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散らばった自分をかきあつめることにした
はじめまして。葵です。
活動場所によって名前を変えていたら、自分が何なのかわからなくなってしまったので、散らばった自分をひとつにすることにしました。
……突然どうした?
と思われそうなので、順を追って説明していきます。
根底にあるのは「自分を隠したい」から
副業をするときに、本名ではない名前で活動をしたり、
ゲームなどのオタク活動をする際、アカウントを分けることが暗黙のルールになっていて、別の名前を付けるなどしているうちに、名前が増えていきました。
どの名前も自分であることに間違いはないのですが、
仕事と私生活でON・OFFの切り替えがあるように、活動場所によって微妙に人格が違う自覚がありました。人格というか、テンションというか。
演じているわけではないけれど、いつしか、どれが「主人格」なのかがわからなくなってしまいました。
その根底にあるのは、自分からの逃避だと思いました。
〇歳で就職し、結婚し、出産し…という人生のレールに乗れなかった自分を、認めることができずにいたからです。それを隠したかった。
キラキラした自分を演じていたかった。
別にいろんな自分がいてもいいのでは?
交流する相手によって、自分の口調やしぐさが変わるのは当たり前で、
それらの集合体が”自分”なのだという考え方「分人主義」があります。
作家の平野啓一郎さんが提唱していて、書籍も出版されています。
だから、「どれも自分だ」で全く問題ないのです。
でも、私にとって、それぞれの自分は全てにおいて、
「相手に合わせるだけの、中身のない人間」になっていました。
その性格によって、公私ともに多くのものを失ってしまったのです。
※あくまで私の場合であり、分人主義を否定しているわけではありません。
むしろ、分人主義の生き方ができない自分に問題がある。
今の自分に必要なのは、再構築なのでは
「相手に合わせるだけの、中身のない人間」でいることで、得られたものもたくさんあります。
ですがそれ以上に、失うものと、失ったことの悲しみのほうが大きかった。
もう繰り返したくない。
そのためには、「私」というものを一度しっかり見つめなおし、構築する必要があると思いました。
あちこちに散らばった自分をかき集めて、「これが私です」と自信を持つために。
決して、自己中心的になるとか、自我を押し通すためではありません。
「自分はこう思うけど、相手はこう思っている。では、お互いが良いと思える第三のアイデアはないだろうか」とか、「ここでは相手に合わせたほうがよさそう」みたいに、自分の意思で選択できるようになりたいんです。
相手に合わせる・周りに流されるのではなく。
自分を1つにすることが、正しい方法なのかはわかりません。
これは実験のようなものです。
失敗しても、困るのは私だけだし。
このまま永遠に失う悲しみを繰り返したくない。
ただそれだけ。