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小説『シンジュク・段ボール・パンク』(3142文字)

 彼女に出会ったのは、そう、ちょうど今日のような段ボールの雨が降る秋の夜のことだった。

 私は新宿駅西口を出て、アルタの方向へ歩き始めたところだった。時刻は午後八時を過ぎていて、あたりには私と同じく帰宅途中のサラリーマンや学生たちがいたけれど、誰もが疲れ切った顔をしていたし、みんな無口でうつむきがちだったから、街全体が死んだように静かだった。
 それもそのはずだ。空を遮るように巨大な銀色の段ボールが降り続いているのだ。おそらくリサイクル団体の作であろう段ボール製の街灯もあちこちに立っている。それはまるで世界の終わりみたいな光景だと思った。

 私はふと足を止めて、アルタの壁面にある大型ビジョンを見上げた。そこには『本日、日本は終わります』という文字が躍っていた。おそらく日本が終わるのは誤字だろう。続くことのほうがよほど問題なのだから。
 アルタの前ではたくさんの人々が足を止めてそれを見上げていた。もちろん立ち止まらない人もいる。そういう人たちはアルタの前の広場を突っ切って駅の構内へと消えていく。彼らの大半は疲れ果てていて悲しげな表情を浮かべているように見えた。

 私が再び歩を進め始めると、前方の人混みの中で一際目を引く女性の姿があった。彼女は傘を差していなかった。ただ手ぶらで、段ボールを両手に抱えたまま、雨粒を気にすることなく、ぼうっと虚ろな目をして立っていた。それが彼女だった。
 彼女とすれ違う瞬間、「大丈夫ですか?」と私は声をかけた。何が「大丈夫」なのか自分にも分からなかったけど、なぜか声をかけずにはいられなかったのだ。

「ああ……これね。これは捨ててるんです」

 彼女の目は焦点を失っていたし、声には抑揚がなく、まるで感情がこもっていなかった。だからきっと嘘だろうと思った。でもなぜそんなことを言うのかは理解できなかった。彼女は「大丈夫です」と言うと私を追い越していった。そして振り返りもせずに去っていった。どうやら私よりも一回り年下と思われる彼女の後ろ姿をぼんやり眺めながら思った。いや、これはチャンスじゃないか。

「待って、その段ボール、とても上物でしょう。売って欲しいんだけど。お金はいくらでもあるわ」

 彼女が足を止めた。私はすかさず言った。「それは普通の段ボールじゃない。銃弾だって跳ね返すくらい頑丈なものを、あなたは選ぶ選別眼がある。そうでしょう?」

 彼女はやっと笑った。その時彼女がまだ十代半ばの少女であることに私はその時はっきりと気がついた。

「お姉さんの選別眼も大したものですね。いいですよ。ただし条件があります」
「何かしら? 言ってみて」
「これから私の言う場所に行ってほしいんです。そこに私の仲間がいるから。そこでこの段ボールを取引しましょう」
「…………」

 私は返事をする代わりに肩をすくめて見せた。少女はその様子を確認すると「じゃあついてきてください」と言って歩き出した。どうしようか迷ったが結局ついていくことにした。何にせよこんな状況だ。今さら怖じ気づく理由もない。

「ちなみに、お姉さんはこの段ボールを何に使うんですか?」
「タイムマシンを修理するのよ」
 
   *
 
 私たは少女の先導のもと、繁華街を抜けて住宅街へとやってきた。住宅街とは言っても半分はスラムのようなものだが。少女は迷うことなく一軒の民家の門扉を開けると中に入っていった。そこには小さな庭があり、そこの一角にプレハブ小屋のようなものがあった。降り続いていた銀色の段ボールは、いつの間にかすっかり止んでいた。

「ただいま、マスター」

 少女の声に反応して、プレハブ小屋の奥から、少女より少し年下の少年が現れた。

「そいつは?」
「お客さん。今から取引する」
「そうか。俺は見てるから」

 少年はそういうとプレハブ小屋の中に姿を消した。少女はそのあとを追うように小屋の中へ消えていった。
 私はしばらく玄関の前で突っ立っていたが、やがて意を決してドアを開いた。
 中に一歩足を踏み入れると、そこはさっきまで居たはずの世界とは別次元だった。
 壁という壁にびっしりと貼られた無数の写真には目を奪われずにはいられなかった。写真に写っている人物は皆、笑顔を振りまいていた。どの写真を見ても例外なく被写体が輝いていた。しかし、そのどれもがどこか虚ろな感じがした。まるで、誰かの理想をそのまま切り取ったかのような不自然さがそこにはあった。
そうか、そういうことか。なら納得だ。

「何よ、あなたたちもタイムマシンでやってきたんじゃない」
「ばれちゃった。さあお姉さん、取引をしよう」

 彼女は奥の机の上にあった段ボールを手に取ると、私の前に置いた。私はポケットに入れていた金を取り出すと、無造作にそれを置いた。
「だめだよお姉さん、日本円じゃなくてさ、ルーブルにしてよ」
 私は言われたとおりにした。「これでいいかしら?」

「うん、十分。じゃあ取引成立だね」

 私は念願の段ボールを受け取る。その時だった。急に足元が揺れ始めたのだ。地震ではない。地面全体が小刻みに震えている。

「来た。お迎えだ! 長かったよねマスター!」

 少女がそう言った時、地面が大きく波打った。それと同時に目の前の床が消えた。いや、正しく言えば、床が抜け落ちたのではなく、まるで水溜りに石を投げたかのように一瞬で視界が歪んだ。
 私はとっさに懐から拳銃を取り出す。そして目の前に現れた人物に向けて引き金を絞った。

「お姉さん、それはただの段ボールだよ」
「え?」

 私は自分の手元を見て愕然とする。そこには確かに段ボールがあった。何の変哲もない段ボールが。

「お姉さん、私たちの仲間になってよ。そうすれば、ずっと一緒にいられるよ」

 少女が私の手を握った。私はその手を振りほどいて言う。

「残念だけど、私はあなたの仲間にはならない。私は、この段ボールと一緒に未来へ行く」
「どうして?」
「だって、この段ボールがあれば、あなたたちみたいにならなくても済むかもしれないもの」

 私はそう言うと、銃口を少女に向けた。

「そう」少女は静かに微笑む。

「お姉さんを邪魔する気はないよ。その筋合いもない。私たちはただ警告するだけ」

 いつの間にか「マスター」と呼ばれた少年がいた。彼は黙ってこちらを見つめている。

「さようならお姉さん。ありえたかもしれない片割れ」

 少女はそう言い残すと、少年とともに姿を消してしまった。
 私は呆然としてその場に立ち尽くしていた。
 
   *
 
 それから数日後、私は新宿西口を出てアルタの方へと歩いていた。
 あの日以来、雨が降っていない。
 私は段ボールを両手で抱えて歩く。まるで買い物帰りの主婦のように。
 アルタの大型ビジョンでは相変わらず『本日、日本は終わります』の文字が躍っていた。
 私はふと足を止めて、大型ビジョンを見上げる。
 その表示が『本日、タイムマシンが完成』に変わった。
 アルタの前ではたくさんの人々が足を止めてそれを見上げている。もちろん立ち止まらない人もいる。そういう人たちはアルタの前の広場を突っ切って駅の構内へと消えていく。彼らの多くは疲れ果てていて悲しげな表情を浮かべていた。
 なんだ、段ボールが降っていようがいまいが変わらないじゃないか、と私は思う。
 でも、分かる気もするのだ。彼らがそんな表情をしている理由も、今なら。

 そうだ、今だ。

 私は段ボールを組み立てると、その中に入り込んだ。
 私はこれからどうなるのだろう。
 不安はあったが、不思議と恐怖はなかった。
 段ボールは私の体を完全に覆い隠すには小さかったが、身動きが取れなくなるほど狭くもなかった。

 そして、段ボールは私を優しく包み込み始めた。
 段ボールが閉じていく。

 そして、世界は暗転する。

〈了〉

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