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【彼岸花・労働記】#07『実体のある幽霊を描く』
▼『彼岸花』の世界観の構築~実体のある幽霊を描く
『彼岸花』の主人公はカメラで撮る女であり、男から見られたら見返すライオット・ガールである。彼女の「見る」という行為を通してわたしは、女性の主体性を描くと同時に、見る行為に含まれる略奪性・加害性も描いている。
これは「見る」側は常に「見られる」側より優位に立つ、という前提があってこそ成立する。しかし<物語>のなかには「見る」ことで加害されるジャンルもある。
Jホラーだ。
▼J ホラーの衝撃
J ホラー。一般的には、 1990 年代から 2000 年代にかけて流行した日本のホラー映画たち。98年の『リング』、2003『呪怨』は代表的作品だ。
映画『リング』の構造はシンプル。「見たら1週間後に死ぬ呪いのビデオテープ」がある。ビデオをダビングし、他の人に見せない限り、死を逃れられない。
「見たら死ぬ」!?
わたしはそのことに、打ちのめされた。大学生だった。
▼Jホラーの幽霊はなぜ<オンナコドモ>なのか
90年代。J ホラーの幽霊たちは、低迷していた日本映画界の救世主だった。アイコン的存在は「貞子」「伽椰子」そして「俊雄くん」。女の名前に「子」がつく時代。黒沢清作品を思い浮かべると、それは「赤い服を着た顔の見えない女性」だ。
地下鉄サリン後の世紀末前後、人々が恐れていたのは、「テロリズム」だ。その恐怖を反映させているJ ホラーの幽霊たちは、「交流不可能な狂人」として描かれた。
J ホラーの幽霊たちは足のない幻ではない。「人でなし」だが、「人」でしかない実体感にあふれていた。そしてなぜかいつも「女性」か「子ども」で「男」ではなかった。
幽霊である<彼女たち>は実在感があるが故に、病気や障がいでうまく歩けない人や狂人も想起させられた。わたしは見る度に、何か後ろめたい気持ちにもなった。ミソジニーでは?という疑いが、常に胸に去来した。
▼Jホラーの幽霊はミソジニーか?
Jホラーの創り手は、当時若かったシネフィル男性たちだ。そして当時のシネフィルも映画界も、圧倒的に男性の世界だった。
ホモソーシャルな空気に満ちた小集団では、話が通じないオンナだけでなく、話が通じるオンナだって異物だ。
オンナコドモ=若い男たちにとって交流不可能な絶対的他者であるがゆえに、幽霊と設定されたのか。
あるいは、男からの暴力の被害者になりやすいオンナコドモの、内なる復讐心を恐れるがあまり、加害する女の幽霊がうみだされたのか。
ミソジニーなのか、現実の反映なのか、答えはでない。
▼Jホラーの幽霊はメイルゲイズに反抗するオンナか?
視覚芸術は長い間、「女を眺めるための装置」として機能してきた。
ピンナップ写真から、ストリップ、AVに至るまで、「男は見て、女は見られる」もので、それはメイルゲイズ(male gaze・・・男性のまなざし)とよばれる。
そもそもカメラという装置が略奪的であり、カメラを操作してきたのも圧倒的に男性だったということは、この労働記【#4「オンナノコ写真」を描く】で書いた。男性主導で「見る」快楽が追求された結果、<まなざしの非対称性>もうまれてしまったのだ。
『リング』の貞子はどうか?
彼女は一方的に見られることを許さない。貞子に呪われたものはまず、自分の写真が「心霊写真化」する。カメラによって観られ、身体を略奪される。最終的に貞子はテレビからだって這い出てきて、見たやつを加害する。真田広之が演じる高山竜司は、貞子と目と目をあわせた瞬間、狂い死ぬ。
『リング』を見て戦慄しながら、同時にわたしはワクワクしていた。
貞子は、メイルゲイズに対抗し刃向かうライオット・ガールでは!?
「見られたら見返す」<やり返す>という態度は、ライオット・ガールとも、「オンナノコ写真」とも通じる、同時代(90年代)のガールカルチャーっぽさがあるとわたしは思ったのだ。
ただ、貞子は相手がオンナだろうと容赦しない。「見た」やつを見境いなく睨んで殺す。鑑賞者はオトコもオンナも関係なく高山竜司と同罪である。わたしがテレビで貞子を見るとき、わたしも「見る」という快楽のために、彼女を消費しているからだ。
▼クリス・カニンガム(Chris Cunningham)が描いた「痛み」
90年代後半、わたしが夢中になっていたミュージックビデオの監督のひとりが、クリス・カニンガムだ。彼ほど「痛ましき身体」を表現していたクリエイターはいない。彼が描く不気味で悪趣味な青白い世界観は、Jホラーと奇妙に同期しているようにみえた。
▼The Auteurs 『Back With The Killer Again』1993
クリス・カニンガムが描く「壊れやすく」「傷ついた身体」は非現実的でありながら、同時に生々しかった。それは切れば血が流れるような「実体感」をともない、Jホラーで描かれる幽霊たちに近いと、わたしは感じていた。見世物的であり、露悪的である。だからこそ痛ましい。
Jホラーの幽霊たちが、生々しい姿で<彼岸>から<此岸>へと踏み越えてくる存在であるように、クリス・カニンガムの描くクリーチャーもまた「越境的存在」である。
大人か子どもか、オトコかオンナか、人間かロボットか、若いのか老いているのか、死者か生者か、彼の映像世界では、すべての境界が曖昧だ。その逸脱したかたちを通して、美醜の常識をも問う。
例えばエイフェックス・ツインのMVでは、<オンナコドモ>の身体に、大人の男性(エイフェックス・ツイン自身)の顔が貼り付いている。
それはまるで人気アイドルの顔とわいせつな画像を合成して創る<アイコラ>のパロディのようだ。男たちが絶対にヌケない悪夢的イメージ。厭がらせに近い。
▼Aphex Twin 『Come To Daddy』1997
▼Aphex Twin 『Windowlicker』1999
彼の映像世界では生者か亡者かも混沌としている。生者は幽霊のように重さを奪われて浮遊する。
▼Placebo『36 Degrees』1996
▼Holy Barbarians『Space Junkie』1996
▼Portishead 『Only You』1997
▼Madonna『Frozen』1998
クリス・カニンガムが描くクリーチャーは、誰もが等しく暴力の被害者であり、同時に加害者のようでもあった。誰もが見世物小屋のフリークスでしかないし、フリークスたちは<見返してくる>。貞子と同じだ。
▼プレイステーションのCM『Mental Wealth』1999
プレイステーションのCMで、不気味に加工された女性が語るのは、宇宙探査に象徴される人類の進歩・発展への皮肉だ。
彼女はメンタルヘルスの重要性を説くが、彼女自身が最も病んでいるようにもみえる。そして、この痛々しさを凝視せよ、とでも言わんばかりに真向かいから睨みつけてくる。
▼Bjork『All is Full of Love』1997
描かれる存在はみな、痛みをかかえているようにみえる。ロボットにも痛みを感じる。その生々しさに、性や生の切実さを感じる。
クリス・カニンガムは、マッチョイズムも徹底的に笑いものにしている。例えば日産のCMでは、オトコの象徴である隆々しい胸筋や盛り上がる上腕の動きに、ロボットの起動音を足して戯画化した。車もまた映像世界ではオトコの象徴だ。
何も持たない子どもは、マッチョな男に反抗し、たたきのめす。最弱こそ最強になる。
▼Squarepusher 『Come On My Selector』1)
彼の映像作品を俯瞰すると、それらがオトコ目線で略奪し続けた視覚芸術全体に対する批評精神に満ちていることがわかる。エンタメとして「ヒトガタ」を消費することを絶えず責められているような、「見る」ことへの後ろめたさが常にはりつく。
それは同性からのメイル・ゲイズへの告発のようにも見えるし、映像クリエイターである自身への自己批判・自傷行為のようでもあった。
▼幽霊とは?
幽霊を定義するのは難しいが、死んでなお死んだ自覚がない、成仏していない存在とされる。
要するに、あの世にもこの世にも居場所がない「境界」の存在であるのだと、何かの本で読んだ。
これを踏まえ、わたしは幽霊を「時間がとまっている人(過去に囚われている状態)」と定義しなおした。死んでいないが生きてもいない、魂を失っているような状態も広義には「幽霊」ではないかと思ったのだ。
『彼岸花』の主人公キョンシーは、黒沢清の『回路』で、死をのぞき見て、黒いシミになってしまったあの人達だ。90年代に魂を置いてきて磔にされてしまったが死んではいない、永遠に終わり続けているひと。
物語・映画などの終局をendingという。終わるの現在進行形。終わり続ける。残酷だ。世紀が変わってもなお、ずっと世紀末。
▼幽霊が現れるという「境界的な空間」とはどこか?
幽霊は境界の存在であるからこそ「境界的な空間」に現れるという。「境界的な空間」とはどこか?
それは部屋と部屋をつなぐ「廊下」であり、1階と2階をつなぐ「階段」であり、道と道のあいだである「交差点」「辻」であり、彼岸と此岸をつなぐ「橋」である。幽霊研究の本に、そうかいてあった。
納得のいく理屈だ。確かに廊下や階段や橋に、ぼんやりと所在なげに「それ」は出る。幽霊がボーダーな空間にでるという原則に従って、わたしは玄関やベランダ(ソトとウチの間)、踏切(あっち側とこっち側の間)も幽霊の居場所と設定した。
彼岸花のキャラクターたちはよく橋にいる。階段に、廊下に、玄関に、ベランダに、踏切に、交差点に・・・そういう場所にいるときの彼らは、過去に囚われていて、時間がとまっている「幽霊」である。
幽霊の居場所である境界的な空間で。あちらとこちらの「間」の橋の上で悶々としたあと、幽霊から人間に戻るために、キャラクターたちは何を選択するのか。選択すらしないのか。『彼岸花』はとどのつまり、そういう話だ。「諦める」とは「明らかにする」という意味もある。
「彼岸花」における死人は、若い女「愛」と主人公キョンシーが流産し、産めなかった子だ。これはJホラーの幽霊たちが<オンナコドモ>であったことに由来している。キャラクターたちは常に、そこにいない死者と対話し生きている。
自分はまだ死んでいない、幽霊でないと信じられるのは、「痛み」の実感があるかどうかだけではないかとよく思う。痛みがあることで、魂がまだ肉体にとどまっていると感じられる。
愛の自傷痕も、キョンシーのTATOOも「痛み」の視覚化だ。生の証として、わたしは「痛み」を描いている。
痛みと共にあるのなら、まだ死んではいない。
死の実感を知るひとなんて、この世にはいない。
メメント・モリ。「死を想え」は生者のためのものだ。
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