タイピング日記005 / 小説「シンセミア」(下・335頁) / 阿部和重
八月二七日(日曜日)午後一一時五五 - 暗闇、静寂、土臭に覆われた、老朽化した納屋の中。朽ち掛けた木箱の底辺が一箇所はずれ、小猫ほどに肥え太った鼠が空隙から身を乗り出して、塵泥だらけの床上をちょろちょろ走りだした。太った鼠は腹を空かせており、鼻先をひくつかせながら食い物を求めて這い回るが、目ぼしいものは何一つ落ちておらず、その代わりに今宵は、建物中央の柱に一人の人間が縛り付けられていて、泥のように眠り込んでいた。大鼠は警戒しながらも、動き出す気配がまるでないと知って人間のほうへ少しずつ近寄っていった。人間は、鼾を掻きながら熟睡していおり、大鼠の存在に気づき得る状態ではなかった。仮に大鼠が寄ってきて牙を剝く様を見て取ったとしても、当の人間には反撃することも逃走さえも出来ぬはずだった。彼は、柱と背中を密着した格好で上半身をロープにぐるぐる巻きにされているだけでなく、両手両足もきつく縛られていた。---おまけに衣服を着用しておらず、身につけているものはといえばデジタルの腕時計一つきりだった。大鼠は行きつ戻りつを幾度も反復しながら、薄っすらと汗で湿った人間の体表に鼻を近づけているうちに、たっぷりと満ちた脂肪の放つ芳しい臭気に徐々に惹き付けられていった。高鼾が耳障りではあるが、どうやらこいつは全くの行動力と意識を欠いた、単なる血の通った肉塊にすぎぬらしい---恰もそんなふうに推量したかのごとく、大鼠は警戒心を解除したみたいに人間の傍らから離れなくなり、あるところで足を止めてついに齧り付くべき一点を射程に入れた。
剥き出しとなって床にくっついている、膨よかな生っ白い尻の下部が、大鼠の定めた目標だった。大鼠にとっては好都合なことに、いかにも柔らかそうなその部位は面積が広く、容易く口の届く位置にある。湧き上がる食の本能に突き動かされた大鼠は、鋭い前歯を露出させていよいよ人間の臀部に噛みつこうとした---だが、出し抜けに生じた異変によって大鼠は、反射的に身を翻し、四肢を駆使して刹那にして至近距離内から抜け出した。人間の左腕に巻かれていたデジタル腕時計の時刻表示が「0‥00」に変わり、「ピピッ」と電子音が小さく鳴り響いたために大鼠は驚駭してしまい、忽卒のうちに体を反転させたのだった。
大鼠は一メートルほどの距離を置き、ぽかんとした顔つきをして人間の動向を窺った。電子音はすでに鳴ってはおらず、相変わらず人間の寝息ばかりが辺りに響いていた---そして人間の姿勢に自体にも変化はない。だからといって、迂闊に手ならぬ牙を出せば、またもや「ピピッ」と音がするかもしれず、さらには「ピピッ」に構わずにいたら、何らかの回避し難い危難に遭遇するかもしれず、そう易々とは接近できない---とでも考えたのか、大鼠は、次の出方を決心しかねているふうな有り様で一処に留まり、依然として無様な姿態を曝し続ける人間をただ眺めていた。
しばし経つと、新たな危機の到来を感じ取って大鼠は全身を緊張させた。荒々しい巨体の群れが、草叢を搔き分けつつ納屋の近辺まで迫ってきているのが、大鼠には感覚的に理解できた。複数の足音と共に唐突に地響きが立ち、納屋の扉がガタガタ振動した後に外から勢いよく開けられて、四人の人間が屋内に入ってきた。大鼠は、竄走の末に朽ち掛けた木箱の中へ逃げ込み、床板を齧って開けてあった大穴を潜り、床下と地面の間に隠れた。訪問者の四人は、元から居た全裸の人間と向かい合わせとなる場所で並んで立ち止まったらしく、足音はじきに止んだ。四人の体重が建物の中央部の床を軋ませて、度重なる重心の移動によってギシギシと床板が啼声を上げていた。大鼠は身を竦めながら息を詰めて、床上の人間たちの一挙手一投足に注意を払った。
「それで、電話させだのは、いづだって?」人間の一人がそのように声を発した。
「昨夜のうぢに一回連絡ば入れさせで、今日の八時頃にも掛げさせだっす。問題ねえど思うっすよ。余計なごどは喋らせでねえがら。二、三日友だぢと釣りさ行ってくっからって説明させだら、割りとあっさり親はOK出したみでえだっす」これは別の人間の発言だ。
「で、白状したなが?パン屋どは、若木公園でたまたま会っただけだっつてるけどな、例のビラのごどば訊がっで、あんまりしつこいっけがら、ちょっと教えてやったんだって、それだけだど。んでも、まだ何が誤魔化しったみでえな、肝腎なごどば隠しったみでえな言い方なんだ。やっぱりもっと手荒ぐやっちまったほうが、いいんじゃねえが?爪でも引っこ抜いでみっか。この豚さ飯なんざやらねえほうがいいず」三人目がそう言った。
「うん、まあ、んだがもな。しかしあれだ、こういうのも面白いシチュエーションだがらよ、折角だから、じわじわ責めでやってビデオさ撮ってみるのもいいんじゃねえが?その手のば好きな連中さ売れっからよ。おい、菅田。お前一応、明日の昼にでも酒屋さ顔ばだして、親の様子ば探っとげよ」一人目の発話。
「あ、はい。あのじづは俺、さっき嫁ど酒屋さ行ってみたんだっす。ほしたら、父ちゃんも母ちゃんも、別に気にしてねえみでえだっけっす。お兄ちゃんは釣りに出掛げっだんだ、ってしか、母ちゃんは言わねっけっす」四人目が初めて言葉を口にした。
「んだが、だったら、一日や二日ぐらいはほっといでもいいがもな……とにかぐ、こいづがパン屋ど話した内容だげは、早めに確かめでおげや。パン屋はかなり追い詰められっでるがらな。そろそろ何が、仕掛げで気そうな気いする。こいづがちゃんと口ば割ったら、あどはどうにでもてでいいがらよ。それごそ、腕や脚の骨でも折っやって、河原ですっ転んだっつって、親さ返してやればいい」また一人目だ。
「骨だげでは手緩いな。この豚野郎、いっつもヘラヘラしてやがっからよ、パン屋がら銭ば貰って、チクリ屋さでもなるつもりだっけんじゃねえの
が?ああ!こうなったらよ、肛門フィスト・ファックばやってやるしかねえな!」三人目が吠えた。
「やる奴も糞まみれで、悲惨だわそれは」二人目が笑いながら述べた。
「罰ゲームだな。菅田、お前やれよ」三人目だ。
「ええっ!俺だがっす!?勘弁してけろっす!」これは四人目。
「馬鹿野郎。お前しかいねえべよ。やらねっつうんだったら、お前のケツの穴ば舐めさせっぞ」三人目。
「はあ、まだそっちのほうがいいっすわ」四人目がそう呟いた。
「ところで金森、こごは大丈夫なんだべ?お前の親は…」一人目が言い掛けると、
「全然問題ねえっす。当分俺が使うがらこごさ来んなって言っといだがら。サクランボはもう終わってから、この辺さ立ち寄るごども無いっすよ」二人目はこのように応じた。
「それにしてもこの野郎、いい気なもんだな全ぐ。まあだ寝でやがる。なめ腐りやがって。おい、菅田。豚ば起ごせや。事情聴取の再開だ」
三人目の号令を引き金に床板の軋む音が俄然として高まり、四人の跫音が再びやかましく響き出した。二言三言の会話が続いたあと、肉を殴打する打撃音が鳴り響き、直後に四人以外の者の口からぎゃあと悲鳴が上がった。---全裸の人間の声らしい。納屋の中は瞬く間に喧騒の坩堝と化してしまい、大鼠の出る幕はなかった。一同の興奮は次第に際立った行動を伴って激化してゆき、四人のうちの誰かが、朽ち掛けた木箱を蹴り上げて木端微塵に破壊した結果、床板の大穴が露となった。大鼠は切迫して疾走した。納屋から十メートルほど離れた地点までやって来てくるのをやめた大鼠は、地面に転がっている油蝉の死骸を見付け、それに鼻先を寄せ付けた---そして大鼠は、何もかも忘れ去ったかのごとくクンクンし続けた。そこへ不意に出現した野良猫が、大鼠を捕捉し喉元をがぶりと噛んだ。
野良猫によって別のところへ連れてゆかれた大鼠は、その場で散々弄ばれた末に止めを刺され、とうとう食事にありつけぬまま息絶えてしまった。
(阿部和重・シンセミア・下・335頁)