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収まるべきところへ


20190729

わたしが京都に住む男の子だったら、「今日の夜、鴨川沿いをさんぽしようよ」なんてちょうどいい理由をつけて、会いにいくのにな。

5月の下書きに残っていた。

最近、すっかり生活と仕事に呑まれてしまった日々だけれど、無性に、京都へ行きたくてうずうずしている。仕事に集中できなくなってしまった午後なんかは特に。5月の誕生日にあわせた10日間、京都で満たされたはずだったが、それはただのつもりで、蓄えておけるような感覚でも無いと知る。

いつもだったら、夜行バスの値段を調べ始めたらもうダメな証拠で、わたしは気ままにこの場を発ってしまう。

でもいまは、自分で決めたことくらい守りたい。だからそんな身勝手に離れられない。守るべきものがここにある。

約束をした年末まで、わたしは目の前のことをやるしかない。

京都で出会った人たちとは、連絡先を教えあうことをしなかった。もし東京で出会っていたのならば(というのも愚問なのだけれど、もしそうであれば)いまごろきっと、SNSなんかでお互いの近状をのぞきみしていたはずだ。

東京にいると、どうしても、「いまここで留めておかないと雑踏のなかでは見失ってしまうな」といった焦りがあるように思う。わりと近くに住んでいたりするのに、手を振ってしまったらどこか遠くに感じる。なぜだろう。人が多すぎるせいか。

つながっていたがる。

無論、わたしも一応、ここでは「つながりたい人種」だ。それなのに、京都ではそんなことを微塵も感じなかった。無理に笑顔をつくってみせたり、ことばを粗くつないだり、興味のないことに共感をしなくてもよかった。ことばさえ、いらなかったように思う。

そうやって、連絡先を聞かないことが暗黙に了解されているみたいだった。わたしも聞かないし、相手も聞いてこない。東京で出会う人より断然、もう会えないことはわかっているのに、なぜか「これでいい」と腑に落ちる。

でもこれで、また会えたらホンモノだと思えるよね。それでその時は、また缶チューハイのプルを引いて、夜通し語り明かしたいのです。

つながらないからこそ、つながれるってことも、あるんじゃないかな。不思議。

でもなるべく、会いたい人には会いに行かなくてはいけないと思う。

わたしは高校生のころから数年、京都でお世話になっている宿がある。そこの、住み込みスタッフのおねえさんと仲良くなり、年末にまた来ますと約束した。

「ライターをやっていて、趣味でエッセイとか書いてるんです。本や詩も好きで。」と伝えると、実はわたし詩を書いているんだと、こっそり教えてくれた。毎年、詩をプリントアウトして、自分で綴じて、ちいさな詩集をつくるのだと。それを頼んで、一冊いただき、帰りのバスのなかで読み、こころが大きく揺さぶられた。

今年の末、おねえさんはその宿を去る。だから、必ず会いに。
高校生からの4年間、お世話になったのだ。お世話になる5年目は無い。

本当に、人は、いついなくなってしまうかわからない。当たり前なのに。でもそんな単純で明快なことも、こんな忙しない日々を這ってしまえばいつだって忘れることができる。

人間はとっても臆病だ。
せめて顔を合わせているときくらいは忘れずにいたい。

だから人と酒をのむとき、いや酒でなくてもいい、喫茶店の珈琲だって構わないのだけど、いつも「これが最後かもしれないんだよな」とおもうのがクセになってしまった。

おねえさんとの最後が、もしかしたら味の薄いたばこになってしまうかもしれないし、逆に、わたしとの最後があのたばこの煙かもしれない。

いつか死ぬから、どうせ死ぬなら、好きなことをたくさんたずさえたわたしで消えてしまいたい。十分に満足できなくたって、なにかをやり遂げられなくたって、その時点までここちよく生きていられたらハナマル。できれば、京都で暮らしてから命を燃やしたい。わたしはきっと暮らす。収まるべきところへ、この命と、明日のわたしが連れてってくれる。


aoiasa


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最後までありがとうございました。 〈ねむれない夜を越え、何度もむかえた青い朝〉 そんな忘れぬ朝のため、文章を書き続けています。わたしのために並べたことばが、誰かの、ちょっとした救いや、安らぎになればうれしい。 なんでもない日々の生活を、どうか愛せますように。 aoiasa