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【彼岸花・労働記】#02『ヤバい肌のオンナノコたちを描く』

▼『彼岸花』の世界観の構築~ヤバい肌のオンナノコたちを描く

『彼岸花』の女キャラたちは、パンクが産声をあげた1976年うまれ。わたしと同じ年齢にしたのは、何年に何がおきたかカウントしやすいから。この年に公開されたのがブライアン・デ・パルマの『キャリー』だ。


『彼岸花』男キャラたちは、1973年うまれ。第二次ベビーブーム世代。お荷物と言われ続ける団塊ジュニア世代のど真ん中ゾーンでとにかく人数が多く、子どもの頃から激しい競争にさらされてきたやつら。この年に公開されたのは、ウィリアム・フリードキン『エクソシスト』だ。

70年代ホラー映画の最恐ヒロイン、キャリーとリーガンはともに、父親不在の機能不全家族で育ち、父という「男」にあらかじめ捨てられている。

父を捨てた母、あるいは父に捨てられた母が、今度は神という見えざる父を優先し愛することを要求してくる。どの男を愛し愛されるか、自分にとっての父は誰かということまで、母の顔色をうかがい、母の決定に従わなければならない彼女たち。

彼女たちはその支配にあらがい、発狂することで母に刃向かう。その姿は「大人の男」に選ばれる<従順な女>になることすら、拒絶しているようにわたしには見えた。

抑圧された反動で超能力的なパワーを得、世界を破滅に導く。親を困らせ、不道徳で卑猥なことばを口にし、権力とその犬には噛みつき、いじめっこは殺し、神をも恐れぬ悪魔となり、すべての権威にツバを吐き、おしっこは漏らし、触らずにモノを動かし、階段はさかさになって降りていく。

▼何かに取り憑かれるオンナノコの肌は、なぜヤバくなるのか。
何かに取り憑かれるホラー映画のオンナノコの肌は、なぜ汚くなるのか。湿疹が出たり腫れ上がったり傷ついたりするのか。ナ・ホンジン『哭声 コクソン』のオンナノコもそうだ。

ホラー映画で肌がヤバくなる彼女たちは大抵、初潮を迎えたり、セックスを知る(目撃する)時期を境におかしくなる。思春期のオンナノコたちは、無意識にではあるが近親相姦をさけるために父というオスを拒絶する必要が生じるからこそ、反抗心をむきだしにするのだが、(家父長制においては所有物であるはずの)あんなにかわいかった娘が反抗するのを、父は受け入れられない。

近親相姦をさけなければならないのは父親も重々承知だ。しかし成長し魅力的な肌になる不安定な娘に欲望すらかきたてられた場合、娘は悪い&けがらわしいと思い込む必要も生じてしまうのではないか。一方、母にとって魅力的な女になっていく娘はライバル的存在にもなる。

父(父には神も含まれる)と未成年の娘の接近にエロティックな危険が生じる時期を恐怖として描いたのが、オンナノコの肌がヤバくなる系のホラー映画だ。そこで描かれるのは実のところ、両親や教師や聖職者や医者たちの(娘にとっては権力側の)支配欲であり、女性らしく従順であれという男社会からの抑圧であり、それに抗う娘である。モンスター化する未成年の娘は、権力者である大人の男を無意識に誘惑し寝てイエを破滅させる可能性を秘めた存在だからこそ、ひわいなことばで罵る悪魔として描かれるのではないか。

若く健康なオンナが愛され敵視もされるのは、その素肌が誘惑そのものだからだ。触りたいという欲望をひきだす。その肌が、触りたくもない、汚らしい色、凹凸、かさぶたや傷や汁でおおわれていたらどうか?中身が病んでいても外見がぴかぴかなら男は寄ってくるが、外見に醜い兆候が現れれば、中身がピカピカでも遠ざかる男は多い。

ヤバイ肌のオンナノコたちは男に拒絶されるし、男に拒絶されたければヤバい肌になればよい。このブルシットな世界を受け入れないという意思が汚肌となってあらわれるか、それとも彼女たちが汚肌だからこの世界から拒絶されているのか。どちらもありえる。説明はつかない。

長年、オンナたちは男に選ばれなければ生きてはいけなかった。結婚が永久就職とよばれた時代は遠くない。処女のまま他のイエに送り届けるまで、誰とも寝てはならないし、男に拒絶される外見ではそもそもがいけない。肌がヤバいことになるオンナノコをもつ親は、ヨメに出す先がない恐怖にもさいなまれたはずだ。

汚肌は忌避感と直結する。触りたくない=男に無視されたら、娘たちの未来はたちまち閉ざされる。癒えない汚肌や、意味不明に罵り痙攣するオンナの病態を「霊」のせいにするのは、苦しみをかかえた娘以外の全員にとって都合がよかったのだ。

リーガンの幻覚、妄想、痙攣、記憶障害、健忘などの症状は、『抗NMDA受容体脳炎』の症状に似ていると言われる。『抗NMDA受容体脳炎』はエクソシスト公開時には認識されていない疾患名だ。キリスト教圏における悪魔憑き、日本におけるキツネ憑きなども、その当時は名前をもたない病であった可能性が高い。

医療だって社会をうつす。男性優位の社会では、女性の不定愁訴はいつも見逃され、女性特有の疾患の研究は遅れてきた。『抗NMDA受容体脳炎』の大きな特徴は、女性患者の4~5割に卵巣奇形腫の合併も認められることだ。卵巣奇形腫の発見から『抗NMDA受容体脳炎』という診断につながることだってありえる。更年期障害やPMSとされる症状だって、もし男性に同じ事がおきていれば研究がすすみ、もっと充実した適切な医療があるのかもしれない。

顔を歪ませ不道徳でひわいなことばをまき散らす女に対して、邪悪なものが取り憑いているという理屈を押しつけ、お祓いという行為に及ぶことは、ほんとうのこと(原因や事実)から目をそらし、現状維持を強いる隠蔽行為だ。女が諦めて沈黙するのを待っているだけだから、苦しんでいる女は救われない。「お祓い」で苦しむ女は、悪霊のせいでそうなっているのではなく、自分の意見が通らないことを知って絶望し、怒り狂っているのだ。

神という見えない権威を使って、邪悪な何かが存在するかのように振る舞い、全員で「誰のせいでもない」という安堵を得る。宗教は常に癒えない病への不安を利用し利益を得てきたし、祈りとは結局のところ不安という癒えることのない病の解消法だ。

何もなしとげていない未成年のうちに、忌むべき存在と拒絶され、浄化を強制される被害者が、その理不尽な判定を受け入れず復讐を果たす。リーガンやキャリーは、そういうオンナノコたちだ。

ひっこみじあんで自己表現が下手な、弱っちいオンナノコ達が、醜いまでに怒りをむきだしにし、汚さもいやらしさも全部のせで、ぜんぶひっくりかえしてやると罵り痙攣する。その姿はまるでパンクスだ。ヤバい肌のオンナノコたちはその肌でもって、痙攣する身体でもって、誰にも支配されたくない、わたしに触るな、わたしを押さえつけ自由を奪うなと、全力で抵抗しているように見える。

▼90年代ライオットガールのヤバイ肌

わたしはリーガンやキャリーの魂が90年代に降臨し、ライオット・ガール(riot grrrl)になったのだと夢想する時がある。90年代のライオットガールもヤバい肌のオンナノコだったからだ。

ビキニ・キルのキャスリーン・ハンナは自らの肌に「Slut」とマジックで大きく描いて舞台の上で絶叫、痙攣してみせた。Slutにはふしだらな女、尻軽女、誰とでも寝る女、ヤリマンなどの意味がある。

ビッチと罵られて「ビッチで何が悪い」と居直る。投げつけられた侮蔑語を、自分たちをセレブレイトすることばに変えてしまうという反転は、パンクスの態度として大変正しい。

あのコは近所の女王だと思ってる
すっごい自信家 親友になりたい 
あのコはあたしの世界の女王 
イエに連れて帰りたい あのコの服が着たい
あのコが話せば 革命が聞こえる
あのコのキスで革命を味わう
あんたたちに知らせたいことがある
あのコこそ女王だってことを
淫乱だって言われてるけど
あたしの親友なんだ 反逆するオンナノコなんだ
あのコとは姉妹も同然、魂の姉妹 だいすき 親友になりたい 
あたしの「レベル・ガール」になって 反逆するオンナノコになって
・・・・・・・・・・・・・・・<ビキニ・キル ”レベル・ガール”を勝手訳>

▼ガール(girl)・ミーツ・ガール(grrrl)

『彼岸花』の女キャラ:キョンシーと愛はどちらも肌がヤバいオンナノコにした。キョンシーの肌をアトピーにしたのは、無意識レベルで世界を拒絶しているということを描きたかったから。愛の肌をリストカットで傷だらけにしたのは、意識的に世界を拒絶しているオンナノコだと示すためだ。「かゆい」も痛みの一種らしい。痛みを肌に描いて可視化し世間にさらす。「ヤバい肌のライオットガール」たちは、自分を生け贄にしてでも反逆精神を露わにする。

愛から痛みを可視化し怒りを表現することを学んだキョンシーは、パンクとカメラを手にする。受け身だったオンナノコが「ホンモノの愛」に出会って主体的にふるまうことを学び模倣し、吠えるgrrrlになる。そういう風にみえればいい。

▼「悲しみと怒りの極限となり、秘めていた超能力を解放する」

悲しみと怒りの極限となり、秘めていた超能力を解放する、それはキャリーがやったことだが、わたしはアートでそれができると思った。それが90年代に若かったわたしが、オンナノコたちのハードコアパンクから受け取った勇気だ。

誰もみたことのない切り口で自分のみた世界の断面をみせること、爆発的に自己表現することこそ、超能力の一種だと信じている。アートはその人に触らずにその人の心を動かせる。心が動けば行動も変わる。これが超能力でないなら何が超能力だ?

信じるアートをやることは、血だらけになって人前に立ち、真っ赤なわたしを恐れろと言うことに等しい。それもキャリーがやったこと。それを実践しているうちに、わたしはほんとうに壊れてきた。キャリーのように真っ赤になるためには、他人に豚の血をあびさせられるか、自分の血を流すしかないからだ。

「自分を生け贄にしてでも反逆精神を露わにする」
ライオットガールたちが肌身をさらして見せてくれた勇気を、実践するのは厳しい。それは何が飛び出すかわからない獣道。
Grrrl! Grrrrrrl! Grrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrl!

からだがやられると心まで病んでくる。生きてるのがめんどうになり、死んだ方がマシだと思う。国道でトラックが走るのをぼんやり見続け「とびこみたい」という衝動にかられる。高いビルにあがると落っこちたくなる。踏切待ちをしていると。バイクで走っていると。駅で電車を待っていると。
一歩も踏み出せない臆病さを持っていたから、わたしはまだここにいる。どの能力がわたしを生かすのか、わたしにも誰にもわからない。

分かっているのは、わたしの人生は映画ではないし、わたしは映画の主人公じゃないってことだけだ。わたしはキャリーじゃない。都合よくTHE ENDという幕はおりない。(つづく)



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青色ひよこ
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