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湖月の君 赤②


「小和田さん。今度5人でギャラリーの下見に行きましょうって、時任さんから声がかかってるんですけど」

荷物を置くなり野上に話しかけられ、俊之は
「ああ、はい」
と答えた。
「日程調整したいんですけど、5人ともここに来るのは日曜日が多いみたいだから、日曜日の夕方にしようかと思うんですが」
「いいと思います。私は日曜日なら大抵ここに来ますから」
「よかった。じゃああとは、小辻さんが来たら聞いてみますね」
野上が場所を離れていくと、俊之は複雑な溜め息をついた。

また彼女と接点ができるのか。
今度は外出か。

厄介だと思ってしまうのは、彼女がではなく、自分がバランスを崩すからだ。
メンバーの顔ぶれを思うと、自分は付き合いも長い時任夫妻と話していれば良い気がする。年代的にもそうなりやすいだろう。
あとは野上に話しかけられても別に問題ない。
だけど……。
そうなると、彼女は自然と野上と話すようになるのだろうか。

そう考えたら、俊之はぐしゃっとするものを感じた。

野上と真理子が話しているのを、何度か見かけたことがある。
20代後半に見える真理子に対して、野上は40半ばくらいだろうか。
とりわけ親しくはなさそうだし、彼女はもっと男を選べるだろう。
しかし野上が真理子を良く思っていることは傍目にもよくわかる。
いや、きっと野上だけではないはずだ。
真理子はいかにも女性らしく、また美しく、好意を寄せる男は多いに違いない。
そう思うのは、自分もやはり男だからだと、俊之は思った。

結婚しててもおかしくないが、彼女の指に指輪は見たことがない。しかし交際相手くらいいるのではないか。
少し心に触れたくらいで、自分は真理子のなんにも知らないのだとあらためて思った。

俊之にとっては、女性のことであれこれ思うのも珍しく久しぶりのことだから、このところの自分には、よけいに戸惑ってしまうのだった。
しかしそんな様子は少しも見せず、俊之はいつも通り黙々と鉛筆を滑らせていった。

「あの~、小和田さん。さっきの件ですけど、小辻ちゃんに聞いたらいつでもいいって言うんで」
野上が来て、今度は真理子のことを「小辻ちゃん」と言った。
小辻ちゃん。
いつからそうなったんだ。

「なんで、今日終わったら、このあと行っちゃいませんか?」
野上はにこにこ笑っている。
「今日ですか。かまいませんけど」
「じゃあ僕車出しますよ。小辻ちゃんと乗ってください。時任夫妻は二人で行くみたいだから」
断ろうと思ったが、ばらばらで行くよりはまとまっていった方がいいだろうと思い直して、
「じゃあ、お言葉に甘えて」
と答えた。

5時前になると、時任夫妻が「お先に向かってるわね」と言って教室を出た。
「僕らも行きましょうか」
野上が言い、真理子も荷物をまとめる。玄関を出るとき、真理子が傘を手にしたのを俊之は見ていた。
たしかに雨が降ってもおかしくないなと、空を見て思った。

駐車場にとめてある野上の車は紺に近い青だった。
俊之が運転席の後ろに座ると、野上が中から助手席のドアを開けて、
「小辻ちゃん、ここどうぞ」と言った。
真理子は最初戸惑った様子だったが、少し考えてからそこに乗った。
車の中では野上が楽しそうに喋っていたが、俊之には異常に居心地が悪かった。

ギャラリーでは、今催されている展示物を見ながら、だいたいのつくりを見た。一通り見ると、八重子が言った。
「ねえ、このあとお茶でもしましょうよ。打ち合わせもできるし、ね?」
「いいですね!」
野上が身を乗りだす。八重子の隣で夫の隆夫も頷いている。
真理子も笑顔で同意した。断ってもよかったが、なんとなくの流れで俊之も行くことにした。

「ここ、よく来るお店なの」
店に入るなり、八重子が言った。
外から見ても内装も、落ちついた雰囲気の喫茶店だった。個人の店らしい。テーブルの木目も美しく、椅子もクッションがよくきいていて座り心地がいい。ところどころにドライフラワーや観葉植物が飾られている。
「素敵なお店ですね。私こういうお店すごく好きです」
頬を紅潮させて、真理子が言った。
「気に入ってもらえてよかったわ。もともとは友人に教えてもらったんだけど、今では私のほうが常連なの」
白と黒の細い毛糸で交互に編まれた、ラメの入ったストールを直しながら、満足そうに八重子が微笑んだ。
すると野上が、
「へえ、小辻ちゃん、こういう店が好きなんだ」
と言った。
俊之が思っていたことを、野上はいとも簡単に口にした。
「あら野上くん、ちゃっかりチェックしてるな。まあ、小辻さん美人だもんね。そのうえ今どき珍しいしおらしさ」
八重子が言うと、隣の隆夫が目を丸くした。
「え、だけど小辻さんはまだまだ若いし、そこに野上くんはなぁ。野上くん、何歳になったんだ」
「僕は47ですけど……やっぱだめですかねぇ」
そう言って野上はちらと真理子の方を見た。
「小辻ちゃんはどうなの?」
とりもつように八重子が言った。真理子は困っているようで、赤くなって下を向いている。
「私……は」
そして顔をあげてこう言った。
「好きな人が、いるんです。あっでも、ぜんぜん、片想いなんですけど」
みんな一瞬驚いて、それから野上が頭を掻きながら笑って言った。
「そうかぁ、そうだよね~。残念!」
そのあとは、俊之も心ここにあらずな状態で珈琲を飲んだ。

「それで、小和田さんは、どうなの?」
突然、八重子が俊之に話をふってきた。
「なにがですか?」
「だから、いまいい人いるのかってこと」
「いや、私はそういうのは、まったくだめなんで」
「なんでよ、勿体ない。理想が高いの?」
「違いますよ」
これ以上はこの話を続けないという俊之の雰囲気に、なんとなくみんな別の話題に移っていった。

会計を済ませて店のドアを開けると、雨が降っていた。
「けっこう降ってますね」
そう言いながら野上は真理子の方を見て、送ります、と言った。
真理子は持っていた傘を見せて、
「だいじょうぶです。傘もあります」
と笑って断った。
野上は侘しそうに車に乗り、時任夫妻も帰り、俊之と真理子はふたりで駅に向かうことになった。

傘にかくれて半分見える真理子の頬は、傘のせいか紅く見えた。
俊之は紺色の折りたたみ傘を静かに広げると、赤い傘をかばうようにして車道側を歩いた。


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森宮雨
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