『怒り』以外の感情を知った日

寂しい、を実感した。

喉から色んなものが溢れた。

長年溜め込んだ澱み、毒、しまい込んで無きものにしたはずの未分化なものもの。喉を内側から痛めつけていた酸毒が、ようやく退き始めた。

僕は喜怒哀楽で言うなら『怒』しか感情が無い生き物だった。他人からも「何を怒ってるの?怖い」と頻繁に指摘され煙たがられた。何もしていなくても、それこそ声を上げて笑っていても。

「何を怒ってるの?」「いや何も」「ほら!怒ってるじゃん」「怒ってないよ」「めっちゃ怒ってるじゃん!」以下エンドレス茶番

…どれだけ責め立てられたところで、心当たりが全くないこちらは首を傾げるしか無かった。他人がそう判断するほどの何らか根拠があってのことだろう。それに先述の茶番に象徴されるように、他人は所詮一部分しか見ないのに即座に全方面の評価をぶつけて去るだけの無責任な野次馬だと見切る術でやり過ごすしか無かった。

自分の感情表現が内側の実感情とリンクしていない疑惑が生じて、程なく結論が出た。内側にはそれなりに種類がある(はずの)感情が、おもてに発せられる時にチャンネルを経る。そのチャンネルが『怒』1つなのだ。内に様々なものを抱えていても、外に出す時に常に同じ服を着せるのと似た現象が起きている。

さらに僕は全てにおいて見切りが早い。何より己に関する見切りが最速、他人に何をも求めないのも通常営業。誤解やら勘違いをいちいち「違うんですよ、これは〜」と解す努力が虚しい。

ひとは見たいものを見たいようにしか見ないし、信じたいものを信じたいようにしか信じない。かくして感情バグのぽんこつと言う看板が掲げられる。しょうがないと思った。自分に背を向けるのも通常営業。

自分がほんとうはどう感じているかなんて、どうでもいい。今すぐ分からなくてもいいし、今だろうが後だろうが、他人には決して伝わらないものだ。あとから他人に解説して回るのも変だ。誰が聞きたいねん。

感情表現の機能バグ。表現が苦手な上に、自身の感情をきちんと認識するのにも恐ろしく歳月を要する。まさかこんなに未分化なまま放置していたとは。

しまい込んで整理整頓もせずにいた、表せる感情なんて無いからと知らん顔していたモノたちが、気づけばぞっとする質量で僕の喉を侵食し続けていた。酸みたいに焼き潰し、毒みたいにぼろぼろに食い壊していた。

長過ぎる歳月を重ねても認めてやれなかった感情を、『寂しい』と初めて思えた。

体感した、と思う。自分には『怒』だけじゃなかった。寂しいと感じてるのが判る。喉奥から色々溢れさせながら、次々と吐き出した。

可塑性、という言葉を内に染ませる。