湖月の君 かはたれ④
俊之がスケッチブックを片付けていると、うしろから真理子が近づいてきた。
いつも女性にそうするように思わず身構えると、それが伝わったかのように真理子も縮こまった。
それでも声を振り絞って彼女は言った。
「あの…先日はありがとうございました。とても助かりました」
それだけ聞くと俊之は
「はい」
とだけ言って真理子に背を向けた。父親がどうだったかさえ聞かない。
繊細そうなこの人は傷ついたかもしれない。そう思いながら靴を履き玄関のドアを開けると、後ろから再び呼び止められた。
「小和田さん…っ」
初めて名前を呼ばれた。
「私…嬉しかったです。それが言いたくて…」
今までと違って物怖じせずにまっすぐに自分を見上げてきた彼女と目を合わせて、俊之は気恥ずかしくなってつい顔を横に向けた。
真理子もはっとして
「すいません。それが言いたかっただけなので」
とぺこりと頭を下げて部屋に戻っていった。
帰り道、俊之は動揺している自分に年甲斐もないと思いながらも、ぐるぐると思い出しては溜め息をついた。
良くても悪くても女性に振り回されるのが嫌だ。
感情が波立つのが嫌だ。
でも今自分は、嫌な気持ちではない。
ああ、これは良くないなぁ…。
彼女について考えてみた。
ああいう人のことを一般的に、おしとやかとか、慎ましやかだとか大和撫子とか言うのだろう。
今となってはかなり珍しいタイブかもしれない。
よく見ていないからはっきりわからないけれど、印象からすると色白で和顔の美しい感じだったと思う。
女性には気をつけてきたのに、久しぶりにこんなふうになった。
あれほどに若い女性を前にしては、自分のような年配ものがと惨めな気までしてきて、また勝手にそんなことを思ってしまう自分をまったく馬鹿げていると思った。
みっともない。
早めに止めよう。
ふれ幅が小さいうちに。
傷つかないうちに。
何ともないように振る舞おう。
電車に揺られながら、消してはよみがえる先ほどの場面に、俊之は目を閉じて幾度か深呼吸をした。
そして落ち着きかけた時、今度は彼女の声がよみがえった。
「小和田さん…」
ああ…まいったな。
自分を戒めつつも、やっぱり嫌な気がしない。高揚感を俊之は半分認めた。
今度はいつ教室に来るのだろうか。
あまり会わないようにしたほうが良さそうだ。
そしてふと真理子の描いた油絵の少年が思い出された瞬間、俊之はなんとも言えない気持ちに襲われた。
心がぐしゃっとした。
だから女性と関わるのが嫌だったんだ。
俊之は読みかけの本に向かった。