『キッチン』がおしえてくれた言葉の力~吉本ばななさんへの手紙
30年ほど前、私は、ざわざわした日常の中で、家事と育児に追われていた。心身共に疲弊し、好きなものも、何をしたいのかも忘れ、本からも遠ざかっていた。
そんな日々の中、スーパーに併設された小さな書店で、この本に出会った。『キッチン』の言葉の数々は、忙しない日常から静かな世界へと誘ってくれた。
この物語は、主人公が、日常を素直な感覚で受け止め成長していく姿を、珠玉の言葉で綴られている。台所という空間に癒しを見出す姿、料理をする際の所作や食材に触れる感覚の描写、心の揺れ、特に、日常の風景は懐かしい温もりを感じさせ、心に優しく染み込むようだった。
「透明な水の流れに、虹の輪ができそうな輝く甘い光の中で。」
ふと見上げた小さな窓から差し込んでいる光の線とこの柔らかな言葉がリンクして、弱った心を揺らす。
今の私に、こんなにも美しい言葉の数々を、受け止めることが出来るのか・・・。読み進めることに躊躇し、本を、目を、閉じて、ただただ心を解放した。
それまで読んできた文章は、どこか他人事のように思えた。
読めば読むほど、心に溝が広がっていく。それは、ただ表面をそっとなでて通り過ぎてしまうようで、あとに残るのはモヤモヤとした感情だけ。まるで、鏡の中に映る自分の顔と、本当の自分の顔が一致しないような、もどかしい感覚だった。
しかし、『キッチン』の言葉たちは、そんな私の心をそっと包み、知らず知らずのうちに張り詰めていた心を、静かに解きほぐしていった。そして、見過ごしてしまいそうな思いや気配、気づかなかった感情までもが次々と浮かび上がってきた。
何度も読み返すうちに、次第に「自分もこんな文章を書いてみたい」と思うようになった。
それまでは、自分の考えや感情を言葉にすることに大きな戸惑いを感じていた。文字にすると、その瞬間に全く別のものになってしまうような気がして、怖かったのかもしれない。
「できるかもしれない」という小さな期待と同時に、「無理だよ」ともうひとりの自分がささやく。葛藤を抱えながらも、考えを重ねていくうちに、大切なのは、完璧を求めることではなく、まずは素直に表現すること。そして、それこそが書くことの楽しさなのだと思えた。
憧れとは、到底届かないような高みを感じるのと同時に、自分自身の中にある可能性を教えてくれるものなのかもしれない。
この作品に出会ったことで、自分の中に「書いてみたい」という思いがあることに気づき、その気持ちに寄り添ってみる勇気を持てるようになった。
これからも、自問自答を繰り返しながら、美しくて温かい、そして柔らかい言葉を紡ぎたい。まだぎこちないけれど、少しずつ、自分だけの道をさがしている最中だ。