電話の後で
ヴ……ヴ……ヴ……。
スマートフォンのバイブレーションに仕事机の天板が共鳴して、しんとした部屋に大きな音が響いた。
煮詰まった頭を抱えてパソコンのディスプレイに向き合っていた僕は、突然鳴り響いたその音に驚き、椅子の上で跳びはねた。
机の端に置いたスマートフォンに手を伸ばし、点灯したディスプレイに映しだされた名前を確認する。
煮詰まっているのを知っているから、担当編集者は、今僕に電話をかけてこない。とすればセールスか、宅急便か、あるいは。
表示されていたのは、僕が最後に思い浮かべた名前だった。
プライベートで僕に電話をかけてくる、数少ない相手。
1ヶ月ぶりか。
口元をふっと緩め、僕は通話ボタンを押した。
「はろー。元気?」
お決まりの文句が、スマートフォンのスピーカーから飛び出してくる。背後で聞こえるのはカエルの鳴き声だ。いつものように、家のベランダから電話をかけているらしい。
「ちゃんと食べてる?」
「いきなりそれかい」
つっこんでも、彼女は意に介さない。
「当たり前じゃん。ヘタしたら菓子パン1個とかで生活してる相手なんだから」
「まあ、そうだけれども」
キーボードの隣に置いた食べかけのメロンパンを見ながら、僕は答えた。
「どうせ今日だって、カロリー高いからって、メロンパンとかでやりすごそうとしてるんだ」
反射的に、部屋の中を見回す。どこにもカメラはついていなかった。
「なんでわかった?」
「やっぱりそうなの」
電話の向こうで、これみよがしなため息が聞こえる。
「ダメだよ、ちゃんと栄養のあるもの食べなきゃ」
「わかってるよ」
「また倒れたって、知らないんだからね」
「はいはい」
「ほんとにわかってるんだか」
もう一度、ため息。
「まあいいや。で、どうよ、仕事のほうは」
僕は、まっさらなままのディスプレイを見やった。
「……まあ、ぼちぼち」
「ちゃんと書いてる?」
「それなりに」
少々見栄を張る。実際にはぼちぼちどころではなかった。短編の締め切りが来週だというのに、まだ1文字もタイプできていないのだ。デッドラインを踏み越えそうになると降りてくる物書きの神様は、もっと優先順位の高い子羊をまだ抱えているらしい。
「編集者さんを、困らせちゃダメだよ」
「気をつけてるよ」
もっとも、現時点ですでに、担当にはそうとうの心労が溜まっているものと思われた。当然だ。僕は締め切りを落とす作家ではないが、毎度、締め切り寸前まで作品を上げない作家だった。いつも綱渡りなのだ。どちらかと言えば、発注している担当の方が。
「今は、どんな話を書いてるの?」
僕は口ごもる。まだ、どんな話も書けていない。
「掲載まで、秘密」
とっさの嘘をつく。
「締め切りは守らなきゃだめだよ?」
「もちろん」
「お姉ちゃんが楽しみにしてる」
「そう?」
「そう。君の新作、あの人がまっさきに読んじゃうんだ」
「そうなんだ」
「買ってくるの、私なのにね」
その一言で、胸の内側がきゅ、と締め付けられる。
「まあ、私もちゃんと読んであげるから、頑張りなさい」
「ありがとう」
僕は言った。
「まあ、それはさておき」
また唐突に、彼女は話題を変える。
「さておき?」
「ちょっと聞いてよ、ひどいんだから」
はじまったな、と僕は思う。たいてい、彼女が僕に連絡をしてくるのは、何か、愚痴をこぼしたいことがあるときなのだ。まるで、床屋が井戸に向かって叫ぶみたいに、彼女は僕に電話をかける。それは、出会った頃から変わらない。
「どうしたの」
いつもと同じように、僕は彼女に問いかけた。その言葉をきっかけに、堰を切ったように彼女はしゃべりはじめる。
「それがさあ、彼氏のやつが……」
彼女に黙って、他の女の子と遊んでいたらしい、という話だ。
うん、うんと相槌を打ちながら、僕は彼女の言葉に耳を傾ける。そうだね。わかるよ。
余計なことは言わない。井戸に徹することが、僕に与えられた役割だからだ。
「大丈夫。君は悪くない」
ひとしきりしゃべりたおした彼女に僕はそう声をかける。
「そうかな」
「そうだよ」
「そうだよね」
最後の言葉には、少しだけ笑みが混じっていた。
「まあ、またちょっとね。話してみるよ」
そう言って、彼女は話を終わらせた。
「ごめんね、付きあわせて」
珍しく、殊勝なことを言う。「こんな話できるの、君くらいだからさ」
「僕でよければいくらでも聞くよ」
僕は言った。それは別に、役割に慣れているからだけではなかったけれど、もちろんそんなことは口にしない。「なにかあったら、いつでも電話をし」
「ふん」
と彼女が鼻を鳴らす。「キザなセリフを」
「そうかな」
「ほんとうは、私の声を聞きたいだけなくせに」
「そうかもね」
「ま、どうせ相手してくれる人も他にいないんだろうから、電話してあげてもいいけど」
「助かるよ」
くしゅ、と彼女が笑う。つられて僕も、ふ、と吹き出す。
「体には、気をつけるんだよ」
彼女が言った。
「君もね」
「私は、大丈夫だから。元気も有り余ってるし。君にわけてあげたいくらい」
「そう?」
「そう。お腹のお肉もついでにね」
「わけるほど、ついてないでしょう」
「いやいや、ついてるんだって」
夏までに痩せなきゃ、どーしよう、と、電話の向こうで苦悩の声を上げる。
「ま、がんばって、いい作品を書いてください」
「ありがとう」
「じゃあ、切るね」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
名残惜しさを感じながら、僕はスマートフォンから顔を離す。
しかし、通話を切ることはできなかった。直後、彼女が叫んだからだ。ハンズフリーではなくても、その声がばっちりと僕の耳に届いた。
「まって、流れ星!」
叫び声は、そう言っていた。
「流れ星?」
再びスマートフォンの耳にあて、僕は聞き返す。
「そう。いま、キラって。……あ、また!」
興奮したような声が、耳元から飛び出してくる。「一度に2つなんてすごい!……って、え、また!」
「そんなに流れてるの?」
「そうだよ。すごい。ねぇ、君もちょっと外に出てみなよ。そっちでも、見えるかもしれないよ」
「まさか」
「いいから、早く」
促されるままに、僕はベランダのサッシを開け、シャッターを持ち上げた。
彼女が見ているのとは違う、濁った東京の空。星を見ようなどとは、考えもつかない空だ。
それでも。
見上げた僕の目に飛び込んできたのは、眩い流れ星だった。
「見えた」
とっさに、僕はつぶやいた。「流れ星」
「でしょっ」
電話の向こうで、彼女がはしゃいでいる。「やっぱり東京でも見えるんだ。今、ちょうどニュースでやってたよ」
言われて、僕も思い出した。何年かに一度の流星群が、今夜見えるのだと、確か朝のテレビで言っていた。その後はずっとパソコンに向かっていたから、日が暮れたのも気づかないままでいたけれど。
「生活習慣最悪だね」
彼女が言った。
「大目に見てくれ」
僕は言った。
「ねぇ、願い事しなきゃ」
「こんなに流れてるのに、掛け金が少なすぎるでしょ」
「そんなの関係ないって。石油王、石油王、石油王!!」
「夢がない」
「ほっといて」
そうこうしている間にも、次から次へと、流れ星が空を横切って行く。
いつの間にか、僕たちは言葉を失くして、その光景に見入っていた。
「ねぇ」
不意に、スピーカーから声が聞こえた。もちろん、彼女の声だ。
「なんだか、不思議だね」
「なにが?」
「だって、私たち、今、150キロも離れてるのに、おんなじものを見てるんだよ」
「確かに」
「空って、ちゃんと繋がってるんだね」
「そうだね」
「姿はぜんぜん見えないけど、この場所と、その場所は、ちゃんと繋がってるんだね」
「……そうだね」
「ねぇ」
「なに?」
「私が電話して、よかったね」
「はい?」
「だって、私が電話しなかったら、君はきっと1日部屋の中にこもって、この空を見逃していたよ」
「それは、そうかもしれないけど」
「感謝しなさい」
「はいはい」
「ほんとにしてる?」
「してるよ」
「真剣味が足りないなぁ」
「ありがとうってば」
ま、いっか、と、つぶやくような声が聞こえる。
「ねぇ?」
「なに?」
「がんばるんだよ」
「なにを」
「全部だよ。小説も、人生も」
「おおげさな」
「だって、頼りないんだもん」
「悪かったね」
「どうせ彼女もできないんだろうし、応援しててあげるから、がんばるんだよ」
「……がんばるよ」
いろんな言葉を飲み込んで、僕は言った。
「また、電話してあげるからね」
返事をしようとして、こみ上げてくる何かがあった。
「はいはい」
喉を押しつぶそうとするそれをなんとかやり過ごして、僕は答えた。
電話の向こう側から、小さく、彼女の名前を呼ぶ声がする。
「ああ、お母さんが呼んでる」
少し慌てたように、彼女が言った。
「あら」
「ちょっと、行ってこなきゃ」
「そうだね」
電話を持っていない方の手で胸を抑え、僕は言った。
「それじゃあ、切るね」
「うん」
「またね」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
プツッと回線が途切れる音がして、スマートフォンは通話モードを終了した。ツーツーと電子音が鳴り、画面がブラックアウトする。暗い液晶に写ったのは、必死で歯を食いしばる自分の顔だ。
ふたたび夜空を見上げると、ちょうど、出遅れた流れ星が消えていくところだった。その星が消えてしまうと、あとにはいつもと変わらない、濁った東京の空が残された。
ぱた、ぱたぱた。
何かが液晶を叩く音がする。
空を見上げていたから、雨ではないのはわかっていた。
また電話してあげるからね。
がんばるんだよ。
頭の中で、彼女の声がこだまする。
まったく、と僕は思う。
人の気も知らないで。
ぱた、ぱたぱた。
また、スマートフォンを叩く音。
今度はもう、空を見ていることはできなかった。
滲んだ空から目をそらし、ベランダの手すりにもたれかかった僕の頬を、たくさんの熱いものが流れ、足元のコンクリートに吸い込まれていった。
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