フェミニズムの崩壊(ショートショート)

順応主義者の私は、この国をより良いものにするため、毎年開かれる会議に出席した。
平等民主主義者を謳うフェミさんは、「性別というものを無くそうと思う」と発言した。
その発言に私は、「なぜ無くす必要があるんですか」と問いただした。
すると、フェミさんは、「もう、全員一緒の性別しかなければ、優劣をつけられていると感じなくなるからです」と答えた。
その答えに、「そこまでする必要がありますかねぇ、性別をなくすということは、無性生殖にするってことでしょう。そしたら、人間の成長は本当に止まりますよ。だって子供が自分のコピーですから」と納得いかない様子で、私は言った。
そしたら、「そういうことじゃありません、性別の区別を無くそうということです」と言われた。
この答えに、順応主義の私は、笑いながら、「じゃあ、人類に恋をするなと」と言った。
フェミさんは慌てた様子で、「恋はしてくれないと、子供が、少子化問題のために困ります」と主張する。
なんだか、矛盾しているような気がする私は、「少子化問題のために恋をしろっていうなら、矛盾しています」と反論した。
フェミさんは、私と口論することに、嫌気をさしたのか「これだから、男はすぐ理屈責めにするから嫌い」と言った。
なんだ区別してるんじゃんかと、思った。
今回社会貢献が、どうのこうのという話は出なかったか。
まぁ、男女問わず給料がもらえて、欲しい物が買えている時点で、平等であると思うんだけどなぁと、考えを巡らせる。
それに、いまだに古の差別してるのとか、学校くらいでしょ、制服スカートとかいつの時代だよと思う。
今の時代は、男でも女として扱われてもいいんだっていう甘えもあっていいんだよ、だから、女性専用車両に、男がいても平気なはずだろ。
私は考えを巡らせた。
数分後、たった頃だったか、フェミさんが、「ごめん言いすぎた」と誤った。
私は考えを改めて、「あの後、じっくり考えてみたんだけど、男とか女とかの区別を無くしてもいいと思う」と言った。
こうして、性別を区別してはいけないという法案が施行された。
それから、数日後のことだ。
体育の教科書で、性についての教育は取り扱っていいのかと、議論になった。
フェミさんは、「後世に必要な教材ではあるでしょう。」と少し哀れんだ声で言った。
その姿を見た私は、「恋は、男女のものではないと思います。子供も、一緒です」と、勇気を振り絞って言った。
すると、後ろのすかした野次馬たちが、「それは違います。男と女が、まぐわいをすることで、子供が生まれるそれこそが事実だ。
学校で、変な教育を施されたら、絶対間違った人生を歩む人が、大勢あらわれてしまいます。」と言い出した。
少し暴徒化した野次馬たちは、見ていて、恐怖を感じた。これが、デモというやつなのかと思った。
この考え方は、普遍的でつまらない。
絶対に、こんな意見を持たないと、この時私は誓った。
だからこそ私は、「同性どうして、子供ができるという時代がきたら、教科書に書かれていることは嘘ということになる。その時が来たら、また教科書の内容を変えないといけなくなるんだぞ。事実、そういう研究もされているというじゃないか」と精一杯反論した。
それでも、野次馬は、「その時が来たら、内容を変更したらいいでしょう」と意見を曲げなかったなぜなら、こっちの方が正しいという光が、溢れ出ていたからである。
でも、私も引き下がるわけには、いかなかった。
「お前たちは、そんなに気軽に、教科書の内容を変えられると思っているのか。」
わたしは、必死だった一石投じたいという気持ちだったのだ。
なぜなら、女だけが妊娠するという事実は、性区別を露骨なものにする一因だからだ。
子供は、女の人の体から、生まれてくるから、女の人の所有物という扱いだ。
当然所有物なので、育てるという責任が発生するというわけだ。
だからこそ、育児放棄してはいけないし、子供は親を選べないと強く母親に非難の声が出てくる。
母親ってのは、子供を預けたところが、ろくなところじゃなかったら、なんであんな場所に預けたのだろうって、自分を責める。
自分の子が、なにか罪を犯したら、保護者としての監督責任が問われる。
母親ってだけで、発生する義務感の根本的理由が、女だけ妊娠出産するからだ。
つまり、女が社会で活躍したいなら、子供なんか産まないほうが、利口だってことなんだよ。
根本的にフェミニズムは、崩壊している。
そして、考え抜いた挙句に、私は、「性教育はやるべきだ。フェミさんのいう通りだ。だけど、おれたちは、姓を区別してはいけないと、謳い続けろ」と野次馬に向かって、言った。







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