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湖月の君 もう少し②

展示会二日目。
ギャラリーの受付は真理子の予定になっている。
俊之と真理子が土曜日に顔を合わせるのは初めてのことだ。

今日は友人が来るのだからと、言い訳がましいことを自分に言い聞かせながら、俊之は会場に入った。
真理子は受付でふたりの女性と話していた。知り合いだろうか。俊之が聞いたことのない、親しそうな話し方だ。
真理子と歳が近く見える女性は、ころころとよく笑っている。もうひとりは、その母親かもしれない。

二人が部屋の奥に進んでいくと、真理子は俊之に気がついて
「小和田さん、こんにちは」
と右手を小さくあげて、その場所から声をかけた。

以前は近くにいても聞きとれないような声だった真理子が、今では離れた場所からでも俊之を呼ぶ。
誰かが自分の名前を呼ぶことは、こんなに心地いいものだっただろうか。

「お疲れさまです」
俊之は短く挨拶をして、できるだけ近くにいないで済むように自分も絵を見に行った。

けれどそれにも限界があった。
ふたり連れの女性が帰ってしまった。
絵もいい加減長い時間見ている。
これ以上ふらふらするのも不自然だなと俊之が思っていたら、真理子が椅子を運んできて、
「小和田さん、よかったらどうぞ」
と遠慮がちに言った。

真理子の椅子とその椅子は、ある程度の距離をとって置かれていた。
その距離が複雑な気もしたけれど、それ以上にありがたく、
「どうも」
と言って素直に腰かけた。
座ると少し何かが緩んだ。

「あの、小和田さん。うかがってもいいですか」
迷いを見せながらも真理子が言った。
「なんですか」
「答えにくかったらいいですから、無理はしないでくださいね」
「はい、なんでしょう」
俊之には、言われる前から何の話かわかる気がした。
「小和田さんのあの絵のことなんですけど」
やっぱり、と心でつぶやく。
「心の中の場所っていうのは……もうちょっと言うと、どんな感じですか」
「その話だったら、別に差し支えないですよ」
俊之はそう言ったが、実際はそんな話は誰にもしたことがない。
しかし沈黙よりはましだったし、真理子には話したい気さえした。

「実際にこの目で見たことはありません。だから、何処にある場所なのか、何処にもないのか、私にもわかりません」
真理子は黙って聴いている。
「ただ、なぜかずっと、しみついている、記憶みたいなやつです」
そこまで言うと俊之は言葉をとめて、真理子を見た。
この人には言って大丈夫なんだろうか。
奇妙に思われはしないか。
そして真理子の表情を確認した俊之は、言葉を続けた。
「それが今のこの自分のものなのか、それとももっと深いものなのか……」
慎重に言葉を選びながら話す俊之に、それまでじっと聴いていた真理子が訊ねた。
「小和田さんは、どう思っているのですか」
大事な質問だった。けれど俊之は顔をそむけて
「さあ」
と流した。

ほんとうははっきり答えがあった。それが正しいか正しくないかはわからない。しかし、漠然と「そういう気がする」それ以上のものがあるだろうか。
俊之には、生まれる前から魂に刻まれている記憶だという気がしてならなかった。

俊之がまともに答えなかったにも関わらず、真理子は嬉しそうに微笑んで言った。
「不思議ですね。偶然は必然で、これは奇跡ですよね。私は、嬉しかったです。もう一度あの景色を見たかったし、分かち合える人がいて」
そして、
「ありがとうございます」
と言って深々と頭を下げた。

笑いもせず、「ありがとう」とまで言ってくれた真理子に、俊之こそお礼が言いたかった。
この人とは深い縁でもあるのかもしれないと、俊之は思うのだった。




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森宮雨
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