泪竜さまの物語(1)
遥か昔。
宇宙が百回くらい生まれ変わったほどずっと昔の話。
世界に三匹のドラゴンが生きていた。
地を踏むタイラと、空を飛ぶレックスと、海を泳ぐコロールだ。
タイラは地面を走っては火を吹く。火は森を焼いた。
焼けて黒くなった森は大地になった。
世界で一番高い山の頂上に棲むレックスはよく涙を流した。
レックスの涙は山に落ちて流れる川になって、やがて大きな海になった。
コロールはレックスが涙で作った海が大好きでいつも海の中を泳いで遊んだ。
でも、海の中には何もなかった。
コロールは陸に上がってくる度に寂しくなる。だから自分の腕を食べて血を流した。
その、血がでた傷口に、レックスは涙を一滴、落とす。それからタイラがやってきて傷口に火を吹く。するとコロールの傷口はみるみると塞がった。
でも、海を泳ぐたびにコロールは腕を食べた。
ある日、陸にあがったコロールはひどい身震いをした。それは飢えや孤独や怒りや憎悪が混じった、絶対に他者には伝わらない何かが体の中で燃えている。そんな身震いだった。コロールは自分の腕から流れる血と海水が混じった赤い液体が、真っ黒な大地に染みていくのを見た。
数日後、そこにあった岩から毛の生えた生き物が孵(かえ)った。
ナミダは、生まれてからずっとその洞窟の内側に描かれた壁画の物語を、母に聞かされて育った。
「それからこの竜は、三百年前まで西の世界に唯一、生き残っていたと言われる、ドラゴンの子孫よ。これはティアーズ・ドラゴンね。いちばん弱くて強かったと言われる伝説の竜よ。この国では神羅万象を司(つかさど)る泪竜さまね。この国には泪竜さまの他に、闇竜さま、刻竜さま、灯竜さまの三つ神さまの神さまがいるわ。ほらちょうど、あくびが始まったわね。ナミダ、もう寝なさい」
ナミダの母はいった。ナミダの母はずんぐりと太ったオオサンショウウオだった。
ナミダは水を飲んでから寝ようと、水面に顔を近づけた。すると揺れる水面に映し出される自分の顔を見た。
奇妙なことだが、なんだか壁画の絵は自分に見えるのだ。ナミダは眠気とともに急に腹が減った。するとナミダの涙腺から青い液体が一滴、洞窟の水面に、垂れた。
青い水滴は、水面に、ぽちゃんと落ちる。すると、水面で波が広がって王冠のような形を作って消えた。ナミダは消える王冠の中に、なんと人間の顔を見たのだった。
それは朝夕、太りすぎて穴から出られなくなった母のために小魚を捕まえるときに川底から見る、川の土手の上で遊んでいる男の子にそっくりだったのだ。
事件が舞い込んできたのは、そうやってナミダが布団の中で眠りに落ちる寸前だった。あるいは眠りに落ちた後だったかも知れない。
「篤志(あつし)! 起きろ! 事件だ! 美里(ミサト)が大変なんだ! 拐(さら)われちゃったんだよ! 」
ナミダはおそるおそる目を開けた。それから枕元に置いてある手鏡をとって驚いた。なんと、自分はいつも川底から見かける男の子になっていたのだ。自分に語りかけている男の子はいつもあの篤志と一緒に川の土手で遊んでいる男の子だった。
「きみはなんていう名前だい? 」
と僕は言った。
「健次だよ! 深川健次(ふかがわけんじ)。忘れちまったのか」
と健次は言った。
「じゃあ、美里って子は? 」
と僕は言った。
「まじか、お前、寝ぼけるのもいい加減にしろよ」
と健次は言って、もしもーし。すみません〜。起きてますか〜? コンコン。アツシくんはご在宅でしょうか? アツシくんの頭の扉はどこにありますでしょうか? ここ? 違うかな。こっちかな。コンコン。あっちかな。コンコン。
長い沈黙が降りた。それはまるで真冬の北極の闇のとばりのような、長く重く暗く冷たい闇の沈黙だった。宇宙を存在させるすべてを握りつぶしてしまうような密度が濃い沈黙だった。
「あっしの頭の扉はコレ、でござんす」
沈黙に耐えきれなくなった健次は目を見開いて叫んだ。それから彼は僕の部屋の机に広げてあった分厚い聖書のような絵本を持ってきて広げて見せたのだった。
『Namida Dragon 泪竜』と描いてある絵の下に、物語が綴(つづ)ってあった。
そこには、こう記されていた。
= = = = =
「ほら篤志、起きろってば! 美里が、村の生贄の儀式の人身御供(ひとみごくう)に選ばれちまったんだ! 明日の満月の夜、泪竜さまの供養の儀式で、籠に乗せられて山へと運ばれちまう。俺たちが助けに行かなくっちゃ! 」
僕と健次は、今晩、美里を助けに行くことになった。
(つづく)