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湖月の君 かはたれ①


拝啓 小和田俊之様

空気がひんやりとし、ますます月の映える基節となりました。
いかがお過ごしですか?

私は秋頃から気持ちが鬱々と下がり気味でしたが、
このところは再び新しい作品の制作にとりかかっています。
今は大きなキャンバスに描いています。
今回は裸婦像です。
モデルの女性がとても感じの良い方で、描きながら優しい温かい気持ちになっています。

真昼の白い月を見つけては、夜空に浮かぶ月を眺めては、俊之さんのことを想います。具合はどうかしら。どんなお気持ちでいらっしゃるのかしらと。
あなたの元にも季節の風は届いていますか?小鳥の囀りや木の葉の舞う様が、あなたを癒してくれているでしょうか。
あなたが少しでも明るい気持ちで、安らかな気持ちで過ごされますように、ここからずっと、お祈りしています。

ご自愛くださいませ。

12月13日 
小辻真理子



…………

万年筆を置いて丁寧に封をすると、真理子はふうっと息をついた。
久しぶりに想いをしたためた手紙を胸にあてると、その指先まで熱を帯びるのを感じた。

誰にも言わず胸に秘めた恋だった。
俊之69歳、真理子33歳。歳の差が大きくて、また人柄の深い俊之に対して自分などがと恐縮する気持ちもあって、とても想いを言葉にできないでいた。

初めて彼と出逢った日のこと。
彼が口にした言葉。
その時の自分の気持ちを真理子はずっと覚えている。

一度も触れたことがない。
二人でお茶したこともない。

短い手紙に添えられた美しい枕詞と、そこから滲み出ている彼の心の機微に触れるのが好きだった。
事務的なはずの電話が少し長引くのも、とてもとても幸せだった。

女性に苦手意識があるらしい俊之には、たったひと言が尚更言えない。
「あなたをお慕いしています」
その言葉がとても出せない。

一緒に綺麗な景色を眺められたらいいな。
ほんの少しだけでも特別な存在になれたらいいな。
それすら叶いそうもないけれど、それが真理子のせめてもの願いだった。

二人は同じ絵画展に出展した際に出逢った。
展示された俊之の水墨画の前で、真理子はしばらく立ち止まった。
静かな絵だった。
水辺のすすきの上に雲のかかった月が描かれていた。
薄墨だけの水墨画なのに、月に色がかかっているように見えて、真理子は見入ってしまった。
「その絵素敵ですよね」画廊の係の女性が真理子に声をかけた。
「そうですね…すごく素敵で、動けなくなってしまいました」
真理子が答えると、女性は
「いま、この絵を描かれた方があちらにいらっしゃいますよ」
そう言って受付の近くにいる男性を呼びに行った。

長身のすらっとした男性が「どうも」と真理子の近くにやってきた。
にこやかではなくて、むしろ素っ気ないくらいだけれど、きちんとした佇まいの初老の紳士だった。

真理子が少し緊張しながらも
「あの、この絵とても素敵ですね。この絵に描かれた場所はどちらなのですか?」と尋ねると
「とくに何処という訳ではないです。私の心にある場所なので」
…その言葉も素敵だった。

「私も今回こちらに出展しているんですよ」真理子は自分の絵を指した。
油彩で風景画と黒髪の少年を描いた二枚の絵の前で
「まだまだなんですけど…」と真理子が笑うと、
じっと眺めて彼は「いいですね」と言った。
「自分にはない感性です。とくにこの少年の瞳はまっすぐで、たぶんこの通りの人物なんでしょう」
真理子ははっとした。その通りだったから。本当にこの少年はそんなふうで、真理子の心にずっといる永遠の少年なのだ。これからも消えることのない大切な像。そんな想いを、そっと掬いとってもらった気がした。

「ありがとうございます。本当にそうなんです。私にとっては想いの詰まった作品で。あの…これ…」真理子が名刺を渡すと、男性も懐から名刺を取り出した。

「あ、同じ教室ですね」
「…ほんとですね」
「気がつきませんでした」
「今度会ったら気がつくと思います」

「それじゃ」
男性は会釈をして、受付にも一声かけて画廊を出ていった。

名刺を交換した時の、細く長い指先が真理子の心に残った。

小和田俊之さん…。


こんな出逢いだった。

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森宮雨
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