湖月の君 赤①
俊之のまえで涙を流してから、真理子は心も身体もすうっと軽くなった気がして、職場の人からも、「笑顔が増えたね」「声に張りが出たね」と言われるようになった。
自分でもそう思う。
雨をもっともっと好きになった。
けれど『秋の長雨』なんていう季節はとうに過ぎていて、もう冬の匂いがし始めている。
教室に向かう途中、真理子は皇帝ダリアの淡いピンク色が、初冬の青空にやわらかく溶けこんでいるのを下からのぞいて、なんて素晴らしい組み合わせだろうと立ちどまっていた。
やさしいふたつの色は、お互いがお互いを尊重して、ひきたてあっている。
じっと眺めているうちに、この皇帝ダリアが、まるで自分に差しだされた傘のように思えてきて、真理子はまた、俊之の優しさを思い出す。
あたらしい傘を買おうかな。いまのもだいぶ古くなってるし。
真理子は弾むきもちでそんなことを思い始めた。
真理子にとって傘はとても特別なものだ。色柄はもちろん、持ち手の感触、柄の太さ、先端が尖っていないこと、傘の大きさ、丸み……。
いつも実際に傘をさしてなかに入ってみて決める。
傘のなかで、真理子は安心して空想にふけったり、空を眺めたり、雨の音を聴いたりする。
桜模様の傘だったときは、桜の木の下で雨宿りしている気分になれたし、
透明な傘に模様が入っていれば、夜の街灯の下で影に素敵な色模様が映し出される。
傘は真理子の大事な、プライベートな空間なのだ。
どんな傘がいいかなんて考えていたらあっという間に教室の玄関の前についてしまった。
急に心配なきもちになる。
先週の日曜日、小和田さんはいらっしゃらなかった。
土曜日を選ぶこともあるのかな。それとも体調を崩されたのかしら。
逢いたい気もちが大きければ大きいほど、叶わなかったときにひどくがっかりしてしまう。こんなことで、と思っても、そのときこの胸はほんとうに、ぎゅうっと苦しくて熱くて痛い。俊之を好きになって真理子は、自分があまりにも単純で、もろくて、傷つきやすいことを知った。
今日は会えるだろうかと思いながら、勇気を出してえいっ、とドアを開けると、当の本人が廊下の向こう側に歩いていく後ろ姿が、目に飛びこんできた。
「こんにちは」
今までよりも自然と声が高く弾んで出た。けれど聞こえなかったのか、俊之は振り返らなかった。
「小和田さん!」
えっ、というふうにふりかえった俊之に、真理子は、
「こんにちは」と笑顔いっぱいで挨拶をした。
しかし俊之は、短く「どうも」と一瞥したきり、そのまま画材置き場に行ってしまった。
真理子はすーっと身体が冷えていくのを味わった。少しの間動きを忘れ、それからトイレに入った。
座ってふうっと息を吐くと、一気に涙がぽろぽろこぼれてきた。
なんて温度差が大きいんだろう。
なんて遠い人なんだろう。
私はこんなに小和田さんが好きで、でも彼は少しもそうじゃなくって。
少しでも近づけたきもちになって浮かれていたさっきまでの自分が、ばかみたいで、恥ずかしくて、悔しくて、みじめだった。真理子はハンカチで嗚咽をこらえながら、しぼり出すように泣いた。
落ち着きをとりもどすと、涙を拭いていつもの席をとった。画材置き場と行き来する途中でいつもこっそり見つめてきたけれど、今日はとてもそんな気になれなかった。
「どうしたの~、小辻さん。めずらしくため息がたくさん出るのね」
斜め後ろの席から女性の声がした。時任八重子だった。
知らないうちにため息をついていたのだろうか。言われるまで全然気がつかなかった。
「なにか悩み事?それとも、恋煩いかな」
八重子は椅子を動かして、真理子の絵を眺めた。
「うん。いい絵になりそうね。相変わらず、色使いが素敵」
深く追求する雰囲気のない彼女に、真理子は思いきって言ってみた。
「あの、私……なんだか小和田さんに嫌われてるような気がするんです。なにか失礼なことしちゃったかしらって、思い返したりするんですけど、自分ではわからなくて……」
そこまで言いかけると、八重子は、ああ、と笑って大きく頷いた。
「あの方ねぇ、前からあんなふうなの。とくに女性に、かな。小和田さんと関わった女性は、あなたみたいに感じる人多いみたい」
「え……そうなんですか」
「私だって、なにかしちゃったかしらって、最初は思ったのよ。で、やっぱり言われたの。そういう人だから気にしないようにって」
「時任さんでもそうだったんですか……。じゃあ私、なにか悪かったわけじゃないのかな」
「そうよ~、だいじょうぶよ。ね、それにしてもさ……」
そう言うと八重子は辺りを見回してから、小声で言った。
「勿体ないわよね。せっかくあんなに素敵なんだから、もう少し優しければ言うことないのに」
やっぱり小和田さんって、ほかの女性から見ても素敵なんだ。
小和田さんは、ほんとはすごく優しいんです。
真理子はふたつの思いを飲み込んだ。
「ああ、でもきっと女性には困ってないわよね。寄ってくる女性がたくさんいて困ってるかもしれないけれどね」
「時任さん。小和田さんって……ご結婚はされてるんですか?」
「ん~。はっきりはわからないけれど、してないって聞いてるわ。してたことも、ないんじゃないかしら。でもきっと……つらい思いをされたのかもしれないわね。あそこまで女性にシャッターおろしてる感じは」
「そうかも、しれませんね」
そのとき、八重子が目を見開いて「しっ」と人差し指を唇に当てた。
俊之が廊下を通りすぎてゆく。キッチンの方へ。お茶だろうか。
その日真理子は、ときめいていた二週間が夢だったかのように、沈んだ気持ちで帰路についた。ただ、トイレで泣けたし、八重子の話を聞いて気が楽になった部分も、腑に落ちたものもあったから、幾分はましだった。
思わぬことが降ってきたのは、その翌日のことだった。
「ただいま」
仕事から帰ると、テーブルの上に真理子宛ての手紙が置かれてあった。
「わあ。手紙なんて、珍しい」
裏を見てさらにおどろいた。差出人は俊之だった。
静かに動揺していると、台所の向こうで母親が言った。
「真理子、それ、男の人からね」
「あ、うん」
心配顔の母に、気づかれないように話す。
「絵画教室の人だから。ずいぶん年上の。60は過ぎていらっしゃるかな。こんど町のギャラリーに出すメンバーでやりとりしているの」
「そう」
穏やかに笑うと母親は、お茶を出した。
真理子は手紙の内容が気になって気もそぞろだったけれど、なるべくゆっくりお茶を飲んでから、自分の部屋で封を開けた。
白い長方形の封筒は、冷たくは感じない。
でも開ける前からわかる封筒の薄さは、手短に書かれているものだということを物語っていて、過剰な期待を抑えてくれた。
それでも便箋を開く両手がふるえて、もつれた。
…………
小辻真理子様
銀杏の葉が散り始め、冬の気配が漂ってきましたね。
先日はギャラリーの案内状を送っていただきありがとうございました。
そのうち友人に送ってみます。
手紙を拝見して、私も月を見ました。
ちょうど南の夜空に満月が浮かんでいて綺麗でした。
展示会はクリスマスの時期ですから、木々が輝きますね。
ゆっくりいきましょう。
小和田俊之
…………
ああ!
なんて素敵なんだろう。
すごくうれしい。
真理子は思わず手紙を胸にあてた。
俊之と二人で、一緒に美しい月を眺めたようなきもちになった。