きつねうどん
今年もきつねうどんを食べた。
冬の匂いがしてくると、わたしは毎年どこかのお店できつねうどんをいただく。巡礼のように。
目の前に出されたきつねうどんを覗き込んで、目頭が熱くなった。店に流れる湯気に包まれながら、わたしはきつねうどんの世界に入っていく。その時間が少しでも長く続くように、一本一本のうどんをかみしめて。
わたしは心の病を抱えている。病気とは長い付き合いになるけれど、あの頃はほんとうにつらくて、自ら命を絶とうとした。どこでどう死のうか考えて考えて、北の海に沈むことを選んだ。遠くの海で沈んでしまえば、子どもたちも両親も、無惨になったわたしの姿を見ないで済むかもしれないと思った。
降り立つと、外はすごい雪だった。わたしは必死で岬までたどり着いた。詳細は割愛するが、結局死ぬことはできなかった。わたしは現地のおまわりさんたちに手厚く助けられた。そしてまた、運ばれた精神病院の当直医にとてもよくしていただいた。自分は保護室に入るものだと思っていたわたしに、「君に保護室は必要ない」と静かな声で先生は言った。大まかな話と、明日の朝のこと、日付が変わるころまでつきあってくださった。その間、おまわりさんもずっと立ったまま、真剣に耳を傾けてくれていたのを、わたしは忘れない。
翌朝7時に病院を発つ約束をしていた。病棟から海を眺めていると、夜勤の看護婦さんがやってきた。「本当は一時金をいただかなければならないのだけれど、先生が、家に帰ってからでいいって仰るの。自分が責任を持つからって。帰るのに少しでも心細くないようにって」それを聞いて泣いたわたしを、看護婦さんは優しく抱きしめてくれた。
雪をかき分けタクシーが入ってくると、黒のジャケットに着替えた先生が出てきて、「僕も駅まで行くよ」と言うので驚いた。看護婦さんと泣いて別れた後、車中で昨晩病院では話せなかったことをいろいろ訊ねてもらった。そしてあるコンビニエンスストアの前でタクシーを止め、「君も降りるんだよ」とわたしを連れて降りた。
「ここは北海道のソウルコンビニなんだ」そう言って、「僕が選ぶから」とぱっぱっとおにぎりと唐揚げとあんまん、そしてのむヨーグルトをかごに入れた。おろおろするばかりのわたしに、「これは僕のおごりだよ。僕が勝手にやっていることだから気にしないで」と言い、またタクシーに乗りこんだ。降りる前には、「お守りに」と、アロマの小瓶を手渡してもらった。これ以上ないほど、心を尽くしていただいた。
駅舎はひどく冷え込んでいた。うどん屋に気がつくと先生は、「きつねうどんひとつ」と言った。≪うどんができたら、お別れなんだ≫そう思ったら、堰を切ったように気もちが溢れ出た。
「先生わたし、もう長いことお薬も飲んでいて、なかなかまともに生きられないんです。でもまともになりたいです。わたしでもまともになれますか?」
先生は一瞬目を丸くしてから、「なれるよ」と言った。「……ていうか、最初から君はまともだ。しっかり生きてる。それに君は、ハートがとても綺麗だ」胸に手を当ててそう言った先生に、わたしはわぁっと泣いてしまった。
「君は今まで、君のままでいられない環境にいたんだね。でもこれからは違うよ。ありのままの君を必要としてくれる人たちと生きられるようになる。そういう時代になる。僕にはそれがわかるんだ」
涙は止まることを知らなかった。そのうちにうどんができた。お別れだ。病棟の患者さんたちが待っている。わたしはしがみつくようにうどんに向かった。涙と、鼻水がごちゃ混ぜに流れた。
「食べきれなかったら残してもいいよ。それから泣きながら食べたっていい。これも思い出だ」
先生は最後にそう言って、ずっと待っていてくれたタクシーに戻っていった。うどんにしがみついていたわたしは、最後にもう一度顔をあげると、去っていくタクシーを見届けた。声を殺してしゃくりあげた。うどんは残さず食べた。
雪を被って列車がホームに入ってくる。小瓶を握りしめ涙が止まらないまま窓の外を見ていた。白く白く、ひたすら雪の降り続く世界。こんなに泣いたのは、いつ以来だろう。ああ、人はこんなに優しくて、地球はこんなにも美しかったんだ……!
あれからわたしはだいぶ回復した。先生の言葉の通り、優しい仲間たちに囲まれて生きている。みんなに出逢えたことで、生きててよかったと心から思えている。いま苦しんでいるひとたちも、生きててよかったといつか思えるといいな。そんな温かい世界を作っていくための、ひとつの駒でありたい。
おまわりさんたちに、看護婦さんに、先生にしていただいたことのわずかでも、わたしの周りの人たちに還していける自分でありたい。
2020年 初冬 小絵
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