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自己紹介(0→22)

はじめまして。明石あおいと申します。

生まれてから5歳までは京都に住んでいました。予定より1か月以上早く母のおなかからこの世に出てきたのですが、その日はちょうど京都の三大祭り・葵祭の日だったので「あおい」と名付けられました。両親によると、ほんとうは「花」っていう名前にするつもりだったそうです。

5歳からは父の実家のある富山へ。18歳まで過ごしました。実家が富山市の郊外だったこともあり、高校生になると、楽しみが何もない田舎にいるのが日に日に耐えられなくなり「早くここを出て、都会に行きたい」とばかり思っていました。富山の空気ばっかり吸ってると、骨身まで田舎人間になってしまうのではないか?と心底恐れていたので、あのころは呼吸が浅かったと思います。

高校卒業後、大学進学という大義名分を掲げ、晴れて富山を脱出。東京生活が始まります。はじめての一人暮らし、はじめての満員電車、はじめての標準語…東京生活を始めたばかりの頃は、毎日が緊張と興奮の連続でした。大学は文学部だったのですが、もともと「富山を離れるための進学」だったので、入学と同時に目的を失った私は、大学の授業よりも、バイトや創作活動に明け暮れるようになりました。

アルバイトはいろいろしました。長く続いたのはイタリア料理とビアバー。住まいの近くの喫茶店や深夜営業の居酒屋、早朝営業のマックなどの飲食店でもやりました。サークルの先輩の紹介で、新宿のゴールデン街のスナックや、東銀座にある出版社でも働きました。先輩の紹介であやしい映画製作に関わったりもしました。

そんな風にバイトばっかりしていたのは、写真やデザインをやりたかったから。友人たちや、まちで出会った人に声をかけて撮影させてもらうという自作の写真集をひたすら作るようになり、創作意欲が抑えられなくなった私は、デザインの専門学校やセミナーでできた友人たちと就職活動そっちのけで個展やグループ展に精を出すようになりました。忙しいので、大学の授業はほとんど受けていませんでした。

なんとか内定をもらったデザイン事務所で働くようになった大学4年の頃、本気で大学に通わないと留年してしまうことがわかり(そりゃバイトと他の学校にかまけてたからね)、心を入れ替えて大学に通い始めます。教授陣に謎のレポートや手紙を送り付けて、なんとか4年間で卒業することができましたが、デザイン事務所の内定は断ることになりました。

晴れて卒業したものの、就職先がなく、バイトもしておらず、ただプラプラしているという、今考えると恐ろしい生活をしていた春。富山から父がやってきて、遠縁の親戚のところに連れていかれ、そこで会社を紹介してもらって、就職先が決まりました。完全なる縁故採用です。親戚のおじさんの口添えのおかげで、二つ返事で採用を決めるなんてほんとうにどうかしている社長でした。

その社長のもとで、社会人をスタートすることになりました。今まではデザインとかアートのことしか頭になかった私が、公共事業とか社会貢献とか「まちづくり」でご飯を食べる環境に身を置くことになりました。専門家や官僚、市町村長など、頭が良くてエネルギッシュな人たちばかりだったので、毎日が、気後れと自信喪失の連続でした。(続く)


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