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湖月の君 雨模様④

女性にあんなふうに泣かれて、なんともないわけがない。

言い訳のようにそう思いながら、俊之は体温計を脇から外した。37度4分。あの雨の日から一週間近く微熱が続いている。知恵熱だろうか。あのときのことがぐるぐると思い出されて心がかき乱され、そんな自分をどうしたものかと思い悩む。昔だったら、ここまでどうもこうも考えなかったけれど、自分は女性のことで振りまわされるのはもう嫌だと決めていたはずだった。
しかし気にしてもしょうがないと言い聞かせたところで、気になるのだからどうしようもない。
あらためて、感情の問題は、いちばん厄介で、いちばん大事かもしれないと思う。

あの日雨のなか、たちすくんで真理子は泣いた。声もなく静かに泣いた。
あれはつらくて流した涙ではなく、自分のまえで安心して、抱えてきたものをおろせた涙だった。泣き方で、抑え方で、震える肩で、息づかいで、たくさんのことを俊之は感じとった。
こんな自分に安心してくれたからこそ心のうちを見せてくれたのだと思うと、どうしても高揚するものがあった。
これまでの自分は、あの人を委縮させてきたのだから。

もう仕事もしていない俊之は、図書館通いと散歩と買い出しのほかには、平日はとくに予定がない。週末は土曜日か、たいていは日曜日に絵画教室に行っている。だけどそれも、今週末は休んでしまおうかと思っている。熱がひいても病みあがりだ、休もう。いや、本当は病みあがりだからじゃなくても、距離をおきたい。彼女から距離をおきたい。平常心をとりもどしたい。いつもの俺を返してくれ。


土曜日も日曜日も、俊之は本当に教室に行かなかった。描きかけの絵のことは気になったが、こんな状態で描けたものじゃないと思うから、割りきった。来週からまた行けばいい。

数日後、マンションの郵便受けに茶色い封筒が入っていた。差出人を見るなり、俊之の心臓は金属のような音をたてた。
「小辻真理子」
なんでまた。
封筒には厚みがある。
……こんどは自分になにが起こるんだろうか。

封筒の端をハサミで薄く切ると、中にはダイレクトメールの束が入っていた。今度のギャラリーの案内用に、簡単に作られたものだった。知人への招待用にわりふられたものだ。添えられた一筆箋にそのことが書かれてあった。
ごく事務的な内容の最後に、「昨夜はお月さまがとても綺麗でした。」とひとことあった。
丁寧に書かれた文字は、彼女の人柄を表していた。さわり心地の良い淡い水色の一筆箋には、背景にかもめのイラストが入っている。彼女のきめ細やかさが、こんなところにも感じられる。

やわらかいきもちになって俊之はダイレクトメールを封筒にしまった。一筆箋は見えるようにそのまま出しておいた。思ったより動揺していない自分に、ほっとしたような、がっかりもしたような気がして、自分は何を望んでいたんだろう、と気づかされた。

その日の夜は曇り空だった。
翌日、晴れて月が見えた。明日が満月だろうという感じだった。
満月を見てから手紙の返事を書こうと思った。
すぐに書くのもなんだし。手短に。事務的に。


そして満月の日が来ると、俊之はジャンパーを羽織ってベランダに出て、美しく檸檬色に透きとおる月をいつまでも見あげた。いい気分だった。

秋の終わりを告げる風が、かすかに俊之の白髪をなびかせていた。




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森宮雨
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