タイピング日記 / 「百年の孤独」 第一章
こいつは近来にない大発明だ!
長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない。
マコンドも当時は、先史時代のけものの卵のようにすべすべした、白くて大きな石がごろごろしている瀬を、澄んだ水が勢いよく落ちていく川のほとりに、葦と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった。ようやく開けそめた新天地なので名前もないものが山ほどあって、話をするときは、いちいち指ささなければならなかった。毎年三月になると、ぼろをぶら下げたジプシーの一家が村のはずれにテントを張り、笛や太鼓をにぎやかに鳴らして新しい品物の到来を触れて歩いた。最初に磁石が持ち込まれた。手が雀の足のようにほっそりした髭っつらの大男で、メルキディアスと名のるジプシーの、その言葉を信じるならば、マケドニアの発明な錬金術師の棒をひきずって歩いたのだ。すると、そこらの手鍋や平鍋、火搔き棒やこんろがもとあった場所からころがり落ち、抜けだそうとして必死にもがく釘やねじのせいで木材は悲鳴を上げ、昔なくなった品物までがいちばん念入りに捜したはずの隅から姿をあらわし、てんでに這うようにして、メルキアデスの魔法の鉄の棒のあとを追った。これを見た一同が唖然としていると、ジプシーはだみ声を張りあげて言った。「物にも命がある。問題は、その魂をどうやってゆさぶり起こすかだ」。自然の知慮をはるかに超え、奇跡や魔法すら遠く及ばない、とてつもない空想力の持ち主だったホセ・アルカディォ・ブエンディアは、この無用の長物めいた道具も地下から金を掘りだすのに使えるのではないか、と考えた。「いや、そいつは無理だ」と、正直者のメルキアデスは忠告した。しかしそのころのホセ・アルカディォ・ブエンディォは正直なジプシーがいるとは思わなかったので、自分の騾馬に数匹の仔山羊を添えて二本の棒磁石と交換した。妻のウルスラ・イグアランはこの仔山羊をあてにして、傾いた家の暮らし向きをどうにかする気でいたが、その言葉も夫を思いとどまらせることはできなかった。「いいじゃないか。この家にはいりきらないほどの金が、明日にもわしらのものになるんだ」。これが夫の返事だった。彼は何ヶ月も、自分の推測の当たっていることを証明しようと夢中になった。メルキアデスのあの呪文を声高くとなえながら、二本の鉄の棒をひきずってあたり一帯をくまなく、川の底まで探って歩いた。ところが、そうまでして掘りだすことのできたものは、わずかに、漆喰で固めたようにどこもかしこも錆びついて、小石の詰まったばかでかい瓢簞そっくりのうつろな音がする、十五世紀ごろの出来の甲冑にすぎなかった。ホセ・アルカディォ・ブエンディォと四人の男が苦労してばらしてみると、女の髪をおさめた銅のロケットを首にかけ、白骨と化した遺体がなかからあらわれた。
ふたたび三月になり、ジプシーたちが舞い戻ってきた。こんどは一台の望遠鏡と太鼓ほどの大きさの一枚のレンズを持ちこんだ彼らは、アムステルダムのユダヤ人の新発明とうたって品物を公開した。仲間の女を村のはずれに立たせ、望遠鏡をテントの入り口にすえた。村人たちが五レアルのお金を払ってのぞくと、ほんとうに手の届きそうなところに女の姿があった。メルキアデスは吹聴した。「科学のおかげで距離なんてものは消えた。人間がわが家から一歩も外に出ないで、地上のすべての出来事を知ることできる日も、そんなに遠くはない」。また、巨な大レンズを使った驚くべき実験が、焼けつくような日射しの正午をえらんで行われた。通りのなかほどに枯れ草を山と積んでから、太陽光線を集めて火をつけてみせたのだ。例の磁石の失敗でおうおうとして楽しまなかったホセ・アルカディォ・ブエンディアは、この品物を兵器として利用することを思いついた。こんどもメルキアデスは引き止めにかかったが、結局、レンズと引きかえに、二本の磁石の棒と植民地時代の古い金貨三枚を受け取ることになった。ウルスラは気落ちし、泣いた。実はその金貨は、父親が苦しいなかで一生かかって貯め、彼女自身がいざという時の用意に、箱に入れてベッドの下に埋めておいたものの一部だった。そんな彼女にやさしい言葉ひとつかけないで、ホセ・アルカディォ・ブエンディアは軍事上の実験に没頭した。科学者にふさわしい献身ぶりを示し、生命の危険さえかえりみなかった。敵の軍隊に及ぼすレンズの効果をはかるために、焦点を結んだ太陽光線にわざわざ体をさらし、崩れて容易に治らぬほどのやけどを負った。この危険な発明ごっこに驚いて文句をいう妻のほんとに目の前で、火事を出しかけたことさえあった。何時間も部屋にこもって新兵器の性能について計算をくり返し、やがて、教育という見地から見て驚嘆に値する明確さにつらぬかれ、有無をいわさぬ説得力をそなえた一冊の提要を書きあげた。そして、実験にもとづく多数の証拠と数枚の図解をそれに添え、飛脚に託して当局まで差しだした。飛脚は山越えをしたり、深い沼地にわけ入ったり、急流をさかのぼったり、野獣や絶望や悪疫のために一命を失いかけたりしたあげく、やっと駅馬と連絡する道までたどり着いた。当時はまだ首府への旅行はほとんど不可能な状態だったが、軍関係者の前で新兵器を実地に公開し、太陽戦争の複雑な技術を手ずから教えるためならば、政府の命令が届きしだいそちらへ出向いても良いとさえ、ホセ・アルカディォ・ブエンディアは書き送っていた。何年も返事を待った。とうとうしびれを切らし、彼の創意もみじめな失敗に終わったことをメルキアデスの前で嘆いた。するとジプシーはその誠実さを証明するように、レンズと引きかえに金貨を返してよこしたばかりか、数枚のポルトガル渡来の地図と若干の航海用の器具をゆずってくれた。さらに、天文観測儀や羅針盤や六分儀などが扱えるようにと言って、自分で筆をとってヘルマン師(ライヘナウのヘルマン。ドイツの歴史家。一○一三-五四)の研究をまとめたもの-これがまた膨大なものだった-を渡してくれた。ホセ・アルカディォ・ブエンディアは、誰にも実験の邪魔をされないように奥にもうけた狭い一室にこもって、長い雨期をすごした。家の仕事からはまったく手を引いて、天体の運行を観測するために中庭で徹夜をし、正午をはかる精密な方法をきわめようとして日射病で倒れかけた。やがて器具の扱いに慣れた彼は、空間というものをはっきり理解し、自室を離れるまでもなく未知の大海原で船をあやつり、人煙まれな土地を訪れ、すばらしい生き物と交わることもできるようになった。そしてそのころから、ウルスラと子供たちが畑でバナナや里芋、タピオカや山芋、南瓜や茄子の手入れに汗水たらしているというのに、ぶつぶつ独りごとを言ったり、誰とも口をきかずに家のなかをうろうろするという、おかしな癖が始まった。突然、なんの前触れもなく、それまでの熱に浮かされたような仕事ぶりがやんで、一種の陶酔状態がとって代わったのだ。数日のあいだ物に憑かれたようになって、自分の頭が信じられないのか、途方もない推理の結果を独りつぶやいていた。やがて十二月のある火曜日の昼飯どき、彼はその胸につかえていたことをいっきに吐きだした。恐らく子供たちは、テーブルの上座にすわった父親が長い愛だの不眠と、たかぶる妄想にやつれた熱っぽい体を震わせながら彼のいわゆる新発見を打ち明けたさいの、あの厳粛きわまりないおももちを生涯忘れなかったに違いない。
「地球はな、いいかみんな、オレンジのように丸いんだぞ!」
たまりかねてウルスラが叫んだ。「変人はあんただけでたくさんよ。ジプシーじゃあるましい、この子たちにまで妙なことを吹き込まないで!」腹立ちまぎれに床に投げて天球観測儀を壊した妻のすさまじい形相にもひるまず、ホセ・アルカディォ・ブエンディアは泰然自若としていた。彼はほかに一台こしらえて村の男たちを自室に呼びあつめ、みんなには納得のいかない理屈を並べて、東へ、東へと航海すればかならず出発点に帰りつくはずだ、と説いた。ホセ・アルカディォ・ブエンディアもついに気が触れた。村のみんながそう思いはじめたころメルキアデスが戻ってきて、うまく事をおさめてくれた。マコンドでこそ知られていないがとっくに証明ずみの理論を、ただ天文学上の観想から産みだしたこの男の頭脳のすばらしさを一同の前で褒めそやし、称賛のしるしとして、それ以後の村の運命に大きな影響を与えるものを、錬金術の工房を贈ったのだ。
実はそのころまでに、メルキアデスは恐るべき速さで老いこんでいた。村を訪れた当初は、どう見てもホセ・アルカディォ・ブエンディアと同年配としか思えなかった。ところが、この男が人並みはずれた体力をいつまでも保ち、今でさえ耳をつかんで馬をひき倒すことができるというのに、ジプシーの方は頑固な持病で苦しんでいるのがありありと見てとれた。実はそれは、度かさなる世界一周の度の途中でかかった、さまざまな奇病のせいだった。工房を建てるさいに自分の口からホセ・アルカディォ・ブエンディアに語ったところによれば、死神はジプシーをつけ回し、しきりに身辺をうかがっているが、最後の止めを指す気にはなっていないだけのことなのだ。彼は、人類を襲ったあらゆる悪疫と厄災をからくも逃れてきた男だった。ペルシアの玉蜀黍疹、マレー群島の壊血病、アレクサンドリアのハンセン病、日本の脚気、マダガスカルの腺ペスト、シシリアの地震、大勢の溺死者を出したマゼラン海峡での遭難などをしのいで来たのだ。その言葉を信じるならばノストラダムス(フランスの医師・占星術師。一五○三-六六)の秘法を心得ているこの不思議な人物は、事物の背後にある世界をかいま見たとしか思えない東洋人ふうの目つきをし、身辺につねに暗い雰囲気をただよわせた陰気な男だった。羽を広げた鴉そっくりの大きな黒い帽子をかぶり、何百年も着古して青かびの吹いたようなビロードのチョッキを羽織っていた。しかし、その該博な知識と神秘的な風貌にもかかわらず、彼にも地上の存在という条件、人間としての重荷は絶えずつきまとって、日常生活の些細な事柄にかかずわされた。老人特有の病気に苦しめられた。わずかな金銭の不足に悩まされ、壊血病で抜けた歯のせいで長いあいだ笑いを忘れていた。暑さの耐えがたい日盛りに秘密を打ち明けられたホセ・アルカディオ・ブエンディアは、今こそ偉大な友情は始まったと、そのとき固く信じた。子供たちもまた、空想ゆたかなメルキアデスの物語のとりこになった。ギラギラと窓から射しこむ光線を受けて腰をおろし、暑さで溶けた油が額を伝うのもかまわず、オルガンのように深見のある声で闇につつまれた想像の世界について語り、明るみにさらけ出していくあの日の午後の姿を、当時まだ五歳を越えていなかったアウレリャノだが、死ぬまで覚えていたことだろう。兄のホセ・アルカディオにしても、代々ひき継ぐべき思い出として、子孫のすべてにあの嘆賞すべき姿を語り伝えるつもりだったにちがいない。ところがウルスラには、この客人は嫌な記憶しか残さなかった。メルキアデスがうっかりして塩化第二水銀のフラスコを割った瞬間に、部屋にはいって行ったからだ。
「まるで悪魔の臭いね」と、ウルスラはつぶやいた。
聞きとがめてメルキアデスが言った。
「とんでもない。悪魔が硫黄質だってことはとっくに証明ずみだよ。ところがこれは、ほんのわずかな量の昇汞だ」
いつも教化ということを忘れない彼は早速、辰砂の悪魔的性質について博識を披露しはじめたが、ウルスラは耳を貸さずに、子供たちを連れてお祈りに出かけた。あの鼻を刺す異臭はメルキアデスの思い出と結びついて、いつまでも彼女の記憶に残っていたにちがいない。
お粗末な工房は、たくさんの土鍋、漏斗、レトルト、濾過器、水こしなどを別にすると、原始的な窯、首の細いガラスの試験管、〈哲学者の卵〉(錬金術の炉中で用いたガラス製のフラスコ)のまがいもの、ユダヤ婦人マリア(実在した最古の錬金術師)の三本腕のランビキ-蘭引-の新しい仕様にもとづいてジプシーたちがこしらえた蒸留器などから成りたっていた。これらの器具のほかにメルキアデスは、七つの星にそれぞれ振りあてられた金属の見本、モーセとゾシモス(パノポリスのゾシモス。三世紀の錬金術師)から伝わった金を倍加する方法、さらに、これを解く者があれば賢者の石(卑金属を貴金属に変成する力をもつと信じられる霊石)の調製も可能だという、霊液エリクサの処方についての一連のメモや絵図面を残していった。なかでも金を倍加する方法のたやすさに惹かれたホセ・アルカディオ・ブエンディアは、何週間もうるさくウルスラにつきまとって、例の植民地時代の金貨を掘らしてくれ、いくらでもこまかく分けられる水銀と同じように、倍にふやしてみせるから、と頼みこんだ。毎度のことだが、絶対にあきらめない夫のねばりにウルスラは負けた。するとホセ・アルカディオ・ブエンディアは、三十枚の金貨を鍋に放りこんで、そこへ銅や鶏冠石、硫黄やすり屑をまぜてどろどろに溶かした。そして、これをそっくり蓖麻子油(卵を蒸留して三番めにえられる黒みがかった黄緑色の液体)入りの釜に移して強火で煮立て、みごとな黄金よりはどう見てもありふれた飴としか思えない、どろりとした臭いシロップ状のものを取りだした。危険ばかり多くて見込みのうすい蒸留作業のなかで、七つの星を表わす金属とまぜて溶解したり、錬金術には欠かせない水銀とキプロス産の硫酸で処理したり、大根の油(卵を蒸留して二番めにえられる薄い金色の液体)がないのでラードでくり返し煮立てたりしているうちに、ウルスラの貴重な財産は、焦げついた釜の底からひきはがすこともできない炭に化けた。
ジプシーたちが舞い戻ってきたころには、ウルスラにそそのかされた村人はこぞって反感をいだくようになっていった。しかし、恐怖はついに好奇心の敵ではなかった。このたびのジプシーが耳も聾せんばかりにありとあらゆる楽器を打ち鳴らして村をまわり、同時に呼び込みの男を使って、ナチアンツ(古代小アジアカッパドキア地方の町)の人びとの驚異の発見を披露すると宣伝したからだ。そういうわけで、村じゅうの者がテントまで出かけていき、一センタボのお金を払ってなかをのぞくと、歯がぴかぴか光る新しいものに変わり、皺も消えて、もとに返った若々しいメルキアデスがそこに立っていた。壊血病でだめになった歯やたるんだ頰、色つやの悪い唇などを記憶していた村人たちは、このジプシーの超自然的な力をまざまざと見せつけられて恐れおののいた。メルキアデスが歯ぐきにはめ込まれた歯をそっくりはずし-彼はつかの間、昔の老いさらばえた男に返った-ちらと一同に見せてからふたたび歯ぐきに当て、よみがえった若さを十二分に意識したにこやかな表情に戻ったとき、単なる恐れは畏怖の念に変わっていった。ホセ・アルカディオ・ブエンディアでさえ、ついにメルキアデスの知識は想像を絶する極限に達したと思ったが、あとで二人きりになったジプシーの口から、こっそり義歯のからくりを教えられて、内心ほっとした。簡単だがすばらしいこのからくりに心を奪われて、彼は錬金術にたいする関心を一夜にして失った。ふたたび不機嫌な状態に陥って、食事も不規則になり、一日じゅう家のなかをうろうろした。「今の世界では、信じられないようなことがいろいろ起こっているらしい」と、ウルスラをつかまえては言った。「わしらはこうして驢馬なみの生活をしているが、つい鼻先の、あの川向こうには、いろんな不思議なものがあるんだ」。マコンドの村が建設されたことの彼を知っている連中は、メルキアデスの感化でその人柄がすっかり変わったことに、今さらのように驚いた。
当初のホセ・アルカディオ・ブエンディアはいわば若き族長として振る舞い、種まきの指図をしたり、子どもの養育や家畜の飼育について助言したり、村の発展のためならば肉体労働までふくめて、一同への協力を惜しまなかった。最初から彼の家は村いちばんの住居だったので、ほかの家々はそれにならって建てられた。採光のよい広々とした客間、明るい色の花で飾られたテラスふうの食堂、二つの寝室、栗の大木がそびえる中庭、手入れのよい野菜畑、山羊や豚や鶏が仲よく暮らしている裏庭などがそこにはそろっていた。ただひとつ、彼のいえだけでなく村ぜんたいで飼うことを禁じられている家畜があった。それは軍鶏だった。
ウルスラも勤勉さでは夫に負けなかった。小柄だが働き者で、まじめ一点ばり、生きているうち歌など一度も口にしたことのない気丈な女は、いつも更紗のスカートのかすかな衣ずれの音を残しながら、明け方から夜明けまで、かたときも休まず動きまわった。彼女がいるおかげで、土を突き固めただけの床や、石灰の塗られていない土塀や、手づくりの木製の家具などはいつも清潔だし、時代物の衣装箱はむせるようなバジルの香りを放っていた。
この村でも二度とあらわれないと思うほど進取の気象に富んだホセ・アルカディオ・ブエンディアは、どの家からも同じ労力で川まで行って水汲みができるように家々の配置をきめ、さらに、日盛りはほかの家よりよけいに日があたる家が出ないように考えて通りの方向をさだめた。数年のうちにマコンドは、当時知られていた、住民三百をかぞえるどの村よりもととのった勤勉な村になっていた。そこは、ほんとうに幸せな村だった。三十歳を越えた村はひとりもなく、死人の出たためしもなかった。
村が建てられたことから、ホセ・アルカディオ・ブエンディアはせっせと罠や鳥籠をこしらえた。またたく間に、彼の家だけでなく村じゅうが葦切りやカナリア、空色風琴鳥や駒鳥であふれた。雑多な小鳥の合唱で騒々しくて頭が変になりそうなので、ウルスラなどは耳に蜜蠟を詰めて現実の感覚が失われるのを防いだほどである。メルキアデスの一族が初めてやって来て、頭痛に効くというガラス玉を売り歩いたときも、村のみんなは、もの憂い低地の奥に隠れたここがよく見つかったと驚いたが、ジプシーたちの話を聞くと、実は連中も小鳥の声をたよりに道を進んだということだった。
しかし、率先して社会に奉仕するというこの心がまえも、磁石熱や天文学上の計算、物質変成の夢やさまざまな世界の不思議を見たいという願望などに引きまわされ、あっさり消えた。てきぱきして身ぎれいになったホセ・アルカディオ・ブエンディアが、ぐうたらな身なりをかまわない人間に変わった。無精ひげまで生やすようになったので、ウルスラは台所から包丁を持ちだし、苦労して剃ってやらなければならなかった。彼には呪いがかかっている、と思う者まで出はじめた。彼がすすんで山刀や斧をにない、その上でみんなの協力を求めたとき、仕事も家族もなげうってあとに従ったのは、ほかでもない、その狂気を信じて疑わない当の男たちだった。
ホセ・アルカディオ・ブエンディアもこの辺一帯の地理にはまったく不案内だった。知っていることといえば、東に険しい山脈がつらなり、さらにその向こうに、彼には祖父にあたる初代アウレリャノ・ブエンディアから聞いた話だが、かつてフランシス・ドレイク卿(イギリスの提督。一五四○?-九八)が大砲で鰐狩りに興じ、そのあと皮をつくろい藁を詰めてエリザベス女王に献上したところだという古都、リオアチャ(コロンビアのラ・グアヒラ州の海港)があることくらいだった。実はまだ若かったころ、彼とその一行の男たちは女子供や家畜を引きつれ、家具什器のたぐいを洗いざらいかかえて、海へ出口を求めて山越えをはかったことがあるのだが、さすがに二年と四ヶ月めにはこの難事業をあきらめざるをえなかった。そして、帰途につく労をはぶくためにマコンドの村を建てたのである。したがって、それは彼を過去へと引き戻すだけの道なので、彼にとっては問題外だった。南方には、切れ目のない乳皮のような緑でおおわれた沼と、ジプシーたちの話では行けども行けども果てしのない、茫漠とした湿原が続いていた。しかも、その広大な湿原は西のほうで目路はるかな大海原とひとつになっていて、そこには、女の顔と胸をそなえ、とてつもなく大きな乳房で水夫らをたぶらかし破滅へといざなう、なめらかな肌の鮫が群れているということだった。ジプシーたちもその方角に船をすすめて、半年後にやっと、駅馬のかよう細長い陸地にたどり着いたにすぎないという。ホセ・アルカディオ・ブエンディアの推測によると、文明社会との接触の可能性は北方への道にしか残されていなかった。そこで彼は、ともにマコンドを建設した男たちに山刀や斧、狩猟の道具などを持たせ、使いなれた方位測定用の器具や地図を雑囊ひとつに放りこんで、大胆きわまりない冒険に出たのである。
初めの何日かは、これといった障害に出くわすこともなかった。一行は岩だらけの川岸に沿って数年前に戦士の甲冑が発見された場所までくだり、そこから森にはいって、野生のオレンジにふちどられた狭い道をたどった。一週間めに鹿を射止めて焙り肉にしたが、明日からのことを考えて半分だけを食べ、残りは塩漬けにした。こうした用心をすることで、麝香をかいだように嫌な味のする、金剛鸚哥の青みがかった肉を口にしなければならなくなる日を、少しでも先へ延ばそうとしたのだ。やがて十日以上も太陽をおがめない日が続いた。水気をたっぷり含んだ地面は火山灰のようにぶよぶよし、草木はますます油断のならないものになり、小鳥のさえずりや猿のけたたましい叫びもしだいに遠のいて、限りなく広がる陰鬱な世界が始まった。原罪以前にさかのぼるこの湿気と沈黙の楽園で、遠征隊の一行は遠い過去の記憶に悩まされた。煙の立ちのぼる油のたまりに履物をとられ、血のように鮮やかな菖蒲の花や金色の山椒魚の胴をその山刀ではねなければならなかった。まる一週間というもの、わずかに発光性の虫の淡い灯をたよりに、息苦しいほどの血の臭いにあえぎながら、ほとんど口をきくこともなく、夢遊病者のように悪夢の世界をさまよった。せっかく切りひらいた道も、みるみる伸びていく新しい植物でたちまち閉ざされてしまうので、もはや引き返すことはできなかった。「気にすることはない」と、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは言った。「方角さえ見失わなければ、それでいいんだ」。彼は磁石だけをたよりに見えない北へ向かって一行を先導し、ついに魔の土地からの脱出に成功した。それは星ひとつない暗い夜だったが、その闇は澄みきった、さわやかな大気でみちあふれていた。長途の旅で疲れきった一行はその場にハンモックを吊って、二週間このかた初めて深い眠りについた。目がさめたとき-日はすでに高く昇っていた-彼らは驚きのあまり呆然となった。その目の前に、羊歯や椰子に囲まれ、おだやかな朝の光を浴びて、スペインの巨大な帆船が白くぼんやりと横たわっていたのだ。わずかに右舷に傾いた船の無傷のマストから、薄汚れた帆の切れっぱしが蘭の花で飾られた索具のあたりまで垂れていた。小判鮫の化石と柔らかい苔のなめらかな装甲でおおわれた船体は、石ころだらけの地面にがっしりと食い込んでいた。船の全体が、時の悪意と小鳥のよからぬ習性から守られたそれ自身の場所を、孤独と忘却の空間を占めているように思われた。ひそかな欲望に駆られた一行の男たちが探ってみたが、船内はただ草花で埋めつくされているだけだった。
海の近いことを示すこの帆船の発見で、ホセ・アルカディオ・ブエンディアの気力は尽きた。かつて数かぎりない犠牲をはらい、さまざまな苦難に耐えて海を求めたさいには発見に失敗しながら、求めてもいない今になって海に遭遇したこと、しかもそれが越えがたい障害として前途に横たわっているという事実を、彼は邪悪な運命のいたずらと考えたのだ。長い歳月が流れて、すでに正規の駅路となったころ、アウレリャノ・ブエンディア大佐がふたたびこの地方を通過したことがあったが、そこに見たのは、雛罌粟の野原に取り残された帆船の黒焦げの肋材にすぎなかった。それで初めて、あの話が父親の単なる空想の産物でないことを知った彼は、帆船がどうやってこんな奥地まではいり込めたのかと、不思議に思ったものだ。しかし、さらに四日間の旅をして、帆船から十二キロの地点で海に出たときのホセ・アルカディオ・ブエンディアは、そうした不審をいだくどころではなかった。冒険行にともなう危険と犠牲にふさわしくない、白波たつ薄汚れた灰色の海を前にしたとたんに、夢はあとかたもなく消えた。
「なんだ!」
ホセ・アルカディオ・ブエンディアが遠征から帰って描いた独断的な地図に始まるが、マコンドは半島であるという考えは、かなり長いあいだ正しいとされていた。この土地をえらんだおのれの勘の悪さを罰するつもりで、彼は交通の不便をことさら誇張して、いっきに地図を書きあげたのだ。「わしらは絶対に、どこへも行けそうにないぞ」と、ウルスラをつかまえては愚痴った。「科学の恩恵にもあずからずに、ここで、このまま朽ち果てることになりそうだ」。かたくなにそう信じながら工房で何カ月も考え込んでいるうちに、マコンドをもっと適当な土地へ移すことを思いついた。ところが今回は、ウルスラがその熱心な計画の先まわりをした。蟻のように隠密に、辛抱づよく動きまわって、すでに移住の準備にかかっていた男たちの気まぐれに反対する決意を、村じゅうの女に固めさせたのだ。ホセ・アルカディオ・ブエンディアには、いつごろからか、またいかなる悪意にみちた力のせいで、その計画がさまざまな口実や故障や言いのがれの網の目にからめ取られて、単なる夢と化していったのか、さっぱり見当がつかなかった。ウルスラはさりげなく夫の様子をうかがっていたが、奥の部屋で夢のような移住の計画をぶつぶつつぶやきながら、奇妙な箱のなかに工房の器具を詰めているのを見た朝は、さすがに気の毒になった。夫が仕事を終えるのを待った。箱を釘づけにし、墨をふくませた刷毛でその上に自分の頭文字を書くのを黙って見ているだけで、別にとがめなかった。しかし、それはあくまでも、村の男たちがその計画に従わないだろうということを彼自身も知っている-小声でそうつぶやいているのが耳にはいった-と心得た上のことだった。夫が部屋のドアをはずしにかかったとき初めて、ウルスラは思い切って、なぜそんなことをするのか、と尋ねた。すると、淋しげな夫の返事がかえってきた。「誰にも行く気はないらしい。わしらだけで出かけるか」。ウルスラは顔色ひとつ変えないで答えた。
「出かけませんよ。この土地に残ります。ここで子供を産んだんですからね」
おだやかだが固い決意のこもった声で、ウルスラはやり返した。
「ここに残りたけりゃ死ねというのなら、ほんとに死ぬわよ!」
ホセ・アルカディオ・ブエンディアは妻の意志がそれほど強いとは思わなかった。地面には魔法の液をまくだけで思いどおりに作物がものり、苦痛を消すためのあらゆる器具がただ同然の値段で手にはいる不思議な土地を約束するなど、空想の魔力に訴えて気を引こうとした。だが、ウルスラは夫の先見の明を信じなかった。
「おかしなことばかり考えるのはやめて、少しは子供たちの面倒をみたらどうなの」と答えた。
「あれを見てよ。ほったらかしにされてまるで驢馬だわ」
ホセ・アルカディオ・ブエンディアは妻の言葉をまともに受けとめた。窓の外に視線をやると、日なたの野菜畑を駆けまわっている子供たちの姿が目にはいったが、それが彼には、ウルスラの呪文によって胎内にやどった子供たちが、まさにその瞬間から地上に存在しはじめたという印象を与えた。このとき、彼の内部で何かが起こった。神秘的でしかも決定的なその何かは、現在という時間から彼を根こそぎにして、まだ足をふみ入れたことのない記憶の世界のあてどない旅へといざなった。これから先も離れることがないとわかった家のなかをウルスラが掃除しているあいだ、彼はぼんやりと子供たちをながめていたが、やがてその瞼が濡れていった。こぶしで涙をぬぐい、深いあきらめの吐息をついて、彼は言った。
「よかろう。あの子たちに、箱から物を出すから手伝うように言ってくれ」
ふたりの子供のうち、年上のホセ・アルカディオはすでに十四歳になっていた。角ばった頭とこわい髪をしていて、父親ゆずりのわがままな子供だった。同じように成長が早くて体力もすぐれていたが、すでにその当時から、想像力に乏しいことがはっきりしていた。マコンドの村が建てられる前の苦しい山旅の途中で妊娠し出産した子供で、両親はその体のどこにもけものめいたところのないことを知って、神に感謝をささげた。一方、マコンドで誕生した最初の人間であるアウレリャノは、この三月で六歳になろうとしていた。もの静かで内気な子供だった。母親の胎内で早くも産声をあげ、生まれたとき目がぱっちりあいていた。へその緒を切っているあいだも、部屋にあるものを確かめるように顔を左右に動かし、もの珍しそうに、だが驚く様子もなく、人びとの顔を穴のあくほど見つめていた。そしてそのあとは、彼を見に集まった村人たちには目もくれないで、たたきつける雨の激しい力で今にも崩れおちそうな棕櫚の天井に気を取られていた。その鋭い目つきのことは、ウルスラも長く思いだすことがなかったのだが、ある日、三つになったばかりの幼いアウレリャノが、ちょうど彼女が煮立ったスープの鍋をかまどから下ろして食卓にのせたときに台所へはいって来て、途方に暮れたようにドアのところに立ったまま、言った。「落っこちるよ、あれ」。鍋はテーブルの真ん中にちゃんとのっていたが、子供が予言したとたんに、手を伸ばすひまもなく、内部の力に押しやられるように端に向かってすべり出し、床に落ちて粉々になった。驚いたウルスラはこの話を夫にしたが、彼はそれを自然現象であるかのように言った。いつもこうだった。彼は子供たちの存在など気にかけていなかったのだ。その理由はひとつには、彼が幼年期というものを精神的能力の皆無にひとしい時期と考えていたこと、いまひとつは、彼自身の妄想につねに気を取られすぎていたことにあった。
しかし、呼びつけて工房の器具を箱から出す手伝いをさせた午後から、彼はその貴重な時間を子供たちのために割くようになった。でたらめな地図や奇妙の絵で少しずつ壁がうずめられていく、奥まった小さな部屋で、読み書き算術の手のほどきをし、自分の知識の範囲内のことだけでなく、想像力の境界を信じがたい極限にまで押し広げながら、さまざまな世界の不思議について話してきかせた。こうして子供たちは、アフリカの南端には、地面にすわって瞑想にふけるのが唯一の楽しみだという、聡明で温和な種族が住んでいること、また、島づたいにエーゲ海を渡ってテサロニカ(ギリシアのマケドニア地方の都市)の港まで行けることなどを知った。この蠱惑的なまどいは子供たちの記憶によほど強く印象づけられたらしく、それから長い歳月が流れて、正規軍の将校が撃てという命令を銃殺隊にくだす直前にも、アウレリャノ・ブエンディア大佐は、理科の授業を中断した父親が何かに憑かれたように宙に手を浮かし、目を一点にそそいだままの格好で、メンフィス(古代エジプトの都市)の学者たちの驚嘆すべき新発明を披露するためにふたたび村を訪れたジプシーの笛や太鼓、シンバルなどの遠い音に耳を傾けていた、あの三月の午後思い出したほどである。
それは新手のジプシーだった。自分たちの言葉しか話せないこの若いジプシーたちは、つややかな肌とすばしこい指をした美男美女ぞろいで、その踊りや音楽は村の通りに大へんな騒ぎをまき起こした。イタリアふうのロマンスを口ずさむ極彩色の鸚鵡、タンバリンの音につられて金の卵を百個も産み落とす雌鶏、ひとの考えを読めるように調教された猿、ボタン付けにも熱さましにも役立つという万能の器械、いやな記憶が消せる道具、暇つぶしにもってこいの膏薬。そのほか彼らの持参した多くの品物は、ホセ・アルカディオ・ブエンディアがそれらの思い出を残しておくための記憶装置の発明を考えたほど、巧妙で、奇抜なものだった。あっという間に村の様子は一変した。マコンドの住民は市の混雑ぶりに度肝を抜かれ、自分たちの村の通りでおろおろしていた。
人ごみで見失わないようにふたりの子供の手をひき、金歯の香具師や六本腕の奇術師にぶつかったり、大勢の人間から発散する糞と薄荷の臭いが入りまじったのに息の詰まる思いをしたりしながら、ホセ・アルカディオ・ブエンディアはこの恐るべき悪夢の無限の秘密をとき明かしたもらうために、狂ったようにメルキアデスを捜し歩いた。言葉がわかるはずのないジプシーたちにまで声をかけた。とうとう、メルキアデスがいつもテントを張っていた場所へ来てしまった。ところがそこに立っていたのは、飲めば姿が消えるという薬を口数すくなくスペイン語で宣伝している、アルメニア(古代アジアの一地方)生まれのジプシーだった。ホセ・アルカディオ・ブエンディアが見世物に気を取られている群集を掻きわけながら前へ出て質問をしたときには、男はすでにコップの琥珀色の液体を飲み干していた。ジプシーはぼんやりした目でしばらく彼を見ていたが、やがて悪臭と煙の立ちのぼる溶けたコールタールに姿を変え、その上をただようように、こう答える声だけが残された。
「メルキアデスは死んだよ」。この知らせに呆然となったホセ・アルカディオ・ブエンディアは、深い悲しみに耐えるためにしばらく身じろぎもしなかった。そのうちに群集はほかの仕掛けに引き寄せられて散っていき、アルメニア生まれの寡黙なジプシーたちに確かめたところでは、事実、メルキアデスはシンガポールの砂州で熱病のために斃れ、遺体はジャワ近海のもっとも深いところに投げ込まれたということだった。子供たちは、この悲報に関心を示さなかった。話ではソロモン王のものであったテントの入り口で宣伝中の、メンフィスの学者たちの驚異の新発明を見に連れていけと、うるさく言った。あまりせがむのでホセ・アルカディオ・ブエンディアが三十レアルのお金を払って子供たちをテントの真ん中まで連れていくと、銅の環を鼻におとし、くるぶしを重い鉄の鎖でつながれた、胸毛の濃い坊主あたまの大男がそこに立ち海賊の宝石箱めいたものを見張っていた。大男がその蓋をあけると、ぞくっとするほど冷たい風が吹きあげた。なかには、夕暮れの光線がとりどりの色の星となって砕ける無数の針をふくんだ、透きとおった大きな塊しか見られなかった。うろたえながらも、子供たちがその場で説明を待っていることを考えて、ホセ・アルカディオ・ブエンディア言ってのけた。
「こいつは世界最大のダイヤモンドだ」
「冗談じゃない」と、大男が誤りを指摘した。「氷ってもんだ、これは!」
何のことかわからずにホセ・アルカディオ・ブエンディアが氷塊へ手を伸ばそうとすると、大男はその手をはねのけて言った。「さわりたけりゃ、もう五レアル出しな」。ホセ・アルカディオ・ブエンディアはお金を払った。それから氷に手をのせ二、三分じっとしていた。この間、彼の心は神秘に触れる恐れと喜びではちきれそうになっていた。どうせ言って聞かせればよいかわからぬままに、彼はさらに十レアルのお金を払って、子供たちにもすばらしい経験をさせようとした。ホセ・アルカディオ・少年はさわるのを嫌った。ところが、アウレリャノは一歩前にすすみ出て氷に手をのせ、すぐに引っこめて、びっくりしたように叫んだ。「煮えくり返ってるよ、これ!」しかし、父親は息子の言葉を聞いていなかった。その瞬間の彼はこの疑いようのない奇蹟の出現に恍惚となって、熱中した仕事の失敗のことも、烏賊の餌食にされたメルキアデスの死体のことも忘れていた。彼はもう一度、五レアルのお金を払って氷塊に手をあずけ、聖書を前に証言でもするように叫んだ。
「こいつは近来にない大発明だ!」