湖月の君 雨模様③
「小辻さん、ちょっといいかな」キャンバスに向かう真理子は、後ろから声をかけられふりむいた。短髪で丸い眼鏡の中年くらいの男性が立っていた。「はい」「あのね、これ今度のギャラリーのメンバーの連絡先。僕たちでやりとりしながらやってくから」「はい。うかがってます。よろしくおねがいします」真理子が姿勢を正して両手でメモを受けとると、彼は声を小さくして背をかがめていった。「僕と小辻さんは簡単に連絡つくと思うけど、もしかしたらほかはスムーズじゃないかも。時任さんちは携帯はあるけどメールはやらないし、小和田さんなんかは携帯も持ってないんだって」
初めて聞いた俊之の情報に、そうだったんだと思っていたら、「あ、僕は野上です」と名乗られ、この人が野上さんだと真理子は初めて知った。照れ笑いをした顔を見て、人がよさそうな人だなと思った。「小辻です。あらためましてよろしくお願いします」野上は、いやいやと笑って「僕は若くもないけど、このメンバーでは僕と小辻さんは若手なんで、よろしくね。なんでも気軽に話しかけてね」と言って奥の部屋に行った。むこうからは、こんどは時任夫妻と話している声がした。
手のひらのメモを真理子はそっと包むようにしてのぞいた。時任隆夫・八重子・小和田俊之・野上誠・小辻真理子。それぞれの住所と電話番号とFAX番号が記されていた。野上と真理子のところには、メールアドレスも書いてあった。真理子は何度も何度もその紙を見た。ああ、小和田さんの連絡先を知ってしまった。すごい進歩。こんな日が来るなんて……。これからは連絡をとりあうこともあるのかしらと思うと、鼓動が高鳴るのが自分でもはずかしいくらいに感じられた。ああ、絵に手がつかないかもと思った真理子はいったん席を離れ、お茶を淹れにキッチンにいった。その途中いつもの窓際の席にさっきまではいなかった俊之を見つけて、今日も会えたとまた嬉しくなった。すらっと背筋の伸びた細身の後ろ姿をこっそりみつめてお茶を少し口に含むと、さあわたしも描こうとカップをもって席に戻った。
「ふぅ」
キャンバスに色を重ねていた真理子は一息つくと、さっきまでうまっていた席がどこも空席になっていて、自分がしばらく夢中で描いていたのだと気がついた。時計を見ると4時半を指していた。そうだ教室は5時までだったんだと思って少しずつ片づけ始めた。
人が少なくなった教室には、野上と、向こうの席に俊之がいた。まだいらっしゃる、と思ってときめいた。
帰り支度をしながらカーディガンを羽織っていると、「雨が降ってきましたね」という彼らの話し声が聞こえた。
雨。
雨の好きな真理子は、思わず窓辺に寄って、通りをゆく人たちの様子や、地面や木々の色を眺めた。傘はさしていない人もいる。足もともだいじょうぶ。緑もまだそんなに濃くはない。道の向こう側を見ると、斜向かいの花屋の前で雫模様の傘をひろげた店員さんが、黒猫にその傘を傾けていた。おもわずほっこりあたたかなきもちになって真理子が微笑むと、「どしたの?」と野上がそばに来た。「黒猫ちゃんが」と言って指されたほうを見て野上も「ああ」と目尻をさげた。
「小辻さん。雨だけど、大丈夫?傘ある?」
「あ、傘は、ないです……けど、だいじょうぶ」
「ないんだね。いつも何で来てるの?車?」
「いえ……バス、か電車で」
「そっかぁ。じゃあ大丈夫じゃないね。送っていくよ。僕一応車あるから」
真理子は胸の前で思いっきり両手を振った。
「いえ。それは……」
「家までとかじゃなくて、バス停までとかでも、濡れないで済めばと思ったんだけど」
真理子はさっと顔をあげると、「おきもちだけで」と断った。
「そっか。じゃ、僕帰りますね」
突然教室に二人だけになると、真理子は緊張して、しすぎて、息も苦しいような気がしてバッグを持った。「私も、帰りますけど……小和田さんは」細々した声に、「私ももう出ますよ」と俊之は答えた。いつものようにひょうひょうとしていた。最後に教室を出る人は母屋にいるオーナーの家族に一声かけることになっているので、俊之がインターホン越しに挨拶をした。その隣で真理子も頭を下げた。
雨はぽつりぽつり。あたるかあたらないかくらいになっていた。教室は駅からそんなに遠くない。小和田さんは何で帰られるのだろう、と真理子が思っていると、「私は電車ですが」と俊之が言った。「私も……電車かバスです」「そうですか。どちらにしても駅なんですね」「はい」
すると小走りについて行っていた真理子の歩調に、こんどは俊之が合わせているのがわかった。幸せをかみしめながらも、こんな機会はなかなかないと思うと、真理子はいつもより大胆な気もちになって、いろいろ話し始めた。
話し始めてみると、いつもの話しかけづらさが嘘のように感じられた。話を聴いてもらううちに、不愛想なようでありながら、しかしこの人は聴き上手なのだと、真理子は知った。
話に夢中になった真理子は、たまに頬に雫があたっても気にならなかった。でもなにやら俊之が雨をやけに気にしているらしい。空返事で気がついた。どうも真理子をかばうようなふうをとっている。雨はだいじょうぶだからもっとお話したいんだけどな、と思って真理子は訊いてみた。
「私は雨が気持ちいいんですけど、小和田さんは、雨が気になりますか?すごく、気にされているみたいだから……」
俊之ははっとした顔をして、「ああ」と肩を下げた。
「小辻さんは、気もちよかったんですね。……濡らしちゃいけないと、私が勝手に思っちゃってました」
それを聞いた途端、真理子の目に涙がにじんだ。
うれしかった。
雨はすきだけれど、打たれてつらいときもある。雨の中で流してきた涙が、報われた気がした。そしてこれから先も、自分の未来には、もうずっと俊之の想いの傘がかかって守ってくれるような気がして、怖いものがなくなった気がして、ほっとして、立ちどまったまま、ただ泣いた。
そんな真理子の傍らで、俊之は静かに寄り添った。