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自分さがし喫茶 #ネムキリスペクト #墓標
どしどしと階段をあがると、玄関扉に見慣れないプレートが掛かっていて固まる。部屋番号を確認したけれど私の家だ。プレートは薄汚れた木製で、風で扉に当たりかつんかつんと情けない音をたてていた。汚い手書きの字で「自分さがし喫茶」と書いてある。何のいたずらか。ひとの家を勝手に喫茶店にするな、と心の中で悪態をつきながら、私はその看板をつまみあげて家に入った。
「は」
口がぽかんとあいた。薄暗い大きなひとつ部屋は深いあめ色の板敷で、いくつかのテーブルと椅子のセット、奥にはバーカウンター。そこはまるでレトロな喫茶店だった。そして、細長く銀色に光る窓を背にして。
人が、いた。
「………らっしゃい」
たっぷり五秒は見つめ合ったあとで、低いしゃがれた声が言った。渋い珈琲と煙草の煙をまぜたような声だった。
「…失礼しました」
私はかくっと腰を折って、後ろむきに部屋を出た。扉に背を押し付けて、溜めていた息を白く吐く。アパートの廊下から見える、いつもの黄昏の景色にほっとする。そっと振り返った。部屋番号を確かめる。やっぱり、私の家だ。
もう一度ノブを回して中を覗いてみる。
「わっ」
「うわっ!」
さっきの男だった。思いきり睨みつけた。男はかさかさした長髪を後ろで束ねていて、彫りの深い細面に無精髭をはやし、いたずら成功、といったようなにまにました笑みを張り付けている。細いけれど骨格の良い身体には、白シャツに黒いベスト、折り目の薄くなったズボンを纏い、足元は、ぼろぼろの革靴。要するに、すべてが、とてつもなく、胡散臭い。
「…何なんですかあなたは」
食いしばった歯の間から言った。
「だいたいここ、私の家、なんですけど。通報しますよ」
「ふうーん」
男は薄く開いた扉の隙間に挟まるようにドア枠にもたれて立ち、外の景色、部屋番号、そして私の顔へと視線を移した。背の高い奴だな、と思った。まあ、私にとってはたいていの人間は背の高いひとなのだが。
「いや俺もー、ここが君ん家だって今知ったとこだし?ていうか俺は一歩も動いてないんだけど。君の家が俺の店に来たんでしょ」
と彼は訳が分からないことを言って、
「とりあえず飲まない?あ、未成年?じゃあ珈琲にする?ホットミルクとか?」
などと楽しそうに喋りながら、「まあ入れって」とどちらが家主かわからないような振る舞いで私を店の中に押し込み、「あ、牛乳あったっけ…」とか独りごとを言いながらせかせかと奥に歩いて行った。私はただ、あいた口が塞がらないとはこういうことか、とひとりで妙に納得しているばかりだった。
「ていうかさー、君、この店に来たってことは」
「来たつもりありません」
「はいはい」
すかさず冷たく返すと、男は両手を軽く挙げた。
「…てことはさ、君、なーんかあったんじゃないのー?」
カウンターの向こうであちこちがちゃがちゃさせながら、男は軽い調子で言った。
「…ちょっとおっしゃる意味がわからないんですけど」
「ほら階段、凄い勢いであがってきたじゃん?俺あの音聞いて、階段に恨みでもあんのかと思ったよ」
「あれは」
さすがに少し恥ずかしくなって、弁解を試みる。
「荷物が、重かったから」
言ってから、まだリュックサックを背負ったままなのに気づいた。もそもそと肩から外してふと顔をあげると、音もなく男が近づいてきていて仰天する。
「はい、どれどれ、うわ、おっも!っぶね、腰やられるとこだったわ」
大袈裟に重い重いと騒ぎながら、男はカウンターの椅子のひとつに私のノースフェイスを置いて、その隣の椅子の座面を軽く叩いた。
「まあ座れ」
「あと看板」
私は薄汚い木の板をぺらぺらと振る。
「はあ?なんで。普通店の看板勝手に外す?」
「普通ひとの家にこんなもの掛けますか」
「たしかに?いや俺知らねーし」
男は「自分さがし喫茶」の看板を受け取ってじっと見つめた。
「…まあこれ、外したままにしとこうか」
そう言って私を見た。にこっと笑う。
「お客さんは、一度にひとりでいいからね」
のぞいた歯は黄色っぽかった。そして八重歯があった。胡散臭さが徹底しているな、と思った。男はうきうきとカウンターを回り込んで、湯を沸かし始めた。
「客のつもりはないんですが」
私は男の背に向かって言った。
「俺はそのつもりなんですが。あ、お腹空いてる?茹で卵くらいなら作る」
「お金ないですよ」
「要らないのでいいですー」
「じゃあなにを」
なんだか急に怖くなったのが声に出たのか、男は笑い出した。
「あのさー、自分がなにか犠牲を払わないとひとのしてくれたことへのお返しにならないっていう道理なくない?俺のこれは、しゅ、み、なの。これでもまともな仕事ほかにしてますー」
…え、嘘。
「今、え、嘘、って思ったでしょ!」
図星なので笑って胡麻化した。
「…ナポリタンじゃないですか」
「なに?」
「喫茶店で出す料理。ナポリタンが食べたいです」
「…俺さ。茹で卵っつったよね…」
男は静かに肩を震わせていた。
「あ、無いならいいんですよ、でも私そもそも家に帰ったら速攻でご飯食べるつもりだったので」
「作ったるわ…おとなしくそこ座って待っとれ…」
男はフライパン片手に凄い顔でこちらを見た。
「どうも、あざます」
私は軽く頭を下げた。コートを脱いで隣の椅子の上に畳み、ブレザーを脱いでその上に重ね、カウンター席に座った。喫茶店の中は制服のブラウスとベストで丁度良かった。
店の広さはアパートの私の部屋を全部繋げたくらいだが、天井は少し高い。床と同じ、深いあめ色の木の天井から、橙色の小さな電灯が幾つか吊り下がっている。電灯には綺麗な花模様を描いた硝子の傘がかかっていた。
「可愛い」
眩しいのを堪えて電灯を見上げ、思わず呟いた。描かれているのは白い百合の花だろうか。
「はい、先に珈琲ね。うちの名物。自分さがし珈琲」
250ミリリットルくらいの、どっしりした深緑のマグカップを出された。
「どうも」
深く香ばしい湯気だけ吸い込んで、マグをカウンターに戻す。頬杖をついて、男の背中を見るともなく見る。両の眼がだんだん離れていって、ぼんやりした視界がふたつになって、頭の奥がふわふわして、放っておくとこれはもう寝ちゃうな、と思ったけれど、悲しいかな私は暗い部屋の布団の中でないと寝られない。今まで一度も、授業中に居眠りをしたことがなかった。どんなに眠くても、家の外で眠ってしまうことがなかった。あれ、そういえばここ私の家だった。おっかしいな…。
近ごろは夜も眠れないのに。
「どう、美味い?うちの珈琲」
「まだ飲んでません」
男が急に話し掛けてきてびくりとする。マグに鼻を近づけたけれど、まだ湯気が熱い。火傷する温度の湯気は特有の匂いがする。周りに言ったことはないけれど。わかってもらえるかわからない。
「えー、なーに、君猫舌なのー?」
私の猫舌は隙あらば家族のみんなに揶揄われていた。
「ええ、まあ」
語尾を伸ばして話すひとは馬鹿か優しいかのどちらかだ、と言ったのは誰だったっけ。とか、そういうどうでも良いことを考える。
「…でも匂いは美味しいですよ」
言おうか言うまいか、二秒くらい迷って結局言った。そういう、人間関係の潤滑油みたいな、適度にどうでもよくて気遣いある会話をするのが苦手だ。私の場合、言おうか言うまいか二秒くらい迷ったときは、80パーセントの確率で言わない。
男はふふんと嬉しそうに笑って、フライパンに向き直った。茹で玉子とか言っていた割にはのりのりで鼻唄なんか歌っている。肉の脂が弾ける音がして、美味しそうな匂いに思わず眼を細める。
黙って、ぼんやりしている。知らないひとがいると緊張して固まっているのが私の常だったけれど、今は不思議とそれはなかった。
「はい、できた。自分さがしナポリタン」
「うわー、めっちゃ美味しそう」
目の前に置かれた皿に思わず声が漏れる。白い皿にたっぷりと盛られた赤いスパゲッティは、珈琲と同じで、洒落っ気はないけれどしっかり美味しい佇まいだ。
「なんで自分さがしなんですか」
早速いただきますと手を合わせて、ふと尋ねた。
「なんで?」
カウンターに頬杖をついて満足げに笑ったその問いが、なんでそんなこと聞くの、という意味に聞こえたから、言おうか言うまいか二秒くらい迷ったことをまた言う。
「自分さがしってことば嫌いなんです」
「ふーん」
「なんか、生意気じゃないですか」
同意が得られなかったので、自分でも上手く言い表せない漠然とした嫌悪感を多少頑張って伝えようとする。
「生意気、ねえ」
「よくわかんないですけど」
伝わらないし自分でも何を言いたいのかわからないので諦めて俯く。
「美味しいです、ナポリタン。ありがとうございます」
「まあ、インドにさがしにいくもんじゃないよねえ」
男はカウンターに肘をついたまま真面目くさって言った。
「自分てどこにあるんだろうねえ」
「墓の中じゃないですか」
フォークにたっぷりと巻き付けた麺を口に運ぶ。
「墓の中?」
「すいません、深い意味はないです」
ただ去年のカレンダーの裏を思い出していただけだった。
「ふーん」
男の髭面が興味深そうに私を見ていた。眼は眠そうなのに。胡散臭い顔。
「君ひとり暮らし?」
「そーですね」
もごもごと答える。
「きょうだいは?」
「…兄が、ひとり」
「ふーん?」
なんとなく見透かされているようでうすら恐ろしい、そういう気持ちに反抗して男を見つめ返す。見知らぬひとに説明する義理はないし、きっとこのひととはこれっきりだ。これっきりであれ。というか私は家に帰れるんでしょうか。急にフォークを置いて、ナポリタンをまじまじと見つめた。
「どしたの、そんな火星人見るみたいな顔して。もしかしてお腹いっぱい?俺が手伝ってやるよ」
ほれほれ、と、男は新しいフォークを出してきて、皿の上を往復させる。本当は盗み食いなんてする気がないときの戯れ。私が本気になってその手を払い除けようとして、お遊びの攻防戦を始めたいときの手口だった。今は鼻から息を吐き出すくらいしか、できそうもない。
「なんだよノリ悪いなー。珈琲は?もう飲めるんじゃね?」
言われてはじめて、マグカップに口をつける。もうぬるくなっていた。深々と渋くて、酸味が少なかった。
「ん、美味しいです」
みーっと笑ってみせた。男はまた満足そうに、黄色い八重歯を見せてふふんと笑った。
「一か月くらい前、お客さんがさ、」
と、男はカウンターの向こう側の雑多なものたちの中から、スツールを掘り出しながら言った。
「めっちゃ面白い話、してくれたんだよね。深夜一時の無人コンビニで、ほぼ下着に薄いカーディガン羽織っただけの美女が缶ビール買ってんの。でよく見たらそれが高校のときの担任の先生でさ」
いきなり何の話をするのか、この男。仮にも女子高生とふたりきりの喫茶店で、なんだかあぶなげであやしげな匂いのぷんぷんする小話を始めてくるとは、危険人物なのか。珈琲にもナポリタンにも、実は何か入れてあったのではなかろうか。睡眠不足のうえにお腹が空いていて頭が回らなかった。しかしそれにしては、このひとは隙が多すぎる。胡散臭いがやましい臭いは一切ない。なんなんだろう、この新境地。たぶん多くの人間は一生涯経験することはないだろうこの未知の状況。
私はじっくりと男を見つめた。けれどなにも見てはいなかった。今の私は私の未来に、これっぽっちの明るい想像もできそうになかった。もうどうなったっていいか。なにもかも、今、手放してしまいたい。ここのところずっとそういう思いを頭の後ろに紐で括り付けて、ふよふよさせながら生活していた。私はもしかすると、この人相の悪い、得体の知れない胡散臭い男に黄泉の国まで連れて行かれたとしても、かえって好都合だと思ったかもしれなかった。
「何だその格好」
と彼はその美女に声を掛けた。
「あれえ、洋平くん?洋平くんだあ。久しぶり。元気にしてた?」
彼女は赤い顔で笑った。洋平は顔を顰めた。
「まだ呑むのかよ、酔っ払い」
「私の勝手でしょ」
彼女、桜庭先生は缶と瓶がごろごろ入った籠を提げてすましている。
「君もお酒?」
「まだはたち前。一緒にすんな。朝飯買いに来たんだよ」
「そっかあ」
桜庭先生は間の抜けた顔で笑った。
「あんまり遅いとあぶないよ。ひとり暮らし?」
「まあ」
洋平は眼を逸らした。桜庭先生はその眼をじっと追い掛けていた。
「うち、来る?」
声は静かだった。酔っているとは思えないくらいに。
「あんた彼氏いんだろ」
「いまは海外赴任で、あと五か月帰ってこない」
彼女は泣きそうな顔をしていた。洋平の待つ籠の中の弁当を勝手に棚に戻しながら、矢継ぎ早に言う。
「しかも喧嘩したまま一か月音沙汰なし。お酒に寝かしつけてもらう日々。枕に頭をつけてから眠りに落ちるまでの時間が怖くて、眠ったほうが百万倍ましなどおーでもいい時間をだらだら過ごしてるなう。君うち来なよ、すぐそこだから。お夜食作ってあげる。あしたの朝ご飯も、買わなくていい」
ねっ?と覗き込んだ顔はもう笑っていた。めっちゃ誘うじゃん、センセイ。と、先生、のところに力を込めて言い返す。舐めた真似してんじゃねえよ。最大限に睨みをきかせてそう言うと、彼女はもっと笑った。
「君だって、和久くんが本命でしょ?もうずっと。ずーっと」
そう言った眼は優しかった。洋平は思わず息を呑んだ。今まで必死に固めていた要塞の壁が、急に溶けてなくなるような感覚がした。恥として隠し続けていたことがこんなにあっさりと、まるでこんなに自然なことはないみたいに、知らないうちに受け入れられていたなんて。
ひとつついたら、次々と繰り出さなくてはならない嘘。喉が灼けるような苦しみに、かたく肩を強張らせて耐えていた、そのうしろから急に親しげに肩を叩かれて、「もう大丈夫だよ」と助けに来てもらえた、そんな気がした。
「俺あんた相手にできねーよ」
簡単に言ってしまえた。こんなにあっさりと。真夏の深夜の、白々した人工的な明かりの中で。
一度だけ、女の子に好きだと言われて、一緒に無駄話をしたり、時々手を繋いで出掛けたりしたことがあった。何度目かのデートの帰り、もう辺りは暗くなっていて、人通りもないのに煌々としたコンビニの駐車場でまた明日、と言おうとして、そのときの彼女の眼差しになんとなく顔を近づけて。けれどもう少しで触れるというときになって、あ、と思った。急に吐き気がして突き放してしまった。
「どうしたの」
驚いたような、恐ろしいような顔を引き攣らせて彼女は言った。
「ごめん」
洋平はやっとのことで呟いた。頭の後ろのほうからすうっと血の気が引いていくのがわかった。棒立ちになったまま、コンビニの電灯が明るすぎると思った。
「どうしたの。私なにかした?」
所在なさげに両手を捻っている、陶製の人形のような造形が、見えすぎると思った。ボタンをふたつ外したシャツの下の白い肌や、ミニスカートから惜しげもなくくっきりとのびた脚が、そこに陳列された物品と同じようにコンビニの白い明かりを浴びていた。
「違う。ぜんぶ、俺が悪い。おまえの時間も、気持ちも、無駄にした。最低だ」
「だれかほかに、好きなひとがいるの」
言い方がどこか確信めいていたから、洋平はたいして意味もわからずに曖昧に首を傾けた。
「そうじゃないかと思ってた」
笑ってる、けど、泣くな、あと五秒で。綺麗だよその顔。綺麗なものは、好きだ。俺もそのうち君と同じ「好き」に、なれると思ってたのに。
「君はほんとにかっこいい、良い奴だね」
まさか。何を見てんだよ。違うだろ。そんな訳ない。
「しあわせになれよ」
しあわせに?なんて。俺が。
彼女は背を向けて走っていった。
泣きてーよ俺も。コンビニのトイレでうずくまりながら思った。でも俺が泣くのはもっと最低だろ。ごめん、なんて、この罪悪感に比べたらまったく意味のないことばだ。硝子細工に触るように手を握っても、彼女に対して何らの欲も湧かなかったし、そもそもコイにもアイにも、基本的に興味の欠片も持っていなかった。ただ向けられた好意を拒絶する確固とした理由も勇気もなかっただけだった。
けれど、と、そのとき思った。けれど、もし自分の人生の中で、たったひとりそういう相手がいたとするなら。その相手は和久しかいないのだろう。昼間食べたものを吐き出してしまうと、胃液の酸っぱさがなぜか解放感を連想させた。
桜庭先生は眉をさげ、眼を合わせて、洋平の肩を叩いた。部活の一場面のような軽やかさ、明るさ、それでいて確実な重み。明るすぎる白い電灯に真昼の太陽の匂いを錯覚した。
「なんもしなくていいよ」
生徒を下の名前で呼ぶ。いつもぼんやりしているようでいて、時折びっくりするような鋭いことを言う。授業中に急にのろけ話を始める。甘いチョコレートはむせるから嫌いなの、と生徒に貰ったチョコレート菓子を別の生徒に横流しする。試験も実習もやっただろうに、私やっぱり先生向いてないわ、君たちが卒業したら転職する、と言い出して本当に転職してしまった、そういう先生だった。豪快にあけっぴろげで、すぐ笑ったり泣いたりするあたり、すこし和久に似ていた。だから気を許したのかもしれなかった。
「なんで家出したの?」
桜庭先生はキッチンに立って訊いてきた。洋平は空き缶だらけの座卓の前に胡座をかいて質問で返す。
「なんで家出したって思うんだ」
「あ、やっぱ家出なんだ」
彼女は俯いたまま得意げに笑って、それ以上追及しなかった。
「ずっとネットカフェ?最近は家出するのも便利だねー」
そう便利でもねーけど。床に敷かれた桜色のラグのほつれ毛を引っ張りながら呟く。おとなは職場に、こどもは学校に、収まっているべきだと無言の圧力が社会の大気圏を覆っている。ピースは各々の場所にきちんと行儀良く、嵌まっているべきだと。だれかにはっきりとそう言われた訳ではないけれど、周りのみんなが、四六時中無言で自分を責めている気がした。いつもいつも、責められている気がしていた。
「…ぜんぶ、捨てたくなったから」
質問への遅れた返事をする。桜庭先生はただ、そっか、とだけ言った。
「消えたくなった。消したくなった。いろいろ面倒だったから、ぜんぶスキップして出てきた」
「あー。あるよねー、そういうこと」
桜庭先生はしきりに頷いた。
「よくあること?」
「そらありますよ。君は悩みのガラパゴス諸島じゃないんだから」
悩みのガラパゴス。ふっと笑いが漏れた。その気配を察してか、桜庭先生は嬉しそうに続けた。
「なんもしなくていいし、いつまででもここにいていいんだよ」
「なんで俺にこんな親切してんだよ」
鍋を火にかけて冷蔵庫を漁る彼女に、半ば詰問する意味で言った。
「なんの義理もない、得もない。それともなんかあんの?」
「えー、なーに、人体実験に使うとか?」
「臓器バイヤーに売り飛ばすとか?」
「ふふ。良いね、君高く売れそう」
そういう冗談のぜんぶで、大丈夫だよと言っているようで、けれどそういうところが理解できなくて気持ち悪かった。
「もうそういう難しいこと考えるのやめない?自分がなにか犠牲を払わないと、ひとの親切のお返しにはならないっていう道理はないじゃんね」
はいどうぞ、と桜庭先生は味噌汁椀をふたつ置いた。日本人に無条件でなつかしさを誘う、味噌の深い匂いがたちのぼる。しょっぱくて食欲をそそるのに、かすかに泣きたくなるような甘味があるのだ。
「私はひとりで寂しかったから、大きな野良猫を拾って帰りました。それでいいじゃん」
「でかくて喋る猫?」
「ふふ。ドラえもんだ」
酔っ払いはそれからふざけてドラえもんと連呼した。洋平は黙って味噌汁を啜った。こんなに旨い飯は食ったことがないと、思った。
「無責任ですね。その桜庭さんってひと」
私はすっかり冷めてしまったナポリタンをフォークに巻き付けながら言った。
「野良猫はそう簡単に拾っちゃ駄目です。拾わないほうがはるかにましだったという結果になることもあります」
「そう思う?」
カウンターの向こうのスツールの上で、男は大袈裟に首を傾ける。
「でもねえ、この場合には、これが正解だったんだよ」
「そうするだけの力も、未来を見通す眼も持たない人間は、無闇にひとの問題に手を出すべきではありません。純粋な親切なら尚更です。野良猫は保護センターが、迷子は警察が引き取ります」
「結構強いこと言うねえ」
男は苦笑した。
「そのうちだれかが助けてくれるよ。でも、困ってるひとがほしいことばはそれじゃない。ひとの傷に正しい治療法が与えられることは滅多にない。自分で治せるひともいるけれど、正しいコンパスを貰えなくて、どんどん沼に迷いこむひともいる」
「自分で治せないのは、問題ですね」
「そのひとの問題だ、って言いたいんだろ?」
男はにこりと笑った。私は黙ってフォークを口に入れた。
「…おんなじこと言ってますね。自分がなにか犠牲を払わないと、ひとの親切のお返しにはならないという道理はないって」
「ああ、俺とおんなじこと言ってるだろ?嬉しいよねえ」
「嬉しいですか」
「そういう考えのひとが、この世にいるってこと」
男は遠い眼をした。綺麗な花模様の硝子の傘がかかった、オレンジ色の電灯が映り込んで輝いていた。
「…洋平さんはラッキーでしたね」
「ほんとにね、ラッキーだった」
「それ本名ですか。洋平という名前も、和久や桜庭というのも」
聞こうか聞くまいか、迷う暇もなく口が滑る。男は気づいているのかいないのか、のんびりと返した。
「いいや?まさかね。そう簡単にお客さんの個人情報言わないよ、いくら俺でも」
「ほんとにお客さん来てるんですね。毎回だれかの家無断で間借りしてるんですか?」
男はごめんって、と笑った。
「それじゃ、どうして私にそのお客さんの話をするんですか。赤の他人じゃないですか」
軽い調子でそう言うと、男は前屈みになって腿の上に肘を付き、じっと私を見た。手の中に隠れた口元は、笑みを描いているのだろう。
「君さー、頭いいでしょ。自分からはなにも言わないで鎌だけ掛けて、相手から引き出したことばを自分の中の推論と擦り合わせて値踏みするタイプ。刑事とか向いてるんじゃない?」
「…取り調べを受けたことでもおありなんですか」
多少狼狽えたから、笑って混ぜ返す。案外真面目な顔で、それは、なかった、と男は言った。そのまま黙って私を見ているから居心地が悪くなって、言おうと思いもしなかったことを言ってしまう。
「去年の七月に、三つ歳上の兄がいなくなったんです。もう成人はしているし、浪人生で、いなくなって困るような学校や会社がある訳でもない。死んだら余程のことでもない限りすぐ見つかるだろうから、あんまり真面目に探してもらえなくてもう半年になります。携帯は繋がらないし。どこかで生きてはいるんでしょうけど」
ふーん、と男は相槌を打つ。聞いてはいるけれど話すことを強いたりはしない、適度な温度の相槌だったから、もう少し話してみる。
「兄がゲイだったという話は聞いていません。恋愛のことはなんにも。でももしそうだったなら、兄は私たちのことを、信頼してくれていなかったんでしょうね。もともと家族になんでも話してくれるような素直な人間じゃありませんでしたけれど」
家での兄を思い出して少し笑う。きょうだいどうしの会話なんてちっとも覚えていない。おまえってつくづく変な奴だな、とか、ばーか、とか、私に言うことの八割はそういうことばで構成されていた。
「よく考えたら、マイノリティであることはカミングアウトすべき特別なことで、マジョリティは私はマジョリティですと宣言する手間もないなんて、おかしなことですね。不公平だと思いませんか」
私はことばを切った。すうっと周りの景色が視界から捻じ切れていって、私はどことも知れない空間に兄ひとりを残した世界を臨み、座っているような感覚がした。そこに男がいることすら忘れていた。
「…兄はそういうことに、たったひとりで耐えていたんでしょうか」
「…そう思う?」
しばらくの沈黙ののち、男は言った。私は彼に向き直った。
「それで洋平さんはどうなったんですか」
「ああうん。そう、それからね…」
「私の住所と、携帯の番号」
桜庭先生はメモを渡してきた。洋平は訝しげな目線を返した。
「これでバイト貰ってこい」
ばちんとウインクしてくる。あとこれ、と、投げて寄越す物を咄嗟に掴む。
「甘いチョコでも食べて元気出せ」
「むせるから嫌いなんだろ」
「え、なんで知ってるの」
慌てた顔に向かって思い切り顔を顰めた。
「自分が嫌いなもんひとに寄越すなや」
キャッチした硬い金属の感触を左手に握りこむ。右手でリンドールを口に放った。一口で食べるには大きすぎるこってりとした甘さが大量の唾液を引き出してきて、過剰な薫りが鼻につんとくる。
「あっっっま」
「ねー、甘すぎるよね。でもそれよく貰うんだよねー」
「誰に貰ってんだよ。彼氏に捨てられんぞ」
ちっともこたえていない、ひと睨み。
「仕事、いってきまーす」
「いってら」
「君も出るときは戸締まりよろしくね」
「わーった」
左手に握った、銀白色の合鍵を見つめた。口の中のチョコレートが甘すぎて、眼にうっすらと涙が滲んだ。
桜庭いのりの「甥」として、洋平は秋を過ごした。それなりの貯金もできたし、勉強もした。この分なら一浪で済みそうだった。
「君ってほんとに一途」
赤本を広げている背後から、急に笑いを帯びた声が飛んでくる。
「褒めてるように聞こえねー」
「あはは。チョコいる?」
返事も待たずに、机の上に五百円玉くらいの円盤型の個包装チョコレートが置かれた。
「またかよ」
「クリスマス近いからね。けど今日のは、職場のひとの出張土産」
「北海道?寒そー」
桜庭先生は机の背後のベッドに腰掛けた。
「そこ、和久くんが行ってるとこ」
赤本のほうをあごで指す。
「よく覚えてんな」
「だって有名なとこじゃん。やっぱ頭よかったんだなって思ったもん」
洋平はロイズの個包装を開けて半分かじった。ミルクチョコレートだと思ったらキャラメル味だった。今年の三月を思い出した。妹は全国で両手の指に入る高校に合格して、自分は。
「まあここは、ふたりで憧れたひとの母校だし。小さいころから目標だったんだ」
ロイズの残り半分を口に押し込む。空の袋を固く握った。
「あーあ、ポテチにチョココーティングしてあるやつなら私も喜んで食べたのになー」
「自分ですれば」
「やだよバレンタインでもあるまいし」
「ふっ。そんなの貰う奴いんの」
桜庭先生は顔をあげて洋平を見た。遠くを見る眼だった。机の上の電気スタンドが映り込んで輝いていた。
「いるよ」
にっこりと笑った。
「昨日ね、電話、掛かってきたの」
「やっと?」
椅子に座り直した。桜庭先生はだれかに話したくてたまらなかった様子だった。
「やっとだよー。付き合うときも、やっとだよーって感じだった。押しまくってやっとだった」
「え、あんたが押したの」
引く手あまただろうに。
「押しました。疲れた。偉い。よくやったよ私」
彼女は大袈裟に自分の頭を撫でている。
「で今度は引いてみて勝ったわけ」
「勝ったのかなー。弱肉強食な人間関係築きたくないしなー」
桜庭先生は後ろに倒れ込んだ。仰向けのままぼそぼそ喋る。
「今回は、向こうで仲直りアクションがなかったら、諦めようと思ってたんだ。人間関係って、維持するのに必ず双方の努力を要するものだから。私は彼に、それだけの努力をしてもいいひとだと、思ってもらえてるのかなって思って」
洋平が口を開いたのを遮って、桜庭先生は急に声を大きくした。
「諦めんなよ、少年。それが証明になる」
「俺はあんたとは違う、から」
洋平は机に向き直る。
「俺のは、むくわれないよ」
「そ、れ、は、ど、う、か、なー」
一字ずつ区切って言いながら、背後でがばっと起き上がる音がした。桜庭先生の満面の笑みが、洋平の顔のすぐ横に突き出される。
「和久くんとの接触に成功しました」
「は?」
脳がフリーズして馬鹿みたいな反応をしてしまう。名前を聞いただけでこれなんだからいろいろ末期だ。大学は都内だから、出会ってもまあ、おかしくはないのだけれど。
「君のことが忘れられないって、言ってたよ?」
それはどういう意味で。いやわかってるぞ。どうせあいつのことだから、深い意味はないのだ。察しろよ、こっちはもう十数年引き摺ってるんだわ。いろいろなことばが、頭を往来する。同時になにか別のものが、鳩尾のあたりでふつふつ沸き始める。
「ねえ、もうすぐクリスマスだよね?」
携帯電話を目の前にひらひら弄びながら、桜庭先生は洋平を見下ろして得意気に笑っていた。
「とっておきのプレゼント、君にあげたいなあ」
「なんで」
声が震えた。鳩尾のそれはもうぐらぐら煮立っていた。
「私のエゴです」
「なんでだよ」
洋平はがたっと音を立てて立ち上がった。悔しさ、屈辱感にも劣等感にも近い悔しさが怒りになって、迸る大声を止められそうになかった。
「そうやって何でもかんでも君の為って言って。自分はひとつも貸し作らずに。善人面しやがって。俺を縛り付けて。あんたのくれるものぜんぶに涎たらして食いつくと思ってんの?くそ、畜生、残念ながら食いつかざるを得ないんだわ。俺は犬かよ。気持ちわりーんだよ」
言ってしまうと、沈黙が霜のように降りた。桜庭先生は青褪めた顔をしていた。三回呼吸して、洋平は全身がすうっとつめたくなるような気がした。
「…あ。ちが、その、ごめん違くて」
「…翻訳すると、俺もあんたのために何かさせてくれってこと?」
桜庭先生は再びベッドに腰掛けた。悲しい顔をしていた。すぐ笑ったり泣いたりする。そういうところは少し和久に似ていた。だから気を許したのかもしれなかった。洋平はスウェットの裾を握りしめて立ったまま、項垂れた桜庭先生を見つめていた。彼女は沈んだ声で話し始めた。
「こっちこそ。タダより高いものはないもんね。それが君を縛っていたなら、ごめん。でもさ、ちょっと考えてよ。ご家族に裁判起こされたら、私なんか五秒で有罪だよ。ふたり暮らししてた部屋にひとり取り残されてお酒ばっかり飲んでた女が、成人ひとり、家がないのを良いことにいきなり拉致してさ」
「それはべつに」
「貰ってるのは、私のほう」
桜庭先生は、洋平の眼を見てはっきりと言った。
「君と暮らすのはめちゃくちゃ楽しかったよ。疲れて帰ったら君がご飯作っててくれたり、朝起きられなかったらゴミ出ししててくれたり。些細なことで言い合いしたり、箸が転げるだけで大笑いできたり。ひとと暮らすってこういうことだなって思った。ずっと、こういうことがしたかったなって。ありがとうありがとうって、その都度言いまくってたけど、それじゃ足りなかった?」
彼女は泣き笑いの顔で洋平を下から覗き込む。
「君は何の犠牲も払ってないかもしれないけど、私がしたことへのお返しにはなりすぎるくらいなってるよ。むかし私が家出少女だったとき、そう言って私を家に置いてくれたひとがいたの。世の中にはわるいひともたくさんいるけれど、私みたいな変人もちゃんと、いるから。世界って、そんなに悪いところじゃないよ」
真剣な顔つきだった。彼女と過ごした三か月を思った。本当に、こういうひとがいるような浮世なら、全然憂き世なんかじゃないと、思えた。
「…なんか、世をはかなんでるひとに言う台詞みてえ」
洋平が口を歪めて笑うと、桜庭先生もすこし笑った。
「はかなんでなかった?なら、良いけど」
なんだかぜんぶが見通されているみたいで、悔しいなんて通り越して笑えた。思えばはじめからずっと、このひとはそうだった。
「あんたに拾って貰ってからは、全然はかなんでねーな」
こういうことばひとつで、すぐ満面の笑みになるんだから安い奴だと思う。
借りとか貸しとかいうことば、だれがつくったんだろうな。俺たちは四六時中、そろばん片手に生きなきゃいけないのかよ。
ただ、好きなように生きるだけ。だれかに必要ななにかをあげる、そのよろこびを知ってしまったから。
「勝手にしろよ偽善者」
以前使っていた携帯は家出したその日に川に捨ててしまっていたから、新しいのを買った。本当はその日にこの身も捨ててしまうつもりだったけれど、妹とふざけて取り合いしたナポリタンの甘い味がふと舌をよぎって、なんでか死ねずに新幹線に乗った。カレンダーの裏に書いた二十字が今さら恥ずかしくてなんとなくこそこそと東京に紛れ込んだまま、今度は十数年の片想いに顔突き合わせようとしている。
「ふっ。馬鹿かよ。草」
新しい携帯電話の、すかすかなトーク画面を開いて、着いた、と打ち込もうとしてやめた。約束の時間の十分前だった。そのうち来るだろう。
「いつでも戻ってきていいし、二度と戻ってこなくていいから」
別れ際の桜庭先生の台詞が甦った。
「しあわせになれよ」
間近で眼を覗き込まれて、その眼に映った頼りない自分に向かって、洋平はしかし、しっかりと頷いた。
「なんかいろいろ、俺って情けねえ」
白い息を吐く。駅前はクリスマス色にびかびかしている。なんだか浮かれた人々がうじゃうじゃ足早に歩いている。寒いからますます肩を縮めて、マフラーに顔を埋めた。
「ねえ、お兄さんひとり?僕とデートしない?」
急に後ろから声を掛けられて、漫画みたいなオーバーリアクションをしてしまう。振り返った自分の顔がどんな表情だったか知らないが、和久の笑顔が一瞬で凍りついたのが見てとれた。
「え、ご、ごめんて。そんな顔しないでよ」
全然変わっていない困り顔を見たら笑いが込み上げてきた。会ったら何と言おうかと考えていたことをすべて忘れて、和久に抱きついた。
「なに急に変態じゃん」
柔らかい声は笑っていた。
背中にまわってきたしっかりとした腕の感触に、今なら世界のぜんぶを愛していると、大声で宣言できると思った。
「行こう」
なぜか、頬が濡れていて慌てた。のどにかたまりがつかえたような痛みがあって、はじめて自分が泣いていると気づいた。
「えー、嘘、君泣いてるの?優しいね」
男がカウンターの向こうのごちゃごちゃした山からティッシュを探し当てようとするのを、ハンカチあるのでいいです、と遮って顔を拭う。本当に近頃は駄目だ、すぐ泣くからいけない。
「あと私は優しくないです」
その話が、とても近いからだ。
「わざとですよね」
「この店に来たってことは、なんかあったんじゃないの?」
「君ひとり暮らし?」
「きょうだいは?」
ぜんぶ、はじめから。悔しいなんて通り越して、笑える。
「そのお客さん、右の手首に痣がありませんでしたか。撫で肩で、身長は170センチくらいで、私とおんなじように、ナポリタンを食わせろと言ったんじゃないですか」
「うんうん、あったね、痣。背格好もそんな感じ。あのひと、俺にやらせろって言って途中から自分で料理してたよ。ナポリタン」
脳のそういう回路が壊れたようで、私は大声で笑った。
「美味しかったでしょ、洋平さんのナポリタン」
兄ちゃん、と思う。心が弱くなると、すぐ、そう思ってしまう。
「途中で食べる手を止めると、横から盗み食いのふりするんです。一度も本当に盗られたことないけど」
私の猫舌を一番からかっていたのは兄だった。
「痣は生まれつきなんです。色が白いからすごく目立ってて、中学にあがるくらいまでずっと気にしてた。それからは陸上をやったけど、もともとあんまり日焼けしないんです」
言っても言わなくてもいいことを、こんなに他人に喋ったのははじめてだった。男は黙って私を見ている。
「それが」
兄は大学受験に失敗して、私のほうは高校にあがってひとり暮らしを始めた。夏休みに入って突然、兄は失踪した。
「書いてあったんです。その年のカレンダーの裏に」
「虹の裾の百合と金魚の間に埋めてください」
何度も何度も繰り返し読んだ二十字。忘れられなかった。忘れるはずがなかった。
「詩人かよ、って思いますよね」
また、不必要に大きな声をあげて笑ってしまう。
「兄は自分さがしをして、墓の中にしか見つけられなかったんです」
性的マイノリティは昔に比べれば格段に認知されるようになってきたけれど、不理解の声は彼の外にも、内側にもあったのだと思う。はっきりだれかに言われたわけではないけれど、ずっと責められているような気がしていたと、彼は言った。
「俺は俺が嫌いだ。だから努力して、さらに上を目指す」
「走ってっと、いろいろ忘れられんだよ」
自分への嫌悪感、自分を責める感覚が人一倍強かった。それが兄のストイックさに直結していた。繊細なのに、そのことに気づくひとは殆ど皆無だった。否、兄自身が、それに気づかせなかった。そういうのは恥だと思っていたから。妹がいるお兄ちゃんだから。そう思うような文化の中で育ってきたから。
自分が自分でいられる場所は。兄は自分が今いる場所には絶望しか見い出せなかった。
「私が、その、いわゆるエリート高校に合格してしまったのがとどめだったように思います」
「なんかいろいろ、俺って情けねえ」
ごくごく小さい、低く掠れた声が、聞こえてしまって。聞こえないふりをした。聞こえなければよかったと思った。でも、なかったことにはならなかった。
「ほんとは夏休み、家族旅行に行くはずだったんですけど。きっと兄は私の顔を見たくなかったんです」
私は詰めた息を吐いた。眼からぼろぼろ水滴が溢れた。
「どうして、一体どうしてどこかで、なにか、言ってあげなかったのかって。何度も何度も思いました。チャンスならいくらでも。でも私たちはだれもなにもしなかった。こんな状況、だれだって辛いでしょう。辛いって容易に想像がつくのに、なにもしてあげなかったのは、どうして?兄が男の子だから?」
勝手に喉が動いて、しゃっくりにも泣き声にも似た笑い声をあげる。
「兄が失踪して、年が改まって、急に今まで当たり前にできていたことができなくなったんです。夜眠れなくなって、勉強が手につかなくなって、読書も面白くなくなって、学校鞄が馬鹿みたいに重くなって」
「いやあれは重いよまじで」
男がフォローしてくるのを流して、続けた。
「今までの私をかたちづくっていたものが、ぜんぶ溶けてなくなるような感じでした。いつ元通りになるんだろうって、そればかり悲観的に考えて泣いてばっかで。それを自分で治せない自分が悔しくもありました。このまま自分がぐずぐずになっていくような気がしました。そうなったらもう私に価値はないように思いました。家でも学校でも、優秀なちびでちやほやされていましたから」
私も、自分を見失っていた。さがしていた。
「これも、兄を見捨てた、ばちなのかなって。思いました」
のどがつかえて、声が震えた。
「だけど、兄が今しあわせなら、よかった。私までおかしくなっても、いいことなかったですよね」
自分を責めることほど、非生産的なことはないと思う。他人の不幸に同調しても、なにもいいことはないと思う。今だから、そう思う。
「しあわせになれって言ってくれるひとがいて、兄は本当にラッキーでした。よかった」
私は鼻を啜った。一呼吸おくと、頬が勝手に笑みをつくるのを感じた。
「兄に話の続き、聞かせてもらわないといけません」
「そうだね」
男はにっこり笑った。
「あなたはだれなんですか」
私は唐突に尋ねた。男は少々面食らった顔をした。
「君は、自分がだれなのかわかるわけ?」
秀逸な返しだ、と思った。私は笑った。
「自分さがし中ってところですか」
「そうだねー。死んでも自分がだれだったのかわかんない」
「幽霊でいらっしゃる?」
声がうわずった。男は肩をすくめた。
「死者の未練が、幽霊になるとしたらね」
「だから私に兄の話をしたんですか。死者は血の繋がりを感知できるとか?」
私が言うと、男は手を振って笑った。
「まさか。君たちが似てるんだろ」
「そうですか?」
満更悪い気がしないから、自分でも驚いた。
「たまに出てきてさ、生きてる人間の悩み聴くの、めちゃくちゃ楽しいんだよね。生きてるスリルっていうかさ。そういうの、生きてるうちしか味わえないよ?まあ当人はこんなのとっとと終わっちまえって思ってるかもしれないけど」
男は少し首を傾けた。
「でも手放したら絶対後悔するよ」
「後悔していらっしゃるんですか」
男は寂しげに笑った。
「世界って、そんなに悪いところじゃなかった。去ってから気がついた。生きてる間は碌なことしてこなかったから、せめて、って思ってる」
「あなたは私の心を救ってくださいました」
柄にもない大仰なことばを使った。男のほうが恥ずかしそうに肩をすくめた。時計もないのに壁を見て、そろそろかな、と呟いた。
「もうすぐ重なりが消える。君はここであったことを忘れる。でももう大丈夫だよ。君はお兄さんに会えるし、また楽しい生活を送れる。君のこれからはたくさんのひとに祝福されてるよ」
忘れる、と言われて、こんなに胸が痛くなるなんて、想像もしなかった。急にノースフェイスを開けてペンケースを取り出した私を見て、男は怪訝な顔をした。
「せめて、お名前は」
「忘れたよそんなの」
「忘れるもんなんですか」
そんな、と思う。その間もペンを動かす。テストのときより必死かもしれない。
「自分が騙したひとや、殺したひとの名前は、覚えてる。思い出すと悲しい気持ちになるものばかり、忘れられない」
「じゃあ何か…あ、生年月日は?でなければ住所とか、そういう」
知らないうちに立ち上がっていた。男は困った顔をした。
「そんなことしなくて良いって」
「でも」
手のひらにマッキーを走らせながら言った。書くのは速いほうだ。メモ術には自信がある。
「忘れたくないんです」
奇妙な間があった。男はふっと息をついて、笑った。私は顔をあげた。喫茶店が、人相の悪い男が、消えていくところだった。
「ありがとう」
ごうっと風が通り過ぎるような音がして、瞬きを一度したら自分の家の中だった。リュックサックとコートとブレザーがばさばさ床に落ちた。自分がどうして必死にマッキーを握りしめているのか、もうわからなかった。
携帯電話がけたたましく鳴った。びっくりして心臓が止まるかと思った。知らない番号だったのにワンコールでとってしまった。
「はい。こんにちは」
「…おまえ『もしもし』ってことば嫌いなんだっけ」
相手がわかってまたびっくりする。同時に、くすぐったくてくすくす笑わずにはいられないような気持ちになる。
「うん。『もしもし』と『タイパ』と『自分さがし』ってことばが嫌い。でもタコパは好き。たこ焼き機買ってよ」
「…おまえってつくづく変な奴だな」
呆れた声に抑えられない笑いが滲んでいるから大丈夫だ。もう、大丈夫だ。
「私の誕生日。お祝い貰ってない」
「もう四か月経ってんじゃん。俺のがギリ近え」
「うわー、最低。兄とも思えない」
普段はこんなに話すこともないのに、今日は妙に饒舌だ。私が。
電話の向こうで、すうっと一呼吸する音が聞こえた。
「…誕生日、おめでとう」
「…うん」
「トリックオアトリート」
「お菓子ないけど悪戯したら許さん」
「メリークリスマス」
「ふふ。メリクリ」
「明けましておめでとう」
「今年もよろしく」
よろしく、と念押しのように言うと、少し間があった。
「…よろしく」
わざと小さな笑い声を聞かせてみる。ふ、と息の音が聞こえた。
「さっき親父たちに電話した」
「うん」
「知らん番号の電話ワンコールでとってんなよ」
「結果オーライじゃん。それに、普段はそんなことしませんー」
「あっそ」
また、一呼吸。今度は少し長かった。電話の向こうでかたんと物音がした。
「ずっとおまえが疎ましかった」
「…うん」
「おまえばっか優秀でさ。俺、兄なのに。自分が情けなかった。逆恨みだよな」
「そうだね」
べつに、慣れてるよ。大して気にもしてない。悪いのは、出る杭を打つ日本の文化。
「いろいろ苦しいことがあった。けど、ひとりで苦しんだのは、俺の選択。馬鹿だった」
「おー、馬鹿馬鹿。思い知れ」
「なんか、言われるとむかつく」
笑い声なんて、久しぶりに聞いた。
「拒絶されるって、勝手に思い込んでた。自分で何とかしろ、甘えてんなって、言われると思ってた。ああ、別に、言いたきゃ言ってくれてかまわない。でも、説明する前から理解されるのを諦めてちゃ駄目だった」
息を吸う音がした。
「ごめん。おまえたちのこと、信じてなかったんだ。ひとりで勝手に諦めて、何も言わずに逃げ出した。ごめん」
「ごめんなんて言うなよひとの気も知らないで」
二回目のごめん、に被せて言った。
「御免しないから私。馬鹿馬鹿」
左拳で、携帯を握っている右腕を殴った。電話の向こうで絶句する気配がした。
「謝るってんならこっちでしょ。兄貴は私たちに助けられるのは屈辱なんじゃないかなとか、気遣いまがいの言い訳ばっかであんたをひとりにしたのは誰?父さんも母さんも優秀なちびの妹ばかりちやほやして。妹は妹で自分のことにかまけて。あんたがいくら強いからって、すっかり放置して、家族は、私たちは、失敗したんや。あんたに捨てられて当然やったわ。DV彼氏捨てても誰も責めんやろ。家族だってなんも特別じゃない」
沈黙が電波を伝わった。
「けど私はごめんとか言わない」
「…うん」
まるでさっきまでと役割が交代したような台詞回しだった。
「今回は私たちが失敗しても、あんたを助けてくれるひとがいた。よかったな、世界がそんなに悪いところじゃなくて」
「それ…。俺の話だれかに聞いた?」
聞いたかもしれない。だって左手のひらに小さい文字がうじゃうじゃしている。
「私もな、説明する前から理解されるのを諦めてたことがある」
唐突に言うと、電話の向こうが少し緊張した。
「なに」
「火傷する温度の湯気には特有の匂いがある」
「なんだそれ」
あ、また笑った。去年よりずいぶんしあわせそうに聞こえる。思わず口元が緩んだ。
「ねえ…。そこにだれかいる?」
ちらちら聞こえる雑音が、どうも兄のたてる音でもよその音でもない気がした。
「ああうん…。そう、さっきから言おうと思ってたんだけど。今俺、幼馴染みの」
「あー。一緒に住まわせてもらってるの?」
「そう」
声が少し照れていた。私はからから声をたてて笑った。
「よかったねー、報われて。私も嬉しいよ」
「え、おい、ちょっと待てどういう意味だ」
わざと返事をせずに笑ってやった。
「…俺そんなにわかりやすい?」
まさか。知らなかったよ。だから私たちは失敗したって言ったんだ。
「大丈夫、気づいてたのはあんたの高校の先生だけだったよ。今度お礼しなきゃいけないね」
「本当におまえどうしたんだ。先生に会ったの?俺の知らない間に連絡されてたのか?…番号とか教えなかったのに…」
知らないよ。その先生の本名も知らない。ただ手のひらに書いてあることが本当だって今確かめている。
「何がいいかな。お菓子?何がお好きか知ってる?」
「チョコレートだろ。くっそ甘いやつ」
兄は電話の向こうでくくっと笑った。
そのあとは兄の幼馴染みの同居人が出てきて、三人でくだらない話をたくさんして、死ぬほど笑った。
電話を切ったのは十時くらいで、急に静かになった1DKで頬をさすりながら、久しぶりに笑ったのは私もだったな、と思った。今日は宿題もせずに寝てやろう。私は疲れ切っていて、幸福だった。
水を飲もうとキッチンに立つと、ゴミ袋に空いたウインナーのパックと玉葱の皮とピーマンの袋が捨てられていた。あれ、と思って乾麺のストックを見ればスパゲッティが減っている。冷蔵庫を開ければ、もともと少なかったインスタントの粉珈琲がもはや無きに等しかった。
「なんだ、名物とか言ってあれ私の珈琲だったんじゃん」
ぽろりと口から出たことばに首を傾げる。我ながら何の話だかわからない。
「淹れ方が違ったのかな。ナポリタンも味違ったしな」
また勝手に口が動く。おかしくて可笑しい。左手のひらを凝視して滲みかけたメモの判読を試みる。確かに自分の字だ。その中に、細かいなかでも大きめの字で、アンダーラインまでしてあるやつがあった。私はそれを眉を顰めて読んだ。途端に心地よい眠気が吹き飛んだ。これだけは今日のうちにやっておかないと、となぜだかそれだけを考えた。私は母に待たされたまま一度も使っていない花瓶を出してきて、マッキーでこう書いた。
「自分さがし喫茶のマスター、生没年不詳、今だに自分さがし中、どこかに眠る。世界はそんなに悪いところじゃなかった。碌でもないこの世も愛に満ちている」
書きながら、今は「自分さがし」ということばがそんなに嫌いでなくなっていることに気がついた。花瓶に活ける花は明日にでも買おう。硝子の傘に描いてあったような、白い百合の花だ。光っていたあの花の形のイメージが、瞼の裏に焼きついている。
「助けてくれてありがとう。どうかやすらかに」
私とはまったく関係がないように思える誰かに向けて、硝子の、ひょいひょい持ち歩けるような墓標を作って、あまつさえ心を込めてことばを掛けている自分が不思議だった。その一方でそれがごく自然なことのような気もした。自分と、自分のたいせつなひとのしあわせを願い、喜ぶように。
家の中なのに、風が吹いた気がした。かすかに珈琲の匂いがする風だった。
−FIN−
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余談:
なんか…少しっていうかかなりっていうか私の願望フィルター付き妄想になってしまったふしがありこんなの人様にお見せして良いものかと悶々としました。が、せっかく書いたので自己満足のため掲載いたします。
ヘッダーは我が母チハヤ作のナポリタンです。
ここまで読んでくださった方、まことにありがとうございます(平身低頭)
余談の余談:
2023年の11月に小牧幸助文学賞に応募した20字小説を何かに使いたいなーと思って今回ねじ込んでみました。
まことにお久しぶりです。以下、脳内劇場。
離れてはじめて気が付いたんだ、君の存在の大きさに!どうやらぼくは小説まがいの駄文を定期的にわーっと書き連ねないと生きていけないみたいだ…!
ありがとうございました
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