破格の生協ローンで行った最初で最後?の海外旅行は波瀾万丈だった
1981年8月。脚本家の向田邦子さんらの乗った台湾の飛行機が空中分解した次の日、僕らは伊丹空港から大韓航空に搭乗した。
大学3年生の僕らは誰がふと言い出した「海外旅行」という言葉にいとも簡単に飛び付いた。当時はまだコンビニもほとんどない時代。下宿生活を送る僕らの生活を支えてくれたのは大学生協だった。入学する時に6,000円の保証金(デポジットね)を払えば何でも学生価格。基本的に2割引で何でも買えた。
今は二部制(夜間学部)を採用する大学がほとんどなくなったけど、当時はたくさんあって、それに合わせて生協が運営する学食も朝から晩まで食事を提供してくれたので、その気になれば?授業には出なくても3食全部生協で食べても千円未満で空腹を満たすことができた。
生協ではレコードも売っていた。当時はLPレコードが一律2,500円(2枚組以上はもちろん別ね)の再販価格制だったのに、生協価格では2割引の2,000円。バイト代をずいぶん注ぎ込んだもの。時々輸入盤セールもやっててもっと安く買えたりしてた。河原町辺りまで行けば輸入盤専門店もあったけど住んでたところは北の外れだったし、大学からも遠かったから専ら生協さんにお世話になったなぁ。
書籍も2割引で買えた。時々小説を買ったりしたけど、勉強しない学生だったから学術書籍はあまり利用しなかったなぁ。図書館が充実してたし、京都は当時から街中にステキな本屋さんが多かったし。
で、生協では旅行の取り扱いもしてて、誰かが言い出した「海外旅行」に行くことになったけどお金がない。で、生協ローン3年分割払の行き先は「ロサンゼルスとハワイ」僕は本当はロンドンかニューヨークに行きたかったんだけど、当時はまだ海外旅行が高かった。個人旅行はまだ一般的でなく1週間のツアーで西海岸でも40万円近いのが相場だったけど生協価格で20万円切るツアーに飛びついたって訳。出発直前になって急遽ツアー会社の都合で添乗員が付かないことになった。みんなロクに英語もできないのに大丈夫か?と思ったがそこは若気の至り。何とかなると思っていた。
前日の衝撃的な空中分解墜落事故で有名人らが亡くなった報道で、仲間のひとり、T.T君は搭乗を怖がっていた。僕は小学生の時に爺ちゃんが社会勉強に、と母親と僕を一度だけ国内線のプロペラ機に乗せてくれたことがあるけど、あいにくの雷雨で大揺れに揺れて機外は何も見えず最悪の思い出しかなかった。海外旅行は全員初めてだから国際線は未経験だ。
価格が安い理由のひとつは当時もっとも低価格路線が売りだった大韓航空便で、ソウルでの乗り継ぎ時間が半日以上?あったから。でも行ってみたら説明にはなかったソウル市内観光と焼肉店での食べ放題のオプションが無料で付いていた。市内では道路を走る戦車も見かけた。光州事件後、戒厳令が解かれてまだ半年しか経ってなかったからか。
ソウルでゆっくり時間を過ごして、いよいよロス行き乗り継ぎ便の搭乗案内が放送されてると、搭乗の不安が消えていたT.T君が慌てた声で「ない、ない」と叫び始めた。パスポートがないっ!僕らは空港中、ベンチやカフェやトイレなど探し回ったが何処を探しても見つからない。搭乗締切時間が迫り慌てふためいている僕らを見てどうしたのか?と聞いてきた搭乗ゲートの職員に事情を伝えると、機内に確認に行ってくれて、「もう時間がない。ロスで手続きできるからとりあえず乗りなさい」と言われて、憔悴して「もう帰る」と言い出した彼を促して何とかギリギリで機内に乗り込んだ。
機内ではスチュワーデスさん(当時はキャビンアテンダントとは言わなかった)から、「心配しないで、大丈夫だからね」と何度も声を掛けられてT.T君もようやく笑顔になり、それを見て安心した僕らも走り回った疲れが出たのか眠ってしまった。窓から入り込む日差しで目覚めるともうロス上空。晴天で全く揺れもなく眼下には映画でしか見た事のない絶景が。雷雨の初フライトの悪印象が一掃されて爽快感が広がっていた。
空港に降り立ち、空港職員が付き添ってくれて通過できるはずの入国ゲートでストップが掛かった。何を言われてるのかわからないけど、税関職員と真剣な表情でやり取りしていたが、「ビザがないと入国は認めない。強制送還する」と言われているようだった。急遽、ツアー会社の現地スタッフに連絡を取ってもらい駆け付けてくれたのだが、やはり押し問答が続き、窮余の策として「滞在期間中に大使館でビザの再発行を受ける」条件で仮滞在証が交付されることになった。で、ビザ再発行に要する日数がロス滞在予定の日程を超えるため、何と!滞在日が2日延びることになったのだ。
出発直前に急遽ツアー会社の都合で添乗員が付かなくなったことがあってか、2日も延びても追加料金は発生しなかった。やったね!と僕らは喜んだがT.T君は落ち込みまくり、到着日夜に約束した同じツアー仲間のN女子大とH女子大の4人とのパーティーにも最初は部屋から出て来なかった。彼女たちからも慰められてようやく笑顔になり翌日からのツアーには元気で参加でき、ロス出発前日には無事パスポートの再発行も受けることができた。
ロスではみんなでハリウッドやドジャース球場や乗馬や射撃ツアーなど諸々行ったし、個別に仲良くなった子もいたし、最終日には単独行動でちょっと怖い思いもしたし、ハワイではこれが本当の灼熱の太陽だなって言うのを浴びて短時間で真っ黒に日焼けしたりもしたけれど、どれもパスポート事件に比べれば印象が薄くて正直あまり記憶に残っていない。
しかし、今考えれば、大韓航空も旅行会社も税関も大使館も大袈裟に言えば「超法規的措置」に近い対応だったんじゃないかなぁ?こんな経験した人あんまりいなんじゃないかしら?
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