第7回 (『ノラら』紗英から見た世界 ) ~"大衆ウケ" からの逸脱~
『ノラら』
第一章:紗英から見た世界
第七回
(吉岡さんは)扉を開けて、
すぐ目の前のロボさんの席の傍に、
私が立っていたことに
少々驚きつつも、
開口一番
「まだ大丈夫?間に合ったか?」
と息を切らせながらも
私を気遣う言葉を掛けてくれた。
「はいこれ」
と言われて手渡された紙袋の中には
ナプキンと痛み止めが入っていた。
「ナプキンて種類多過ぎやな。
女性の店員さん呼んで
選んでもらったから
俺が選ぶよりは間違いないはずやで。
また見てみて。
で、痛み止めも
色々店の人に聞いてみたら、
イブプロフェンがええと思いますて
勧められたから、
それ系のやつにしといたで。
痛みにはしっかり効くけど
一番強いやつってわけでも
ないらしいから
これがええんちゃうかと思って。
あとそれ飲む用に
軟水も買ってきたで」
と言い終えて、
右手に持っていたペットボトルを
私に差し出すが先か、
そのままロボさんの隣にあった
肘掛け椅子にドカッと
身を預けるように座ってしまった。
ロボさんは
ぽかんとした表情をして、
だが唇は軽くすぼめたまま、
私達の様子を見ている。
「こんなに色々と、
ありがとうございます!
トイレに行ってきます」
と元気に言い放つと、
紙袋をもったまま
東扉を出てトイレへと向かった。
ナプキンを当て終えて、
化粧台の前で薬を飲んでいると、
四十代後半くらいの女性が
つかつかとヒールの音を響かせて
中へ入って来た。
私は彼女に向って軽く頭を下げたが、
そんなことには気付いていないようで、
化粧台に備え付けられている戸棚から
化粧ポーチを取り出して
化粧直しをし始めた。
まだ
始業開始後三十分も経っていないのに、
こういう女の人達は大変だなと
私も同じ女であるにもかかわらず
そう思いながら化粧室を出た。
まだお腹も痛いのに、
なんだかすっきりとした気分になって
事務所へ戻ると、
まだ吉岡さんは
ロボさんの横に座ったままで、
頭の後ろに手を組んで
伸びきった体を放り出していた。
「どうやった?」
と短く使用感を聞かれたので
「ばっちりでした」
と笑顔で答えると、安心したように
「あ~よかったわ~」
と目尻を下げて、頬の横に
笑い皺をたっぷりと作ってみせた。
「あ、あれやででも、
痛み止めは胃に悪いから
なんか食べたほうが良かったな。
今からでも大丈夫やろ。ロボあれ、
こないだ買ってきた
メヌレーゼどこやった?出してや」
そう言い放つと、吉岡さん自身も
そこらじゅうの引き出しを
開けまわって探し始めた。
するとロボさんが立ち上がって、
スケルトンの製品がごろごろと
並んでいるスチール棚へ歩み寄ると、
その二段目の片隅に置いてあった
段ボールの中からガサガサと
ビニール袋に詰められた
メヌレーゼを掴み出した。
「まだ開けてないですよ」
と言いながら吉岡さんに手渡す。
「おう、珍しいやん。
いっつも差し入れした瞬間に
開けて食ってまうのに。
体調でも悪いん」
と言った言葉とは裏腹に
お前の体調など
全く心配していないといった調子で
テキパキと袋を破くと、
個包装されたメヌレーゼを
ひとつずつ配ってくれた。
「さあ休憩や。
まだ仕事してないけどな、
フフンッ。まだまだあるから食べや」
「いただきます」
三人は実験台の周辺に
椅子を持ち寄って、
ちょっとしたお茶会のように
メヌレーゼのひとときを共有した。
サクサクの生地が何層か重なっていて、
その間にはそれぞれ薄く
カスタードがサンドされている。
生地の頂上には
イチゴ風のジャムが
メレンゲ風の白いクッションの上に
丸くトッピングされている。
メヌレーゼという
しっとりとした名前とは裏腹に、
どう見てもミルフィーユを
モチーフにしたような
さっくり系のお菓子だ。
「ボルモンのお菓子って
ネーミングに哀愁感じるやろ?
大人の哀愁を庶民のお菓子として
パッケージしてるねんボルモンは」
私もロボさんも
吉岡さんの解釈に多少頷きながら、
思い思いにメヌレーゼを味わった。
ずっと目の前を飛び回る蝶を
ぼんやり眺めていると、
さっきし損なった質問を思い出した。
「ロボさん、
このCGっていうか3Dっていうか、
こっちの超新蝶を商品化せずに
物理化した商品に置き換えて
開発してるのはどうしてですか」
ロボさんは、
マグカップに入れてあった
紅茶かなにかを
最後にごくりと流し込むと、
何か言おうとして口と目をすぼめた。
「す、すぉ、スお、スオれは、
ですね、つす、ツすー」
「ロボ選手、
緊張のあまり
フリーズしておりますっ、
フフフッ、
女性が隣に座ることなんて
今まで経験したことないもんな。
よ~しよ~し可愛いのお」
隣でひたすら
メヌレーゼの個包装を開封しては
食べ続けながら
爆笑している吉岡さんが
ロボさんを揶揄(からか)っている。
なんて下品な人なんだと、
少なからず嫌悪感を抱いたのだが、
ロボさんはというと、
そんな吉岡さんに構うことなく、
次の言葉が自分の中から出て来るのを、
口をすぼめて待っている。
最初の言葉が出てしまえば、
あとはつらつらとしゃべりだす
ロボさんの特徴も見えてきた。
「フフフフフッフフンッ…ツ、
ふんーと…ッんーとですねその、
テトラグラフィの技術を
とてもコンパクトな飼育ポットに
内蔵するには無理がありましてね。
んー無駄といえば無駄ですね
プレαを作ったこと自体。
ただの3Dだと
飼育ポットになら
簡単に入れ込めるんですけど、
テトラグラフィとなると
次元が違うんですこの、
僕の周りを取り囲んでる機械
見てもらったら
想像つくと思うんですけどこれ、
全部テトラグラフのための
装置ですから。
ふんーと、静かだけど
動いてますんで今も
この超新蝶飛ばすために」
そう言って
周囲に並ぶ黒っぽい箱上の装置群を
見渡した。
これらの中には
箱状の先端に
滑り台のようなものが付属した
ゾウの形の様に見える装置もあり、
自分たち人間は、
この黒い小さな動物園で
唯一色を持っている生き物のよう
にも思えてきた。
一緒になって見渡していた吉岡さんが
漸くお菓子を中断すると、
「考える人」のようなポーズをとって、
改めてテトラグラムの装置を
見詰めながら喋り始めた。
「うちの部署では邪魔なだけやで。
こうやってロボとかが
暇つぶしに動かして
遊んでるだけやしな。
このスペースが空いたら、
品管が抱えてる製品
わざわざ倉庫に片づけんでも、
この辺にわんさか置いとけるがな。
言っとくけど俺らの持ち場、
ロボと共有やってこと分かっとる?
ほんま俺らロボに気を遣いまくって
こうやって隅の方に
申し訳程度に
製品置かせて貰ってるねんで。
あ、そうや矢崎さんに言うとこか。
あのね、この狭いスペースが
品管グループに割り当てられてる
実験室やねん。
んで毎日本社から
クレーム品が返却されてくるから、
それをここに持って来て
品管で解析するねんけど、
その仕方もおいおい教えるわな。
で、ロボは品管じゃなくて
図焼きチームにおるやつなんやけど、
なぜかここのスペースを
占領してやがるねん、
品管って弱~い立場やから
いつでも犠牲になるわけよ」
そう喋り終えると急に立ち上がり、
実験室の一番奥に据え置かれた
3Dプリンタのほうへ近付いて行った。
剥き出しの鉄骨のような
存在感のあるプリンタは、
ブラインドの隙間から入って来る光で
その輪郭を静かにアピールしている。
造りの無骨さとは裏腹に、
春に咲く
トリステスコンコロールのような
淡いイエローグリーンで
化粧されている。
「で、ロボに図面送ったら
この3Dプリンタで
製品焼いてくれるから。
おもに開発のやつらが
試組み用に焼いてもらいに
来るねんけど、
俺らも頼むこと結構あるから
矢崎さんもロボに
依頼することになると思うわ。
その棚に並んでる
スケルトンの製品が
このプリンタで焼いたやつや」
今度は棚の方に移動して
ひとつひとつ手で撫でながら、
これがどういった製品なのか
説明を加える。
「それからこれが
うちの主力商品のオートミール。
結構売れてるねんで。
三度の飯が主菜副菜主食含めて
すべて作れまっせっちゅう商品な。
電気がないとこでも
火が有れば使えるし、
寧ろそっちで作ったほうが
速く出来るし味も旨いて
いわれてるわ。
俺らこいつがヒットしたおかげで
食っていけてるみたいなもんやから
オートミール様様やねん。
あとは屁みたいな商品ばっかり
作って浪費してるだけやな。
この辺の商品は
おいおい覚えてってくれたらええよ」
目新しかったはずの世界は、
いつも駿足でくすみ色褪せていく。
こうして吉岡さんから
適度に適当な説明を受けながら、
早くもそう遠くはない未来に
ここを立ち去る時の自分を想っていた。
たった今未踏の地に
降り立ったばかりの私の胸の片隅は、
心地よいGに締め付けられて
にわかに恍惚としはじめているが、
はたしてこんな状況は
どれくらい先まで
存在しているのだろうか。
今までは
期間限定の仕事しか
選定してこなかったので、
半年より長く同じ場所で
就業したことがない。
今回の仕事は初めて長期が想定される
三ヶ月契約の更新制で、
最長三年まで同じ現場で
就業することができるというものだ。
あまり深くも考えずに、
長期の仕事を選んだつもりだったが、
私も内心、
働く場所も安定しないまま
自分の年齢を漠然と重ねることに
一抹の不安を
感じているのかもしれない。
だが、今までに繰り返されてきた
出会いの刺激や、
慣れ合いの果ての倦怠、
それらを美化さえし得る
別れ際の多幸感なんかを
回想すると同時に、
この新しい職場ででも
徐々に出来上がっていくであろう
人間関係の行く末までも
既に見えてしまったような気がして
多少うんざりした。
組み上げるまでは
没頭していられる
ルービックキューブは、
一度組み上がってしまうと、
次またぐちゃぐちゃに
色を混ぜてしまわなければ
没頭できる機会は来ない。
じっくり何年も懸けて
同じルービックキューブを
焦(じ)らし焦らし遊び倒す自信がない。
周りを見渡せば
目先のタイムリミットも無しに、
与えられたルービックキューブを
定年までカチャカチャ
動かし続けられる人達がわんさかいる。
定年を迎える頃には、
ルービックキューブは
手垢だらけになってしまい、
どの面が何色なのかも
判然としなくなる。
そうなった頃には、
そんな見た目の判断など必要としない
完了への経路が出来ているので
思考せずとも
組み上げることが可能になるらしい。
それを成し得る
能力のある「正規人」からは、
私のような働き方を
「非」正規だと呼称され、
「ちゃんとした大人」のする
働き方ではないと、
後ろ指を差されてきた。
派遣される場所によって
多少作りのちがう
ルービックキューブを手渡され、
その場その場で違うルールに適応し、
制限時間内で六面揃え終え、
また次の場所へ移っては
与えられたピカピカの
ルービックキューブに手を掛ける。
ただそれも、形やルールは違えど
似たような作業を
リピートしているに過ぎない。
——この先なにが待ち受けているのか
判然としない
バックパッカーのような人生——
だなんて、
そんな風に
色気づいた例えができる生き方に
憧れるだけで、
実際の私は大衆から
なんら突出してなどいないのだ。
生理の痛みに
占領されていた私の思考は
薬のおかげで解放され、
いつものように
取り留めのないことを
ぼやく元気が出て来ていた。
要するに
飽き性で根性も無い私であることを、
生まれてこのかた
何万回となく目撃してきたことを
また今日目撃しただけだ。
家電メーカーでの勤務初日は
こんな風にして始まった。
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