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小説のテーマが降りてきた!

味噌汁を、作っていたんだが、小説のテーマが、向こうから降りてきた。

タイトルまで。

「(仮)最後の弟子」

びっくりした。

いまちょうど、劇団ひとりが映画監督として「浅草キッド」をやっているのでテーマが被ったら、アレだけど。

ぼくしか書けない。ぼくが描くべき、エンタメ系の内弟子の桜庭一樹が、書けなかった(書きたくなかっただけかもしれんが)。破門された純文学系の元弟子の頭に、ドカン。雷が落ちた。

これは丁寧にていねいに書いて仕上げよう。

レジュメ、プロット、ストーリー、マクガフィン、ぜんぶ、つかおう。ぼくの卒業小説だ。


追記

まずこれは、復讐とかではない。勘違いしないでほしい。

ぼくはこの小説を書ける。となぜ確信がもてた(る)のか、じぶんで分析をしてみた。

太宰治が人間失格を描いた。それは太宰治を取り囲む「他者のなかに自分」を見て、それを丸裸にしたわけだ。

元師匠はうつ病。ぼくは躁うつ病だ(この時点で師弟関係は既に破綻してそうな感じだったが、当時は互いにうまくいくと思っていたのわけだ)。

20日間か、そこいらの期間(厳密には一ヶ月間)、zoomで呼び出されては朝まで8時間、長い時は11時間とお話をした。ぼくは生活はメチャメチャでそれでも文章修行をし続けた。そんな生活でもなんとか自分を崩壊させずに。ぎり、精神と身体がモッた。

文章作家という実像が、虚栄と孤独が、体面と狡さと、幼稚さが、まざまざと、note(表)とZoom(内側)から、人間の崩れていく様が見えた「ぼくがもし精神が壊れてしまったら、そういうふうになってしまうのだろうか」そういう自分を見ているようだった。短い期間だったがあまりにも親子のように親密になりすぎた。

もし、ぼくがあのとき、自分を見失ってしまったら、あのまるで同じ血の通ったような奇妙な二人の関係は、文章に、物語に冷静に落としこんで描けない。だろうと思う。

ぼくのほうは、閉鎖病棟に二度放り込まれているほどの重度の躁うつ患者だ。そのぼくが冷静にじぶんを見つめるようにうつ病患者の「文章作家=他者」を、自分のこととして一元的に見つめることができた。ぼくがデビューした後、ずっと、ずっと先に、先生が他界なさってから、書こうかなと思っていた、ぼんやりとしたテーマ(あるいはモチーフ、素材)だった。

最後の決裂も、ぼく(弟子)は自我崩壊はせず、どこまでも食らいついていこうとする弟子を、どこまでも稚拙な、出会った頃と何ひとつ変わらない、年賀状の挨拶のような判で押した言葉で、簡単に切り捨てた形で終わった。

(最初に書いたとおり、元師匠への当てつけなどではなく、次回のレジュメです、プロットの元のための情報です)

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蒼井瀬名(Aoi sena)
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