ちょっとだけ、激おこぷんぷん丸。
書き手がわ、小説を書くがわの立場からこれを書いている。
まず、小説家は謙虚である。
小説家はいくら自分の作品を貶されたからといって
「じゃあ、お前が書いてみろ」とはいわない。
だが批評家(あるいは自分の書評を他者に伝える)側は、どこまでも自分(我)を押し通そうとする。「どうだ、おれの薦める本っていいだろ」
小説家は、愛を説明しようとしない。「物語におけるひとつの愛のカタチを描写する」どのような愛なのかは読者が決めることだ。だれが愛について決められるっていうんだ? ぼくだって自信がないのに。けれど少なくともぼくがみた愛のカタチはこういうような感じだったんだ。程度である。
批評家は、愛(小説家の作品)のカタチを枠にハメたがる。それも自分の鋳型の枠に。がそんなもので全世界の読者を一括りに納得させることなんて絶対にできっこない。小説家はそれを知っているから、のほほーんと批評家を無視できるのだが。
本当にたまたまふたつつづけて(きっとnoteがぼくのアカウントに提示させたのだろうが)、カズオイシグロの「遅れてきた巨人」の書評のような記事を読んで、ちょっと愕然とした。ひとつは有料記事だった。ま、それは好きな人がお金を払うシステムだからべつに構わないんだけれど。
ぼくはカズオイシグロの本は八冊くらい読んだ。
彼は小説での「テーマ」はすべてぜんぶおなじことを書いている。おそらくノーベル賞(一作家の作品群、その成果を評価する)はそこを評価したんじゃないかと思えるほどの、カズオイシグロのライフワークだ。
一言で言える。
人間の記憶は、つねに美しく捏造される。
これを押さえておけば、カズオイシグロのすべてのどんな種類の作品だって通底しているテーマだ。あとは豪華な客席のある映画館に入り込んで行くようにカズオイシグロワールドに浸ればいい。
読者の数だけ好みがある。書き手の数だけ物語や文体がある。
カズオイシグロや村上春樹だけが作家じゃないんだぜ。笑。^ ^
そんなカズオイシグロや村上春樹を推している人のほうがなんだか小説のなかに登場する監視社会(現在でいえばビック・テック=GAFAだ)に脳みそが侵され、個性を奪われた思考停止人間に思えてならないのはぼくだけだろうか。