湖月の君 便り①
展示会のあと、3回ほど俊之を教室で見かけたが、いつものようにあっさりした挨拶をかわした程度だった。
その間、俊之からも年賀状が届いたが、黄色いミモザの綺麗な年賀状に、「希望に満ちた一年になりますよう」と、ひとことだけ添えてあった。思慮深い俊之の、明るい一面が感じられる葉書だった。
しかしそれから俊之は教室に顔を見せなくなった。
しばらく見かけなくなって、いてもたってもいられたくなった真理子は、オーナーに訊いてみることにした。
「小和田さんなら、体調不良でしばらく休むそうだよ」
どこがどのくらいよくないのかは、わからないんだがね、とオーナーは言った。
ショックだった。
どのくらいつらいのだろうという心配と、しばらく会えないことへの寂しさが真理子の胸をいっぱいにした。
具合が悪いのならと、電話もかけられなかった。
俊之の姿をみないまま、春になった。
雨のそぼ降るその日、真理子が街中を歩いていると、街道沿いの酒蔵でミニコンサートが開かれていた。チケットも入場料もいらず、ふらりと立ち寄れるものだった。音に引き寄せられるように真理子はそこに入った。
二胡という楽器を、そこではじめて知った。
とても素敵な音色だった。
二胡とオルガンでいくつかの曲が演奏されたあと、ふたりの女性が加わり、フォークソングを歌った。
楽しそうなその歌声も、二胡の音色もオルガンも、とても気持ちがよかった。
恋の歌に身をゆだねながら、真理子は静かに涙を流した。
俊之への想いがこみあげてくる。
このまま大好きでいていいのだと思って、よけいに涙がでた。
真理子の冷えた頬に、こぼれる涙は熱かった。
傘をさして酒蔵をあとにすると、川沿いを歩いて家に向かった。
両脇に桜の木がどこまでも植えられている川沿いのその道は、ふだんから真理子のお気に入りの散歩道だ。鴨や白鷺もそこで見られる。
「あ」
ちいさくひとつだけ咲いた桜の花を見つけて、真理子は思わず立ちどまった。今年初めて咲いたソメイヨシノを見て、真理子は俊之に話しかけたくなった。
家に帰るなり机に向かって、水色の雫模様のレターセットをとりだした。
今日のミニコンサートのことや、はじめて二胡の音を聴いたこと、桜の花が咲いていたことを、短めの文章でまとめた。
そして最後に、こうつけたした。
「桜のお花が咲いているのを見つけて、嬉しくなってお便りしただけですので、どうかお気遣いありませんように」
具合の悪い俊之に負担をかけたくないという思いと、自分が期待をしないで済むようにと、どちらのきもちもあって真理子はそれを書いた。
綺麗なものを見て誰かにいちばんに伝えたくなる、その誰かは、やはりいちばん大切な、特別な人だ。
その自然なことを、俊之はどのくらい汲むだろうか。
そのきもちを伝えたくて書いたわけではなかったけれど、伝わってもいいと真理子は思った。
俊之が気づいても気づかなくても、それはどちらでもよかった。
5月になると、意外なことに、俊之からの返事が届いた。
一面に青のネモフィラが咲いている写真の、それはとても美しい葉書だった。
「体調が優れず、なかなか教室へは行けませんが、窓の外に咲く忘れな草のブルーに癒されています。小辻さんもご自愛ください」
ふだん素っ気ない俊之の、これが精一杯の気づかいなのだと、真理子は思った。
俊之が自分のことを思い出してくれている時間があったということが、真理子はとてもうれしかった。
この綺麗なお花の葉書も、きっと自分に選んでくれたのだと思って、久しぶりに舞い上がるようなきもちになった。
お守り代わりに、以前もらった白い封筒と一緒にこの葉書をバッグにそっとしまった。
けれど、心に影をおとすものもできた。
窓の外に咲く忘れな草ということは、いま彼は自宅ではないところにいるのではないだろうか。
住所には、前と同じように部屋の番号が書かれてある。
603号室。
そこから忘れな草というのは、どこか不自然な気がしてならなかった。