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湖月の君 便り②


夏の眩しさも、秋の静けさも、真理子はひとりで見送った。

悲しいことに、教室に行っても俊之がいないということに、いつのまにか慣れてゆく。
最初のうちは、今日こそいるかもしれないと思いながら通ったけれど、そういう期待も徐々に薄れていった。
期待すると苦しいから期待しないというのでもなくて、自然とそうなった。
ほんとうは苦しくても痛くても、ずっと生々しく俊之を思っていたかったように、真理子は思う。

夏の終わりに時任夫妻が、
「小和田さんは入院でもしているのかもしれないね」
と話していたことがあった。

ずきんとした。
真理子も、そんな気がしていたから。


ネモフィラの葉書をもらって以来、お互いに何もやりとりはなかった。
張り合いをなくしたせいか、この秋は真理子も体調を崩しがちだった。

冬の香りがしてくると、やはり一年前の記憶が真理子のなかで鮮やかに蘇ることが増えてきた。

優しさの傘をさしてもらった日のこと。
それから赤い傘のこと。
『帰る場所』の絵のこと。
5人で素敵な展示会を作りあげたこと。

真理子は元気を取り戻しつつあったのもあって、久しぶりに俊之に手紙を書くことにした。
手紙を書くことを、なぜかそうためらうこともなかった。


拝啓 小和田俊之様

空気がひんやりとし、ますます月の映える基節となりました。
いかがお過ごしですか?

私は秋頃から気持ちが鬱々と下がり気味でしたが、
このところは再び新しい作品の制作にとりかかっています。
今は大きなキャンバスに描いています。
今回は裸婦像です。
モデルの女性がとても感じの良い方で、描きながら優しい温かい気持ちになっています。

真昼の白い月を見つけては、夜空に浮かぶ月を眺めては、俊之さんのことを想います。具合はどうかしら。どんなお気持ちでいらっしゃるのかしらと。
あなたの元にも季節の風は届いていますか?小鳥の囀りや木の葉の舞う様が、あなたを癒してくれているでしょうか。
あなたが少しでも明るい気持ちで、安らかな気持ちで過ごされますように、ここからずっと、お祈りしています。

ご自愛くださいませ。

12月13日
小辻真理子


初めて『俊之さん』と言った。でも初めてじゃなかったからそう書いた。
心の中で、真理子はずっと呼んでいたから。
『俊之さん』と、ずっと彼の名を、呼んでいたから。

この手紙には、もう真理子なりの覚悟があった。

俊之さん、知っていますか。
以前「月が綺麗ですね」と手紙に書いたわたしの心を、その意味を。
あなたは気づいていましたか。
美しいものをあなたと共有したいと願うこの気もちが、どういうものなのか、どうか気がついてください。


「あなたをお慕いしています」
まっすぐにそう言えたらどんなにいいだろうと思うけれども、自分の限界と、俊之の状態もあって、真理子にはそれが精一杯だった。



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森宮雨
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