消せないギフト
目を覚ますと、ベッドの上には俺1人だった。
カラーボックスのいちばん上に、寝巻きとして貸したスウェットが綺麗にたたんで置いてある。昨夜泊まった恋人は、どうやら出かけたようだ。
サイドテーブルには、メッセージの書かれた一筆箋が残されていた。
『おはよう。
一足先に目が覚めたので、出かけます。
友達と買い物に行くつもりです。
今日は、そちらも予定があるんだよね。
気をつけて行ってらっしゃい。
今日は、このまま家に帰るね。
泊めてくれてありがとう。
P.S. 私の歯ブラシ、毛先が開いてきちゃったから、ハナコ用に使っていいよ』
米は、2合炊けば間に合うな。
そんなことを思って、俺はベッドから起き上がった。
ベッドルームを出てリビングへ行く。
ベランダの方から、がっしゃがっしゃと騒がしい音が聞こえてくる。
ミドリカメのハナコが暴れる音だ。ここ数日暖かい日が続いたから、とうとう冬眠から覚めたらしい。
カーテンを開け放つ。春の日差しに包まれたベランダでは、ハナコが、水槽代わりのトロ船の中で、盛大に水をはね散らかしている。
がっしゃがっしゃ、がっしゃがっしゃ。
ため息をひとつつく。
とうとうこの季節が来てしまったか。
甲羅の長さが30cmにもなる大きなカメの世話をするのは、殊の外面倒な作業である。とにかく汚して、汚して、汚しまくるカメの水槽を清潔に保つには、とにかく毎日、水換えをしなければならない。これが大変な重労働だ。
カメが冬眠に入る冬の間だけ、飼育者はこの重労働から解放される。代謝が極端に落ち、排泄も少なくなるので、2週間に1度くらいの掃除で済むようになるからだ。
その、束の間の安息の季節が、今終わったことを、ハナコは全身全霊で俺に伝えていた。今日からまた、水換えに追われる日々がはじまる。
やれやれ、と俺は思った。
朝飯を食ったら、さっそくやるか。
午前中には片付けておきたかった。今日は、出かける場所があるのだ。
頭をがしがしとかき、歯をみがきに洗面所へと移動した。
コップに水をため、歯を磨く。
自分の歯を磨き終えると、俺は彼女の歯ブラシを手にとった。毛先は、まだもう少しは使えそうな気がしたが、まあよい。本人が言っているのだから、ハナコ用に使わせてもらうことにしよう。
洗面台の下の棚を開け、ビニール袋の中に歯ブラシを入れる。袋の中には、使用済みの歯ブラシが何本かストックされている。夏場、ハナコの甲羅には藻が生えるので、時々この歯ブラシを使ってこそげ落とすのだ。
さらに洗顔を終えると、台所に移動する。
トーストと目玉焼き。インスタントコーヒー。簡単な朝食を作る。
目玉焼きは、黄身が固まるまでしっかりと火を通す。昔は、半熟にして醤油をかけてぐちゃぐちゃにするのが好きだったのに、いつの間にか、完熟にソースが染み付いてしまった。
コーヒーは、春の眠気を吹き飛ばすくらいに濃い目のをブラックで。俺は、朝食を作る時間がなくてもコーヒーだけは飲んでいくというくらいのコーヒー派だが、たまに実家に帰ってコーヒーを飲んでいると親に不思議がられる。うちの人間はみんな紅茶派なのに、なぜお前だけコーヒーかと。確かに不思議と言えば不思議だ。俺だって実家にいた頃は、もっぱら紅茶を飲んでいたのだから。
ちなみに今の恋人は紅茶派で、彼女が来るようになってから、俺の部屋にはしばらくぶりに紅茶が復活をした。
トーストにはバター。マーガリンは使わない。これは実家にいた頃からの習慣だ。
付け合せにミニトマトを3つばかり目玉焼きと同じ皿に載せて、ダイニングテーブルに運ぶ。朝のテレビをぼーっと眺めながら、トーストをかじる。
その間も、ベランダからは、がっしゃがっしゃと音が聞こえる。
これは、餌くれのサインだな。
半分ほどかじったトーストを皿に置いて立ち上がる。サッシの脇に置いてある棚からカメの餌を取り出して、ベランダに出る。
俺の姿を見つけると、ハナコの動きはいっそう激しくなった。間違いない。
「待ちに待った餌だぞ」
そう言って、俺はカメの餌をトロ船に撒いてやった。なかばパニックを起こしたようにどたばたと、ハナコが餌に喰らいつく。
「でも今日はちょっとだけだ。また寒くなるかもしれないかんな」
たらふくの餌を腹に溜め込んだまま寒の戻りをむかえると、変温動物であるカメは体温が下がって消化ができなくなり、腹の中で未消化の餌が腐ってしまう。しっかり暖かくなるまでは、おやつ程度の量が丁度いい。
まあ、ハナコの奴はそんなことおかまいなしに、よこせよこせとねだるわけだが。
テーブルに戻って朝食の続きをする。
TVでは、飲酒運転のトラックが小学生を撥ねたとか、そんなニュースをやっていた。胸糞が悪いのでチャンネルを変える。
朝食を終え、食器を流しに置いたら、いよいよハナコのトロ船の掃除にとりかかる。
餌を食べ終えて物足りなそうにしているハナコをプラケースに移し、トロ船にDIYで取り付けたパイプの栓を開ける。俺の住んでいるアパートのベランダは各戸で独立しているので、汚れた水が隣まで流れてクレーム発生、ということにはならないから安心だ。
水を抜いたトロ船を、風呂場まで運んで洗う。スポンジを使ってごしごしとぬめりを落とす。洗い場の面積の3分の2くらいを占めるトロ船を洗うのはけっこう大変である。たいてい、跳ね返る水を避けきれずにびしょ濡れになってしまう。寝巻きのまま掃除をするのはそのためだ。これが終わってから、着替えて洗濯すればいい。
昔付き合っていたある女の子は、この「風呂場でカメの水槽を洗う」ということを嫌がった。彼女が部屋に来ている時、俺がハナコのトロ船を風呂場へ運んでいたら、信じられないという顔で彼女は言った。
「それ、カメの入ってるやつでしょ? お風呂場なんかで洗わないでよ、汚いじゃない」
終わったらもちろん風呂掃除をするが、と反論してみても、彼女は聞かなかった。
「だって、カメってサルモネラ菌……だっけ? 菌の温床なんでしょ? そんなの洗ったところでお風呂に入りたくなんかないよ」
それきり、彼女は俺の部屋には来なくなった。
まあ、無理があるのは彼女の衛生観念の方だろうとは思ったが、それにしても、「カメはね、“カメ”っていうジャンルなんだよ。他の爬虫類とは違ってフツーの人でも受け入れられるからね」と言っていた誰かのことを少し恨めしく思ったものだ。
トロ船を綺麗にしたら、それをベランダに戻して、今度はハナコを連れてくる。ここで、さっきの歯ブラシの出番である。ハナコの甲羅をごしごしこする。死に物狂いで抵抗するハナコだが、藻や水垢の下から現れる甲羅の模様は、なかなかどうして美しい。「なんてったってこのコの学名はエレガンスだからね」と自慢げに言う声が脳内に蘇る。
ハナコを磨き上げた俺は、一旦手を洗って、リビングからタブレット端末を持ってきた。丁度いいタイミングで冬眠から覚めてくれたから、今シーズン最初のハナコの写真を撮っておくのだ。
風呂場のドアの枠に前足をかけて首を伸ばしていたハナコを、上から1枚撮影しておく。タブレットをリビングに戻し、トロ船に帰す。
さて、ここからがいちばんの重労働となる。トロ船がいっぱいになるまで、風呂場から、バケツで水を運ぶのだ。
10リットルのバケツでだいたい5往復。この積み重ねは地味に腰に効いてくる。
ハナコをうちに連れてきたとき、俺は、「ホースで注いだら早いだろ」と安易に考えていた。しかし、最近のアパートには、ホースを繋げられるような蛇口は存在しない。その時住んでいたアパートの、見栄えは美しいシャワーヘッドのついた蛇口を呆然と眺めながら、あの日は途方に暮れた。
最後の水をトロ船に注ぎこむと、腰を伸ばして息を吐く。透き通った水の中を、ハナコが悠々と泳ぎ回る。水換えは重労働だが、終わった後のこの瞬間は、それほど、悪くはないと思っている。
汚れた風呂場を掃除して時計を見ると、10時を少し回るところだった。いい時間である。俺は出かける準備をはじめた。
服を着替え、バッグに財布やケータイを入れ、タブレット端末に入っている写真を確認して、これもバッグに入れる。これを忘れては出かける意味がなくなってしまう。
準備が整うと、ガスの元栓を確認し、部屋を出た。
目的地は、うちの最寄り駅から、5駅離れた場所にある。
ホームに到着すると、ちょうど、列車が駅に入ってくるところだった。降りる駅の階段の近くになる車両の停車位置まで移動し、列車に乗り込む。
平日、ラッシュアワーを過ぎた時間の下り電車は閑散としており、空席を確保するのは簡単だった。7人がけのシートのいちばんはしを確保し、車内に目を巡らせる。
気の早いもので、中吊りには、もう、初夏に目的地の街で行われる祭りの広告が吊るされていた。
実は、ハナコは、8年前、その祭りで買ったカメだ。
当時、俺には付き合っている女の子がいた。比良坂都、という名前だった。お互いに、大学に入って初めてできた恋人であり、それはそれは「人に言えないような付き合い」をしていたのだがそれはどうでもよい。
俺は彼女と一緒に、その祭りへ出かけた。あまり騒々しい場所は好きではないのだが、「どうしても」というミヤコの要望に負けたのだ。まだ夏というわけでもないのに浴衣を着せられて、慣れない下駄によろめきながら縁日を歩いた。
その途中、たまたま彼女の目に止まったのだ。
「カメすくい」の文字が。
「あれだ! あれをやろう」
彼女は、俺の手を引くどころか振りほどいて、屋台の方へかけていった。
また始まった、と俺はため息をついた。
付き合ってすぐにわかったことなのだが、ミヤコは爬虫類が好きだった。聞いた話では、自宅でトカゲを5匹、カメを3匹飼っているということだった。そんな彼女は、街で見かける爬虫類およびそれに関わるモノに、目がないのだった。
「ちょっ、待てよ」
後から追いかけ、遅れて屋台にたどり着くと、彼女の目はすでに、タライの中のミドリガメたちに釘付けにされていた。
「ほんとにやるの?」
と俺は訊いた。
「やるでしょ」
と彼女は答えた。
「今やるの?」
と俺は訊いた。
「今でしょ!」
と彼女は答えた。
まじかよ、と俺は思った。カメなんてすくってしまったら、もう縁日はおしまいではないか。
あとにしないか、と提案しようと思ったが、おそらく聞く耳を持たないだろうと思って諦めた。
「よーし。おじさん、ホイちょうだい!」
彼女が言った。
「あいよ。300円ね」
小銭と引き換えにホイを受け取り、彼女は浴衣の袖をたくし上げた。
「やるぞぉ」
そう言って、カメに狙いを定める。
「それ!」
しかし、ホイを思いの外もろく、おまけに彼女の狙ったカメは他のに比べて大きかった。彼女はあっけなくカメを採り逃し、ホイはあっけなく崩れ去った。
「うう。もう1回!」
彼女は、懲りずに300円を屋台の親父に渡した。「今度こそ!」
それでも、カメは捕まらない。
「そいつは難しいぞ、ねえちゃん」
親父が言った。
「……他のにしたら?」
俺も言った。
しかし彼女は聞かなかった。
「いや。私はあの子と恋に落ちたの」
「恋って」
「ははぁ、にいちゃん、ライバル出現だな」
親父が下らない冗談を言った。
その間にも、彼女は想い亀めがけてホイを伸ばす。
「ああっ、駄目だ〜」
4度目の挑戦に失敗し、がっくりと肩を落とした。
「諦めて、他のにしたら?」
俺はもう一度言ってみた。
「いや」
と彼女は言った。「ぜったいあの子」
他のと何が違うのか俺にはぜんぜんわからないが、彼女には違いがわかるらしい(柄が違うのだそうだ)。彼女はそれでも、そのミドリガメにこだわった。
「ったく、しょうがないな」
俺は言った。なんだかんだ言っても、男は好きな女には勝てない。
「おっちゃん、ホイちょーだい」
自分の懐から、300円をくれてやる。
「採ってくれるの?」
彼女が言う。
「埒があかないからな」
「にいちゃん、いいとこ見せろよ」
親父がにやついた顔で差し出したホイを受け取り、カメに狙いを定める。
小学生の頃は金魚すくいが得意だった。その勘が通用すればいいのだが。
ごちゃごちゃと群れている中から、狙いの1頭がすっと離れる。それを確認するとホイを沈め、そいつの後ろをそっと追跡する。ふよふよと泳ぐカメが、壁際で静止した瞬間。
「それ」
俺は斜めにホイを動かしてカメをすくった。後ろ足が突き出たがなんとか持ちこたえ、カップの中にカメを回収することに成功した。
「はいこれ、持って帰る」
俺は親父に、カメを差し出した。
「やるな、にいちゃん」
親父は言って、カメを受け取り、ビニール袋に入れて渡してくれた。
「ほらよ」
「すごおおい!」
彼女は、手を叩いて喜んだ。「ありがとう!!」
「大事に飼えよ」
と俺は言った。
「あったりまえだよ」
彼女は、ビニール袋の中を覗き込んでにんまりする。「キミからのプレゼントでもあるしねコレは」
こういう時の彼女の笑顔に、残念ながら俺は勝てないのだった。
「それにしても、なんでミドリガメ? もっと珍しいカメたくさん飼ってるんでしょ?」
「種類は、関係ないよ。大事なのはフィーリングだね」
「あ、そう」
こうして、ハナコは、“恋人のカメ”として、俺の世界に飛び込んできたのだった。
今となっては懐かしい思い出だ。
列車が動き出すと、バッグから文庫本を取り出して読む。爬虫類と同じような意味合いで趣味と言えるのかどうかは知らないが、俺は本を読むのが好きなのだ。ミヤコと付き合うようになったのも、もとはといえば共通の作家の作品を愛読していたことがきっかけだった。
「それ、江國香織の新しいやつだ」
「そうだけど」
「私も読もうと思ってたんだ。ねぇ、あとどのくらいで読み終わる?」
「2日」
「じゃあ、終わったら貸してくれる?」
「いいよ」
というような会話を交わして、我々の関係ははじまったのだ。
だから、はじめのうちは、デートをするにしてもごくありふれた場所に出かけていた。原宿とか、六本木とか、まあそのあたりだ。
それが、どこでどう間違って彼女の爬虫類趣味に巻き込まれる週末ばかりを送ることになったのか、不思議と言えば不思議だ。
そもそも、彼女は、大学ではそんなそぶりをまったく見せていなかった。
「内緒なの?」
と、俺はあるとき訊いてみたことがある。
ミヤコはそれを否定した。
「別に内緒にしてるわけじゃないけど……。訊かれないから話さないだけだよ」
趣味ってそういうものじゃない? と彼女は言った。
「でも、ペットの話とか、出ないの? 友達と話してて」
「その時も、カメを飼ってるって言うと、特に何事もなく会話が流れていくからなぁ」
「なるほど」
「カメは、“カメ”というジャンルだからねアレは」
「なるほど」
しかし、「トカゲ飼ってる」ことは伏せているあたり、やはり気にするところはあったのかもしれない。「か弱い女子」を演出するために「トカゲなんて気持ち悪い〜」などと周囲の男に聞こえるように叫ぶようなバカは、私立文系にはまあ、それなりにはいそうだった。
興味もないかわりに偏見もない俺は、彼女にとっては楽な相手だったのだろうと推測している。
いろんなところへ行ったものだ。
おかげで俺は、カメしかいない水族館とか、ヘビしかいない動物園とか、マニアックなレジャースポットの存在を、彼女を通じて知ることになった。ミヤコに連れていかれなかれば、一生知ることはなかっただろうと思える場所だ。
興奮した面持ちで展示のガラス面に顔を近づける彼女を、俺は微笑ましい気持ちで見ていた。ひとつの展示に1時間費やすような鑑賞の仕方に付き合うことができたのは、まあ、恋の力というやつだろうが、それでも退屈はしなかった。そういう時の彼女はほんとうにいきいきとしていて、その横顔を見ているだけで十分だった。
ちなみにカメしかいない水族館は、最近新しい施設に生まれ変わったとネットで知った。今でもミヤコと付き合っていたら、間違いなく開園日に引っ張っていかれたことだろう。「行ってみる?」と今の恋人に訊いたら、食い気味に「嫌」と言われてしまったが。
本を30ページほど読み進めたところで、列車は目的の駅に到着した。
改札を出た俺は、まず駅前の花屋に向かう。適当な花を見繕ってもらって、花束を作る。
この花束を届けるのが、今日の俺の、「予定」だった。
7年間、続けている行事。
すっかり見慣れた街並みを、目的地へと向かう。
ここは、ミヤコの住んでいた街だ。
「いつか、この街もちゃんと案内しないとね〜」
と、彼女は言っていた。祭りの帰り道のことだ。結局、その約束は果たされることはなかったのだが。
商店街を抜ける。駅前商店街はどこも厳しいそうだが、この街の商店街は比較的活気に溢れている。アーケードに響く八百屋や魚屋のおっちゃんの声は頼もしい。
ちなみに八百屋のおっちゃんは、ミヤコのことをベジタリアンだと思い込んでいたらしい。爬虫類の餌にするために、毎日彼女が大量の野菜をそこで買い込んでいたからだ。
商店街を抜けると、住宅が連なっている。ミヤコの家もこの宅地の中にある。何度か送ったこともあるから家の場所も未だに記憶しているが、さすがに今更訪れることはない。足早に通り過ぎる。
住宅地を抜けると、広がっているのは霊園である。
目的地はここだった。
ツツジの植えられた、受付までの坂を登る。
受付に記帳し、墓石を洗うためのバケツと柄杓、たわしを貸してもらう。
桜に彩られた通路を、俺は、目指す墓へと歩いた。
中央を走る大きな通路の東側のブロックの、入り口からみていちばん奥に、その墓はある。
「比良坂家之墓」
それが、俺が今日、花を届けに来た墓だった。
墓石の前で、バケツを置く。
「来たよ、ミヤコ」
風が吹いた。まるで返事をするかのように。
ハナコの本当の飼い主は、今、この石の下で眠っている。
交通事故だった。
横断歩道を渡っていた彼女を、赤信号を無視して突っ込んできたトラックが撥ね飛ばしたのだ。
縁日でハナコをすくってから、たったの10ヶ月後。7年前の今日のことだった。
彼女の妹が気を利かせてすぐに俺にも連絡をしてくれた。しかし俺は、サークルの合宿で長野へ出かけており、向かうことができなかった。
もっとも、東京にいたところで、事態は変わらなかったのかもしれない。彼女はほとんど即死の状態で、救急搬送されたものの、息を吹き返すことはなかったそうだから。
運転手からは、アルコール反応が出たという。
裁判の結果を詳しくは知らないが、運転手は懲役刑を受け、比良坂家は、民事でそれなりの賠償金を受け取ったそうだ。
さすがにそれ以上のことは、俺には情報がまわってきていない。
俺は告別式に出席し、彼女の両親と、少しだけ話をした。
正確に言うと、父親と話をした。彼女の母親はその時、とても人と口をきける状態ではなかったようだ。
父親が、俺に対してどんな印象を持っていたのかは知らない。でも、その時彼は、俺の肩を叩き、「娘をありがとう」と言った。
それが最後の会話で、彼女のことはいつか思い出となり、俺と彼らが交わることはもうない……はずだった。
事故から2ヶ月ほど経った頃。
予想していなかったことが起こった。
ミヤコの母親から、電話がかかってきたのだ。
あなたがミヤコに、よくしてくれていたことは知っている。
ミヤコは幸せだったに違いない、と母親は言った。
それから、しばらくの沈黙があった。
本題を、どのように切り出そうか迷っている、というような沈黙だった。
ミヤコとの事で、なにか禍根を遺しただろうか。
俺は緊張して、母親が話し始めるのを待った。
彼女が言い出したのは、やはり予想の斜め上を行くものだった。
ハナコを、ひきとってくれないか。
母親はそう言ったのだ。
ミヤコが飼っていた爬虫類たちは、特殊な飼育法が必要なものもあって、両親が世話を引き継ぐのは困難だということだった。そこで、引き取り手を探していたが、フトアゴヒゲトカゲやギリシャリクガメなど、趣味人の間では人気の高い種類はともかく、普通のミドリガメであるハナコには貰い手が見つからないのだという。ましてや故人の遺したものとあっては。
そこで、贈り主である俺に、できれば引き取って欲しいのだと母親は言った。
俺は戸惑った。
確かに、ハナコは、結果的には俺がミヤコにプレゼントした形になったものだ。引き取るのは、筋といえば筋なのかもしれない。
だが俺は、動物なんて飼ったことがなかった。安易に引き受けていいものだろうか。
俺が答えずにいると、母親は続けた。
あなたは新しい人生を歩まなければいけない。娘の影に縛られるようなことはあってはいけないのはわかっている。けれど。
最終的に俺がそれを承諾したのは、たぶんまだ、俺の中にミヤコの影が色濃く残っていたからだ。
今はもういない彼女の、縁となるものが欲しいと、俺は考えてしまった。
電話から3日後、俺は、もう訪れることはないだろうと思っていた比良坂家を訪れ、ハナコを引き取った。
客間のテーブルの上に置かれたプラケースには、ひとまわり大きくなったハナコが鎮座していた。
あの子は、このカメをそれはそれは可愛がっていたわ、と母親は言った。今でも、きっと成長を楽しみにしているだろう、と。
だから、大切に育てて欲しい。
その言葉は、今にして思えばある種の呪いだったのだろう。
それから毎年、俺は、もう訪れることのないはずだったこの街を訪れ、こうして墓前に花を供えているのだ。
「ほら」
俺は、バッグからタブレットを取り出して墓石に向けた。朝撮った写真は、このために撮影したのだ。「今年のハナコだ。まだでかくなるよ。困ったもんだ」
花瓶に立てた花が揺れたような気がした。
「そういえば、伊豆に新しい動物園ができたよ。爬虫類専門だってさ。行けなくて残念だな」
タブレットをしまいながら、そう続ける。
「俺はまあ、なんとか今年も元気でやっている」
俺は、バケツを掴んで立ち上がった。
「じゃあ、行くよ。また来年だ」
踵を返し、墓石を後にする。
未練、というのとは違うはずだ。ミヤコのことは、俺の中ではもう思い出になっている。
目玉焼きの焼き方も、コーヒー派になったことも、間違いなく俺の中に残った彼女の痕跡だったが、それでも俺は、新しい恋に身を投じているのだ。
それでも、きっと俺は、来年もここに来るのだろう。
この気持ちがなんなのか、自分でもよくわからない。
ハナコが死ぬまで、この儀式は続くのだろうか。
ミドリガメの寿命は、40年だ。
立ち並ぶ墓石を通りぬけ、霊園を出る。
ヴ…ヴ…ヴ…。
霊園を出たところで、携帯電話がメールの受信を告げた。
取り出して開いてみると、今朝、置き手紙を残していた女の子からのメールだった。
何の連絡だろうか。
受信ボックスを開く。
書かれていたのは、短いけれど、でも想いの込められた言葉だった。
『やっぱり、私は、元カノさんのカメと一緒に暮らすのは無理だと思います』
……ああ。
俺は天を仰いだ。
人生とはままならないものだ。
何より問題なのは、このメールを受け取って、俺があまりショックを受けていないということだった。
オーケイ、認めよう。
ミヤコはまだ、俺の中で確かに生きているのだ。
そして間違いなく、心のなかのミヤコに存在感を備給しているのはハナコの存在だ。
友人が、いつか言っていた言葉を思い出す。
「プレゼントってのはな、食って消えちまうもんがいちばんなんだよ。下手に残るもんは厄介だ。人の縁なんてどうなるかわかったもんじゃないからな」
確かに奴の言うとおりだった。
プレゼントに動物なんて、決して贈るもんじゃない。
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?