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湖月の君 赤③
「よく似合ってますね」
信号待ちのちいさな交差点で、俊之が言った。
なにかと思って真理子が首をかしげると、俊之は、
「傘です。その傘が」
と付け足した。
「あ、この傘は……」
俊之からそんなことを言われるとは思ってもいなかったから、真理子は身体が急に火照って、それをかくすようにしながら、笑って言った。
「私ずっと、赤い傘に憧れてたんです。でも私にとっては、赤って勇気のいる色で。周りの人たちに、白のイメージだって言われてきたのもあって。それでもやっぱり、傘だけは赤いのが欲しくて、つい最近思いきって買ったんです」
じっと聴いていた俊之は真顔で言った。
「いいと思いますよ。たしかに小辻さんはおとなしい人かもしれませんけど、秘めている情熱を、私は感じます」
誰からも言われたことのない意外なことを俊之に言われ、真理子はどうしたらいいかわからないきもちになった。
「そうでしょうか」
「そうです。この傘の色も、派手でもなく毒々しくもなく、でもやはり赤は赤として主張しています。赤は、情熱でしょう」
どうしたのだろう、今日の小和田さんは。
でもとにかく、この赤い傘が素敵なことをもたらしてくれたんだ。
真理子は幸福な混乱を胸に抱きながらも、話しかけやすい今日の俊之に、ここぞとばかりに幾つか質問をした。
「小和田さんは、お幾つなんですか」
「68になりました」
「えっ。ぜんぜんそんなふうに見えませんでした。もっとお若いのかと」
「よく言われます」
「ちなみに私は32なんです」
「小辻さんだって。実年齢より若く見られるでしょう」
「どうでしょう。私は生まれも東京なんですけど、小和田さんは」
「長野です」
「長野ですか……私、長野にはあまり詳しくなくて」
「そういう人けっこう多いですよ。うちは長野と言っても、新潟寄りです」
想像した真理子が思わず身震いして、
「寒そうです」
と言うと、
「はは。まあそうですね」
つられたのか、俊之も笑った。
思いがけず俊之の笑った顔を垣間見て、真理子は無性に嬉しくなった。
それでもうひとつ訊いてみた。
「小和田さんは何月生まれなんですか」
すると俊之は一瞬考えて、それから、
「秘密です」
と言った。
急に閉ざされた気がした。
これ以上はふみこんではいけない、そういう領域らしい。
そこを越えていいのは私じゃないんだ。
とても悲しくて、淋しい。
でも同時に、誕生日をきいたわけでもなく、誕生月くらいで境界線をひくなんて、という思いもわいた。なんだか苦しくて逃げたくなった。
「そういえば私、買いたい本があったんでした」
駅前の書店が視界に飛びこんできて、真理子は思いついてそう言った。
笑顔で言った真理子に、俊之は、
「じゃあここで」
と会釈をして、すっと去って行った。
私の心がこんなにもやもやしても、小和田さんは気がついていないのかな。
俊之の後ろ姿を見送りながら、真理子はそんなことを思った。
少しうらめしい気さえしたのだった。
しかしその晩、真理子は素晴らしい夢を見た。
それは、真理子がこれまで見たなかで、いちばん美しい、本当に美しい景色だった。
そこはスキー場で、真理子はゴンドラからその白銀のパノラマに心を震わせていた。
氷と雪に覆われた、白く透きとおった世界。
この世界にこんな綺麗な場所があったんだねと、真理子は夢のなかで隣にいる誰かとわかちあっている。
そしてその世界の不思議なのは、どこまでも白く白く覆われていながら、この世界のありとあらゆる色彩が散りばめられているような、そんな気配のすることだった。いろいろなものを包みもってなお、絶対的に白く輝いていた。
あまりに素晴らしい夢だったので、目が覚めたとき真理子は、ああ夢だったのかと、がっかりした。
そして思った。もしも何処かほんとうにあの場所があったなら、あの美しい景色を、こんどは俊之とふたりで眺めたいと。
私は、ほんとうに小和田さんが好きなんだ。
あの人を愛しているんだ。
そう思ったとき、真理子のなかにずしりとしたものが芽生えた。
俊之のことで一喜一憂して、天にも昇る思いもすれば、地の底にたたきつけられもする。これからもそれはどうにもならないと思う。
でも、もうそれでいい。
ばかみたいに大好きで、ばかみたいに傷ついても、ばかみたいに大好きなままの自分でいよう。
俊之を好きになって、真理子はそんな自分のことも好きだと思えた。
いままで自信が持てず、ただ空に憧れていた真理子にとって、俊之はまるで悠々と虚空を舞う気高い鷲のようだった。群れずに風を切るそのさまは、同時にその苦悩と孤独までも思わせる。
彼に見合う女性になりたい。強くなりたい。
真理子はそう心に誓った。
紅だった。
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