
民泊で泊まった長野の農家でみた東京を捨てた就農の現実
最近東京でRoomie記事制作のための撮影をするのにもうすっかり飽きてきていた。
そんなこんなで長野の民家にエアビーで1泊して帰ってこようと思いたち、その日の昼に予約を入れて連絡が帰ってきたので新幹線に乗って長野に向かった。
長野についたころにはもう日は暮れてあたりは薄暗くなっていた。ここから旧中山道で数キロほど先の一軒家を目指した。
撮影用の物資を買い込むうちに日は暮れて、あたりは漆黒の闇に包まれていた。幹線道路から外れてその分厚い闇の中に自転車を走らせていく。民家すらない田園地帯が広がり、街頭もなく月も星も見えない。
どこまでいっても何も見えないくらいの深い闇のなかを進んだ。道路はどこまでも伸びていっこうにその先を見せないで続いている。久々に暗闇の中に身を置いたという気持ちだった。それが妙に心地よい気がしていた。夜風をきりながら自然とペダルは軽く夜の闇に誘われている気がしていた。
するとどうだろう、自転車を漕いでいる自分の右隣りからあるはずもない何者かの気配を感じた。ゾッ..とした悪寒を感じ背中から汗が出るような感覚を味わった。
坂道を全速力で下っていくとそのうちその気配は消えてしまった。
久々に何かしらの感覚が目を覚ましたような気持ちになった。こういった感覚は都市生活では薄れていたものではあるが、何かのスイッチが入った気がした。
そのうち民家が見え始めて昔の宿場町の趣きの残る集落が見えてきた。すごくほっとした気持ちになった。
千曲川を渡るとその先は上り坂になっていて再び民家がまばらになり始めた。
そして丘の上のあぜ道の先に、旧中山道のレトロな町並みからは考えられないような小洒落たトンガリ屋根の白い洋風の一軒家が見えた。
しかしその周辺は真っ暗で何も見えない。家の傍には大きなトラクターが止まっていて、どうやら農家らしいということはわかった。
その家の主人は色黒の気さくそうな男の人だった。わざわざ駅から自転車できたことに驚いていた。
「いきなりの宿泊リクエストだったから何事かと思ったよ。」と私の宿泊理由を尋ねた。
私は撮影をかねた旅行のためにここに来たことを伝えた。
UberEatsをやっているという話をするとすごく興味深そうにしていた。かなりリテラシーの高い人であることがわかった。
部屋は洋風の外観からは意外な和室だった。チリひとつ落ちていない清潔感と、まあたらしい畳と生木の匂いが旅館に来たような気持ちにさせてくれた。
翌朝、7時くらいに起きてその家のまわりで撮影をした。思った以上に隣家も何もない場所だった。
畑が広がるものの置いてあるほどのトラクターで耕すほどの面積のものではなく、ネギとか花とかが家庭菜園くらいの規模で栽培されていた。
その辺りから農家の線は少し怪しく思っていた。そして表に止めてある車がフォルクスワーゲンのビートルであることに気がついて驚いた。
なんでこんなところに?ますます疑問はわくばかりである。
遠くに美しい峯の山がみえた。それは浅間山だとひと目でわかった。
この日はあいにくの曇で山頂はよく見えない。その下に佐久の市街地が広がっているのが見える。
明らかにこの景色を選び抜いて家を建てたことがよくわかった。
ひと通り撮影をおえると遠くのガレージにその家の主人がいるのに気がついた。
ガレージも凝った外装で洋風の佇まいだった。なにやら作業をしているところだった。なりゆきで米の出荷の手伝いをすることになった。
30kgの米袋を数十個軽トラに運んで、そのあとダイニングでコーヒーをいただいた。
奥さんがキッチンで挨拶してくれた。かなり気さくできれいな人だった。
米農家の年間の労働時間としては300〜500時間くらいなのだという。
そして繁忙期は田植えの4〜5月、稲刈りや出荷の9〜10月で、あとはかなり自由な時間があるとのことだった。
その時間を海外旅行にあてて悠々自適な暮らしを満喫しているのだと話していた。
バリをおすすめされた。1泊1000円ほどで民家の離れなど広々とした庭付きの個室の部屋に滞在できることを教えてくれた。
「君の東京での部屋代よりずっと安いよ」
確かに、ひと月泊まったとしても東京の家賃より安く収まる計算になった。
これは私にとってちょっとした魅惑の話だった。そして私の東京での生活感を見透かされているようだった。
またそれは1泊2日の旅行なんて旅行じゃないとも言われているようだった。
そして軽トラの荷台の米の上に私の自転車を載せて走りだした。
田園風景の抜けて坂道を登り、山々を一望できる高原の上を走りぬける。
このあたりの民家は空き家が多く1万円で貸してくれる場所もあるのだという。
そのうち就農や移住や2拠点居住の話なった。聞く所によると40代になるまでサラリーマンや会社経営などをして東京で生活していたのだという。
この土地には都会から就農というカタチで移住してくる人が多いといい、その就農支援なども行っているのだという。
移住者の多くがはじめは「年収200万でいいから〜」という謙虚な気持ちでだいたいがやってくるのだそうが、実際に暮らし始めて年収を追い求めて自らを追い詰めていく者があとを絶たないのだという。
「その理由がわかるかい?」そう聞かれて僕は答えられなかった。
「クリエイティブでないからだよ。」
ぐっとその言葉が胸に刺さった。
クリエイティブとは何か?ただモノを作っているだけではない。そうと私は気づかされた。
「移住就農者でも賢いかバカかで大きく明暗を分けてしまう。頭の悪い人は当然勉強しないし、知性がないから必要のないものに無駄に労力を割いてしまうんだ。」
「つまり最適化が必要なんだよ。」
モノをつくるだけではなく、何をつくり何をつくらないのかをしっかりと見極めなければならない。
時に既存の制度や法規も利用しながら常に自分に最適な環境をつくっていかなければいけないことを指していた。
昔の人は夜空の星を見て星座や神話をつくった。そして食べてはいけない物、やってはいけないことを決めた。それはいつしか宗教になった。
知性でつくりだし、品性でやらないことを決める。それは生きることの原型そのものだった。
急な下り坂にさしかかると浅間山の山麓の崖のうえに街がのっかっていた。
下には崖になっていて千曲川が流れるという険しい風景だった。それが小諸の街なのだという。小諸はどことなく少し廃れた温泉街のような風貌だった。
米問屋の倉庫につくと、意外なことにマツダR360がガレージから顔を出していた。奥にもシトロエンバスが収められていてなんだかすごくオシャレだった。
見紛うようだが、奥にはきっちりパレットに詰まれた米の在庫がたくさんあって、フォークリフトや大きな精米機も見えたので米倉庫であることは間違いはなかった。
米問屋の人たちに挨拶をして自分がいろいろな仕事をしながら自由に生きていると話すと「それがいいよ。自由が一番だ。」と言ってくれた。
かなり優雅な暮らしができているようにに見えても、それなりの見えない煩わしさがあるのだと感じた。
米問屋での作業は非常にシンプルだった。
もってきた米を精米機にかけて重量ごとに計量して袋詰し、箱につめて伝票を貼るだけだった。この作業の時に農作業には似つかわしくない立派な時計をしていることに気がついた。
小諸の温泉でおろしてもらって高原の道を自転車で走って帰った。稲刈りが終わり藁がさかんに干されていた。泥臭い匂いの中で秋の風情を感じた。
家に帰ると主人がダイニングでまたコーヒーを入れてくれた。そして米農家について続きの話をしてくれた。
米づくりは他の畑作とは違ってオートメーション化が進んでいて、かなり省力されているとのことだった。
ただしそれは機材への投資やメンテナンス費が余計にかかることを意味していた。作物によって時間単位で稼げる金額がおおかた算出されていることを教えてくれた。
また、この土地で中卒、高卒で就農してずっとやってきた人々と、出戻りで就農した人々や新たにやってくる人々の間には大きな軋轢があるのだと聞かされた。
そして、新たにこの土地に移住して就農しにきた者たちの間にも、関係性にはギクシャクしたものがあるのだと感じた。
一度は東京に出て大手家電メーカーに就職しながらも、実家を継ぐために地元に戻った祖父のことを重ねた。
祖父も都会に出ず地元でずっとやってきた人たちといろいろと問題を起こしたという話を母からきいていたので、その理由がなんとなく想像できた。
外で得た知見を生かして地元に貢献したい。そう意気込んで帰ってきてさまざまなことに尽力するのだが、それが地元の人には押しつけがましいものに感じたに違いない。
話をする真剣顔つきの後ろのダイニングの窓からは曇り空の浅間山が見えていた。それは妙に晴れやかでない怪しい雲の流れ行きを映し出していた。
この家はきれいでオシャレで、隅々までしっかり掃除が行き届いた快適な空間だ。農業もそれなりの成果を出し、時間もあり趣味を満喫している。
奥さんもいる。
「何も不自由ない暮らし。」そう言いきれそうなものであったけれど何かが足りない。
今このダイニングでコーヒーを飲み干してしまった私は、することを失っていた。
きっとここでは相応な話ができる話相手がいないのだろうと思った。
やはり「人」は重要なのだと感じるところだった。
かなり夜遅くまで海外の旅行の話をしてくれた。
奥さんがシナモンティーをいれてくれた。その話しぶりはさらに真剣そのものでかなり迫力があった。
知らないうちに雨がふりだしていた。窓の外は真っ暗で何も見えない。
この晩も泊めてもらうことになった。客間に帰るとゴロゴロと雷がなり始めた。かなり激しい雨が降っているようだった。しかしそれが妙に心地よく感じた。
雨は味方のように優しかった。