湖月の君 もう少し③
土日は盛況で、訪れた人たちも笑顔を見せていた。
あたたかい交流の場になった。
最終日、片付けが終わりかけたころ、八重子が弾む声で言った。
「慰労会しましょうよ」
皆そうなるものだと思っていたかのように、話はすぐに決まった。
少しでも長く俊之と一緒にいたかったから、真理子はとても嬉しかった。
この前と同じ喫茶店に入ったが、夜だったせいか雰囲気が違った。
薄暗く落とされた照明と、ステンドグラスのランプにも、今は明かりが灯っている。
「夜はお酒も飲めるのよ」
メニューを開く皆に八重子が言った。
「そうなんですね。車じゃなかったら飲みたい気分です」
野上がそう言って、
「小辻ちゃんと小和田さんはお酒は飲む人ですか」
と訊いた。
「私は飲みません」
俊之が答えたあとで、真理子も返事をした。
「私も、弱すぎるので控えています」
それを聞いた八重子は、
「あら、じゃあ私も今日はやめておくわね」
と言った。
食事と飲み物を注文すると、真理子はめずらしく自分から話をふった。
「時任さん、絵のエピソードとかがあったら、うかがってもいいですか」
「もちろんよ」
八重子はグラスの水をひと口飲むと、懐かしそうに話し始めた。
「主人は長野の人でね。私は静岡だったの。学生時代に知り合ったのよ。それまで長野には縁がなかったんだけど、穂高とか安曇野とかの話をさんざん聴いているうちに、私も行ってみたくなってね。白馬の実家までおしかけたの。私がおりるように言われたのは、『神城』という駅だったの。『神城』って聞いたとき、最初城跡か何かがあるのかと思った。でも、木々をかきわけて電車で通り抜けていくうちにね、ああ、神の城って、きっとこの山のことなんだって思って胸がふるえたの」
そこまで話すと八重子は隣の隆夫を見た。
阿吽の呼吸で隆夫が話し始める。
「その昔は、人は山にはあまり足を踏み入れなかったそうだよ。山は神々のすみかだと。ずっと山や自然に囲まれた生活が好きだったから、いまこうして東京にいても、やっぱりあの自然を描き続けてしまう」
「素敵……」
心の声が漏れたように真理子が呟くと、野上が続けて言った。
「じゃあ、奥さんの思ったとおり、神の城っていうのは本当にその山々のことだったんですね」
その言葉に夫妻は顔を見合わせて微笑みを交わした。
憧れのご夫婦だなと、真理子は思った。
「そういえば、小和田さんも長野のご出身なんですよね」
真理子の言葉に、皆が俊之の方を見る。
「長野のどちらですか」
隆夫の質問に、
「新潟との県境です。飯山線の、かなり雪深いところです」
俊之はそれだけ答えた。
「女の子の絵も、とても素敵でした。私、あの『窓』の絵がとくに気に入って」
真理子が八重子に向かって言うと、
「私はね、自分のなかの永遠の少女を描いているの。女はみんな少女なのよ。いくつになっても」
八重子はそう言った。そして笑ってつけ加えた。
「男の人だって、いつまでも少年よね」
すると思いかけず、俊之が言葉を発した。
「生まれたときから、男は男です」
その言葉に真理子は心を奪われた。身体も熱を帯びてゆく。
意外だった。でもやっぱり、あたりまえのことなんだ、そう思った。
中性的で、普段男を前に出さない俊之だったからこそ、よけいに重みが感じられた。
「そういえば、小辻さんは今日は雰囲気がちがうわね。口紅がちがうのかな」
突然話をふられて、真理子は少し緊張した。
「実は、昨日買ったばかりです」
「うん。いつもは薄いピンクだったわよね。うんうん、それもさくらんぼみたいでかわいい」
八重子にそう言われて、真理子はうれしくなって語ってしまった。
「この口紅、つける人や体温とかで、色が変化するそうなんです。
それを聞いたら、つけてみたくなっちゃって。私はどんな色になるんだろうって」
「小辻さんは、やっぱり色に関心があるんだね」
隆夫がそう言うと、野上が身を乗りだして、
「小辻ちゃん、今日はネイルもしてるんだね。なんかいいね」
と言った。
桜貝のように丁寧に施してもらった指先を、真理子は恥ずかしくてそっとおりたたむ。
みんなとおなじように、俊之も自分を見ていたのを、真理子は感じていた。
自分の指先もくちびるも、俊之が見ていたと思うだけで、とても特別なもののように感じられるのだった。
この時間が少しでも長く続きますようにと、両手でミルクティーを包みながら、真理子はずっと祈っていた。