せば、頭が悪くて、妹との格差を感じていた私は何か兄として、妹には絶対に超えられないものが欲しいと思っていて、高校生の時に資格などがほしいと思い。コンピュータ系は気難しいイメージがあったため、介護の資格の研修や点字検定二級をうけたりした。
でも、生涯やって行く仕事が、介護なのは、この職についている人には申し訳ないのだが、私は少し嫌だと思い。
ゲームが好きなので、ゲームクリエイターになりたいと思って、とある学校に行ったが、落ちて、ご縁がなかったのだと思いあきらめた。
そんな時、親の家庭料理を手伝ったりしていたので、料理人が向いているのではないかという話が持ち上がった。それが全ての始まりである。
親が何か書類を申請していたのかわからないが、大調から電話がかかってきた。
それで、オープンキャンパスにいくことになった。こういう流れがあって、料理人を志すようになった。
面接で自信がなかった私は、作文で、自己PR文を書いて、提出した。すると、うかったのである。
そして、中華の味付け、ごま油の香りとか、オイスターソースの味とかが好きだったこともあって、中華の料理人になった。
いざ働いてみると、体力がないと、大変な仕事だった。
ロケットと呼ばれるでかい焼豚や北京ダックを焼く機械を洗ったり、出汁を取った鳥の大量の骨ガラと呼ばれるものを捨てにいったり、かなり重たいものを運んだりするし、計算ができないと、納品物の注文や売り上げの計算などが、あるので、生半可の気持ちで、料理人なんかにならない方がいい。
職選びに、しくじったのかもしれないと思い始めてもいた。
馬鹿だし、はっきり言って段取りが悪いしで、他の仕事も思いつきやしない。当分は、今働いている料理長のところで、お世話になるしかないだろうと思いながら、はたらいていた。
そんな時、またまた、料理長から、よびたされた。今働いている職場は、某調理師学校の古谷先生の紹介である。
今の職場は、すごく暇で、と言う話の内容から始まり、「えっこれから忙しくなるよ」と言われて「そうですね」と答えて、1ヶ月に8日かんしか出勤日がない話や色々と周りに迷惑をかけているという話などもした。
先生は、すごく前向きで、明るい人で、なんかこの人の話を聞くと、希望が持てるような気にさえなる。
気軽にいこうよ前向きにさぁと声をかけられて、「はい」と言って、先生が紹介してくださったのにも関わらず「今の職場をやめてもいいし、自分にあったところをみつけたら」と言われた。その言葉を聞いて、今の職場を辞めようと決心して、料理長に、3月いっぱいで辞めると言いにいったのである。
料理長は、「わかった。いいよ。次の仕事探してから辞めや、次どうするの、料理でするの、 料理は厳しいちゃうかなぁどう思う。」
私「まぁ、自分でも厳しいと思ってますけど」
料理長「うーん、両親にはいったん?」
私「いやぁ、言ってないです。言っても反対されるだけですし」
料理長「まぁ、古谷先生にも相談しにいきや」
私「はい、今度行きます」
料理長「最後に、料理で、料理でするの」
私「料理でというこだわりはないです」
料理長「そうか」
こういうやりとりをした後に、古谷先生に相談に行った。
古谷先生も探すし、自分でも次の仕事を探しなさいということだった。
おそらく、料理というジャンルであることは間違いないだろう。
古谷先生に、中華料理だったら、広東料理が好きだという話をしたことがあったことが、次の仕事も料理人と印象づけた。
他の仕事をするということも考えているので、とりあえず学生時代の派遣バイトをもう一度やることに決めた。
もしかしたら、派遣から採用されることもあるかもしれないからだ。
調理師学校にせっかくいったんだし、料理人にならないといけないんじゃないかとも思うこともある。
私は、料理というおもりに繋がれた鎖を体に巻きつけながら、生きているのかもしれない。

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