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4年ぶんの近況など

20240903


今日、夏の間ずっとつけっぱなしにしていたクーラーを消した。この私が夏の終わりを決めたみたいに。ここから冬がくるまでしばらくは、跳ねあがる光熱費にびくびくしなくていい。それだけで日々のストレスがいくらか軽くなる。

このごろは年々と暑さが増し、もう道端にヤシの木でも生えていないと許せない気候になってきた。ドバイより暑い日があった。マレーシアからやって来た同級生が「Region:Japan, Temp:Malaysia」と言う。なら、そうなのだろう。異様な雨もよく降り、街は水に溺れ、台風はへんてこ。これから先どうなっちゃうのよと将来を不安に思ったり、クーラーの冷たさに体調を崩したりもして、そして私はまた夏を忘れる。
こんな最高の夏を忘れてたまるかと脳に封じこめるのに、毎年、生まれて初めてであるかのように夏をとても暑く思う。まぶしく思う。自分が明るい人間であるかのように錯覚させてくれる。

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夏を忘れる第一歩として、今日は部屋中の窓を開け放つ。クーラーをつけっぱなしにしていたのと同じ分、窓はずっと閉め切っていたからひさびさに外の空気を堪能する。あ、気づいちゃった。もう秋の虫がミャーミャー鳴いてやがるんだ。そんな些細なことに気づける時間を私ってばとんでもなくうれしがっている。なんせこの夏は、蝉の声が入りこむ余地もないほどに毎日を目いっぱい生きていたから。
でもすこしおかしなことに今が暇なのかというと全然そうではなく、むしろやらなきゃいけないことは日々増す一方。つまり私今、現実逃避をしている。ほどほどに済ませるのがうまくなるばかりで困っちゃうな。まあ今くらい、いいだろう、いいだろうが重なってどうせ後からしんどくなるのわかってる。でも私後からちゃんとやるからね。ちょっと待っててね。

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みんなは最近どうですか?どうにもがんばれない時にも、なんとかテコ入れしてがんばっているのかな。すごいな、そうやって社会でうまく息をしているのかな。私はまだまだ自分のことばっかりで、思うように動けないときも多いのですよ。それでもみんな私のことをとてもよくほめてくれますね。素敵だよすごいよ、あなたの言葉に励まされ救われているんだよと。それこっちのセリフだって。ありがたいことこの上ない。

でも同時に、見せている部分と見せてない部分、見えている部分と見えてない部分とのギャップを私はたいへん情けなく思うのです。そんなにほめられた人間ではないですよ。
深夜にポテチのひとつやふたつ、食べるの当たり前だと思ってますから。未だに電話をかけるのも病院通うのも苦手で、スーパーに行かせればどうでもいいものを必要以上に買ってニコニコ帰ってきます。でも処理しきれなくて食材無駄にしちゃう。ポスト溜めちゃう。返信溜めちゃう(文通の時代に戻りたいと願う、までがセット)。つくづくと自分の息のできなさを笑う。

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ここでの最後の更新が2020年の9月。そういうわけで4年が経った。私が自分のための文章を書けなくなって、4年が経ったのだ。
年にほんの数回、睡眠を犠牲にして、狂ったようにむかしむかしの自分の文章を読み漁る夜がある。どろどろでねっとりしたものが心に棲みついてないと出てこない言葉の数々が、今はとても恋しい。しかも、書いたときの場所、空気、気持ち、どうやってその言葉を選んだのかどの言葉を選ばずデリートしたのかまで鮮明に覚えているからこれまた執着がすごい。「ああ牡牛座さんって記憶力が抜群にいいんですよね」って占い師によく言われる(知らんけど)。あんなのもう書けやしないのに、昔の自分にまだすがっていたくなる。

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今書こうと思えばほらこんなにも長ったらしく、おもしろみもない上に明らかに物足りない。今は淡々と、着実に、書こうと思って書いてる。別に書かなくていい、ここでそっとアプリを落としてこの文章に費やした3時間をこのままどぶに捨てたっていい。

私が恋しいのは、書かざるをえなかった文章。吐き出さずにはいられなかった言葉たち。この違いがもう全然埋まらないんだよね。埋まるわけがないよ。それに「その苦しみの中でしかできなかったよね今はもうできないよ、たくさん残してくれてありがとうね、お疲れさま」と言ってあげることが、唯一の救いなんだと思う。なんもできずただくねくねしてた20才の自分を救えるなら私はこのままずっと文章書けなくていい。

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うまく生きるために感情が安定するようがんばっていたら、それはそれはつまんなくなって、私はなんでもなくなった。他人と自分の境界をしっかり切り分けた、心地よく起伏おだやかなメンタリティ。仕事の文章をたくさん書くにつれて、読み手が求めていることを、誰にでもわかりやすくロジカルに。それが価値になる業界に身を置く。私でなくてもいいことを淡々とこなすのも別に悪くはない。世界の大半はそういう仕事でできているし、まっさきに自分を歯車だと認識した人がイージーに生き残れるのだと去年なんかの本で読んだ。でもなんだかそこから自分の文章が書けなくなった。書かなくてもよくなった。

東京は愛せど何もない。本当にね、過剰ゆえの何もなさみたいな。最初の一人暮らしから2度も引越して「圧倒的な孤独と忍耐」ができる環境をつくり、自分の生活や気持ちにとことん向き合った。気づけば20才の自分なら喉から手が出るほど欲しいであろう暮らしが目の前にあった。だけれどお仕事がんばって2倍3倍と稼げるようになればなるほど、豊かになるどころか歯ぎしりしたくなるほどつまらなさが増してるような気さえする。やや絶望した。

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やや絶望した自分と共に、だからということでもないが、2024年に大学に入学してみた。「どうして?理由は?卒業後何か目指すの?」とひとしきり聞かれたって、特に理由も目的も持たずに来たのだから答えられない。皆もすなる大学生といふものを、私もしてみむとてするなり。そんな軽い気持ちで(受験は本気で)。私っていつもそんな感じ。

実のところ大学生活自体にはあまり期待していなかったってのが本の音なのだけど、半年が過ぎた今、これは人生の中でもトップを争う"かなりGOODな選択"だったのはすでに確か。選択というよりかは、タイミングも何もかもすべての歯車がカチッとハマった感覚に近くて、選択するまでもなく「あ、これ私呼ばれてる」って。あたらしいタイプの鳥肌の立ち方を経験した。これはまたすごく長い長いお話だしいつかゆっくり話せばいいよね。

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そんなこんなで大学は楽しい。縁もゆかりもない土地にふらっと移住してきて、圧倒的な孤独に耐えたあとの「とりあえず大学行けば誰かと話せる」「近くに友だち住んでる」という環境はあまりにも麻薬的。孤独がめっきりダメになっちゃいました、てへ。人に頼ることも少しずつできるようになってきた。頼られるのもとてもうれしい。仕事の(特にフリーランス/自営業の)世界には無い、損得勘定抜きにした無償の愛みたいなものを周りから注いでもらってて人間に生き返っているような気分でいる。
ひさしぶりの不特定多数な環境の中では刺激も多くって、自分の中で感じてたつまらなさも少しはやわらいできた。これが私の近況。4年ぶんの克服みたいなものをここに残しておく。

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今は「なんだこりゃ」と思うこんな文章も、数年後に見返したとき、なんだこりゃなりに捻り出した言葉たちを愛おしく思うのだろう。どんな状況でどのくらいの時間をかけて書いたのかを私はまた鮮明に思い出す。今日が出張の前日であり、というかもう日付が変わった当日で、早朝に家を出て新幹線に飛び乗らないといけないのにまだ何も準備していないことだって、いつかふたたび恥じてほしいのだ。


20240904


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青い朝
最後までありがとうございました。 〈ねむれない夜を越え、何度もむかえた青い朝〉 そんな忘れぬ朝のため、文章を書き続けています。わたしのために並べたことばが、誰かの、ちょっとした救いや、安らぎになればうれしい。 なんでもない日々の生活を、どうか愛せますように。 aoiasa