【自分のための記録】何もかもうまくいかなかった日々②
アルバイトを続けながらも就職活動をして一般企業に入社した。今度は腰の事を考えてアパレルではなく、営業事務をやっていくつもりだった。
入社後、暫く研修期間となり、会社の仕事を知るために色んな部署を回った。その中で工場での研修もあり、毎日立ちっぱなしの作業でかなりの肉体労働だった。でも一生懸命頑張った。今度こそこの仕事を続けてみせると…
だが、気持ちだけではどうにもならない。
案の定、腰に限界が来た。
ある日ベッドから起き上がれなくなった。
その日は1日動けず、次の日になって鎮痛剤を飲み、湿布を貼りなんとか起き上がったら腰が変な方向に曲がり、まともに歩く事もできない…とても仕事に行ける状態ではなかった。
今までとは確実に違う最悪な状態でどうしたらいいかわからず…とりあえずタクシーを呼び整形外科に行った。
家の近所の整形外科でレントゲンを撮り、医者にあなたの場合はレントゲンだけでわかる程の重度の腰椎ヘルニアでうちでは治せない。すぐに大きな病院行ってくださいと言われ、紹介状をもらった。
心配した母が祖母が使っていない杖を持って実家から来てくれた。その上ヘルニア治療で評判のいい大学病院を調べてくれて翌日母と一緒に杖をつきながら大学病院に行った。
大学病院で外来でましてや有名な先生なのですぐに診てもらえるわけもなく、何時間も待ってやっと外来担当の先生に診てもらい、細かい検査と診察の予約をした。
何日か後に改めて大学病院でMRIを撮り、やっとヘルニアの権威の先生に診てもらえた。
あなたの場合生まれた時から腰が弱く、腰だけが80代のおばあちゃんだと。昔から度々腰痛に悩まされたでしょう?その時に整体や接骨院へ行かず、すぐに整形外科を受診していればこんなに酷くなる事もなかったと。すぐに手術をしなくては駄目だと言われた。
人気の先生なだけに普通手術も何ヶ月待ちは当たり前だが、運良くその日たまたまキャンセルが出て、1週間後に入院、2週間後に手術する事になった。
その夜、母が泣いた。丈夫な体に生んであげられなくてごめん。お母さんの責任だと。
それを聞いて私も泣いた。そんな事微塵も思っていない。絶対にお母さんのせいじゃないから。
これで折角入った3社目の職場も辞めなくてはならなくなった。有難い事に会社側は休職して治ったら戻ってきて欲しいと言ってくれたが…手術後の回復とリハビリにどれくらいかかるかもわからないし、今と同じ様に仕事できるのかもわからない。これ以上会社に迷惑は掛けられない。
会社にお詫びも兼ねて電話ではなく、直接最後の挨拶に行った方が良いと思い、入院前に母に付き添ってもらい杖をついて会社に行く事にした。
その日の朝、不安とストレスが爆発したのか突然、過呼吸になった。とにかく苦しくて涙が止まらなかった。母がすぐに袋を持ってきて口に当ててくれて、何とか呼吸が落ち着いた。また母を泣かせてしまった。
暫く休んでから必死で会社にお詫びと挨拶に行った。もっと長く働きたかったけど…仕方ない。
それから暫くは、過呼吸になった時のためと、過呼吸にならないようにとお守りの意味も込めて枕元に袋を置いて寝るようにした。
そして入院。
手術までの1週間ほぼ毎日検査があった。脊髄に造影剤を入れて体をグルグル回されたり、腰の神経に針をさして電気を送られたり、検査だけでもう本当に嫌になった。
結局、ヘルニアが3箇所見つかり1番酷い状態の1箇所の手術となる。あとの2箇所は一気に手術できないので温存。先生はあとの2箇所も酷くなったらまた手術になるなんて簡単に言うからもう絶対に腰を大事にして過ごさなきゃと思った。
手術当日。
家族も叔父も叔母も従姉妹もみんな来てくれた。そのお陰で緊張が少し和らいで何とか平常心でいられた。
あっという間に手術の時間になり車椅子で手術室まで行った。ベッドに横になり、それでは麻酔入れますねと言われた瞬間から記憶がない。
気が付いたのは先生の手術終わりましたよの声で、その次に気が付いたらベッドの周りにみんながいて自分の病室まで運ばれていた。また母が泣いていた。
先生が思っていたより状態が悪く、3〜4時間の手術だと言われていたが6時間弱かかり、母は居ても立ってもいられなかったらしい。
2日間は寝たきりだった。傷口は熱くて痛いし、寝返りはうてないし、何もできない。気を紛らわすためにずっと音楽を聞いていた。
術後3日目から起き上がり車椅子に乗るよう言われた。傷口の治りが遅くてホント大変だった。
1週間後には歩行器で歩くように言われた。ガチガチのコルセットをしてるとは言え本当にしんどかった。毎日少しずつ歩く距離を増やしてリハビリしていった。
結局1ヶ月の入院となった。1ヶ月がこんなに長いだなんて生まれて初めて思った。
退院の日、父が車で病院まで来てくれて、そのまま実家に帰った。とても1人では生活ができないからだ。
ご飯もお風呂も全部母がサポートしてくれた。
そして父が生活の面倒をみてくれて、社会復帰した時のためにひとり暮らしのアパートの家賃も払い続けてくれた。
本当に両親には感謝してもしきれない。両親がいなかったらとっくに私はこの世にいない。
実家ではベッドにいる時間の方が長かったと思う。なかなか回復できなくて退院してから東京に戻るまで3ヶ月もかかってしまった。
そして4度目の就活………
今度こそ安定した生活を送りたい……と切に願っていた。
③に続く…