identification
同一視・同一化
世界が生きづらかったとき、もっと楽しみたいと思ったとき、そんな場面で憧れの人を真似るというのはごく自然な考えであり、そうなりたいという気持ちを持つことは多くの人にとって心当たりがあるんじゃなかろうか。
かくいう私にもある。無意識のうちに好きな人の何がしかを取り入れてしまうこともあった。(自分を確立できていなかった幼い頃、真似しないで!と注意を受けたこともあった)
そんな私が【自分を真似てくる人のことを受け入れられない】のにはきっと自分の考えに歪みが生じとるな、と考えを改めるに至った今日このごろである。
自信が持てない自分がそこにいた
ただひたすらに【なぜ自分なんかを】と思うが故に、他人のその考えを受け入れられずにいた。理由がわからず、ただ困惑していただけではあったのだけれど、その【理由がわからない】ということを掘らなかった自分の不始末でもある。アイタタ。
結局は【自分なんか】ではなく、【他人の目に映る自分は自信の持てるものであったのか】を自分で掘る必要があった。
自信がなかったねぇ。
それなら、自信を持てる自分でいればいいんじゃん!となったのが今である。
過信は禁物だし、自己愛さんになる気もないので気をつけなければなとも思うけれど。
人間、生きていくうえで多少の【僕イケメン】スピリットは大切なのだなと学んだ。
同一視はきっと、その人にとって必要な過程なのだ
必要な過程と言えど、それが過度になれば執着になりかねないし、なにより【誰かの持つ個性的な輝き】を失って欲しくないので、そこはある程度にとどめて欲しいなと心で思う。人は他人にはなれないから。
どうしてなんだろう、と悩み続けて良かったのは改めて自分の自信のなさに気づけたところである。『自信を持て、自分は自分を持って生きて行けているぞ』と自分をまた応援できる力が湧いた。
これもまた、学び。
嫌だ嫌だと駄々をこねてしまう自分に違和感があったのかもしれない。なぜ、と思って同一視というワードにたどり着けたのも良かった。ネットはほんとに広いわね。
という謎の新年からの決意表明でした。
ここまで読んでくださった方に、心からの感謝を。
あおいたこ