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湖月の君 かはたれ②


俊之の通っている絵画教室には、油彩画、水彩画、パステル画、デッサン画、水墨画…様々な形で絵を描く人達が揃っている。
この教室から名の高い画家も数人出ている。
教室は金曜日から日曜日に空いていて、それぞれ都合の良い時間帯にここに訪れる。広めのワンフロアの好きな場所を選んで座る。

俊之が教室に顔を出すと、先日画廊に出展した水墨画が戻ってきていた。展示会には俊之も何度か足を運んだから、もう作品が戻ってきたのか、と少し味気ないような気持ちになった。
その中の片隅に少年を描いた油絵が置かれていた。澄んだ瞳でまっすぐと射貫くような、それでいて優しい穏やかさを湛えた瞳。くせのある黒髪のその少年は水色のシャツを着ている。様々な緑色と土色で埋められたキャンバスには光が零れている。
「画廊でこの絵の作者に会ったな」すっかり薄れていた記憶を辿ると、俊之の中で若い女性がよみがえった。
最後まで聞き取れない感じの、怖々声を出しているような人だった。黒い髪の毛は腰のあたりまであった気がする。

この絵は特別なんだと言っていた。
彼女の年頃からすると、昔の友だちだろうか。歳の離れた弟とかだろうか。

立ち止まっていた自分にはっとすると、俊之はいつもよく座る席に行って荷物を下ろした。
眺めのいい窓辺の席が空いていればそこに座る。今日もここが空いていてよかったとほっとした。

俊之は水墨画や鉛筆画を好んで描く。色彩のついた絵は自分には向かないと思っている。スケッチブックと鉛筆を取り出すと、一本の﨔の木を主人公に窓の外の街並みをスケッチした。

一時間くらい集中しただろうか。
疲れた腰を椅子からあげると、斜め後ろに若い女性が立っていた。
何か言いたげなその人を自分は見たことがある。誰だったか…。
すると彼女は勇気を振り絞るような声の出し方で、
「その絵も素敵ですね」と言った。
消え入りそうな声を聞いてわかった。今さっき思い出していたばかりの油絵の人だ。
「はぁ。どうも」
それしか答えずにまた腰かけた。彼女は数秒そこに居たあとで、どこかに行った。自分は素っ気ない。女性は苦手だ。ある時から苦手になった。世代問わず立場問わず、できる限り女性とは距離をとるようにしている。女性と関わるのはどうしても面倒くさい。

一段落すると俊之は帰り支度を始めた。スケッチブックを棚に戻そうとしたら、片隅にさっきの女性がいた。
こんな目立たない場所で描いていたのか。どおりで今まで気がつかなかったわけだ。
離れた場所からちらと彼女を見ると、長い髪を後ろに一つに纏めて描いていた。
20代後半くらいだろうか。
細そうに見えるが、捲った袖から伸びた腕は女性らしい柔らかみを帯びている。
自分とは縁のない世代の人。そう思いながら俊之は元の場所に戻った。

薄い上着を羽織って鞄を持ち玄関に向かうと、部屋の向こう側がざわめいていた。
さっきの女性が携帯電話を両手に包んで立ちすくんでいる。携帯電話を持つ手も身体もがたがた震えていた。
部屋からは「タクシー呼びなよ」「104で番号わかるよ」そんな声があがっている。
「何かあったんですか」
俊之が思わず尋ねると
「あー、お父さまが救急車で運ばれたんですって」
近くにいた婦人が答えた。
それでタクシーか。
でもいま彼女は、どう見ても自分でタクシーを呼べる状態ではなさそうだ。
そう判断した俊之は咄嗟に教室の電話の受話器をとった。タクシー会社の番号を調べそこにかけると、「8分くらいで到着します。お名前は?」と言われた。
彼女の名前……そんなの知らない。「小和田です」とりあえず自分の名を名乗った。
受話器を置いて「8分くらいで来ますよ」と振り向くと、俊之はどきりとした。
その女性がぽろぽろと大粒の涙を溢して泣いている。
ひっくひっくと声まであげて。
ああ、この人にはよっぽど大切な父親なんだ。不安で堪えきれなかったんだろう。
「大丈夫ですよ」
玄関に向かいながら泣きじゃくる女性の肩に手を添えかけたところで、さっと手を引いた。
「無事だといいですね」
「もうすぐ来ますから」
そんなことを言いながら、俊之はタクシーが来るまで玄関の外で彼女の傍にいた。
ひたすら泣いているこの人は、今は何を言っても頭に入らないであろう状態だ。
じきにタクシーが到着すると、あたふたするその人に
「大丈夫ですから、ゆっくり乗ってください。小和田の名前で呼んであります」
そう声をかけた。
ドアが閉まりかける時、女性が窓越しにまっすぐ俊之を見上げた。
声もでないまま涙目で何度も頭を下げていた。

彼女を乗せてタクシーは去って行った。


「あ・り・が・と・う」
声にならない声が、俊之にはよくわかった。

タクシーが去ってもしばらくそこにいた。
殆ど知らない女性の、突然の涙にうろたえたこと。
けれど嫌な動揺ではなかったこと。
自分よりか弱い健気な存在を守らなくてはという気持ちに駆られたことを、俊之は自覚した。
そしてその役に立てた満足感が、自分でも心地よかった。

それは後々までも印象的な出来事だった。
お互いにとって。

帰りの電車の中で、俊之は先日受け取った山桜色の名刺を取り出した。

小辻真理子。

ああ、あの人らしい名前だ。

そう思いながら電車に揺られているうちに、俊之はうとうとしていった。

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森宮雨
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