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「わからない」の違和感

年末の何かと話題になるお笑いショーレース。
毎年家族で見て楽しんでいるが、勝負事にした以上は勝者と敗者が出てくる。納得の優勝もあれば、「なんでやねん!(←関東モンのエセです)」とジャッジに異論が出ることもある。家族で票が割れることもある。

それは当たり前のこと。だって笑いという感情の動きを、正確に絶対的に万人納得で決められるわけがない。至高の絵画も、最高の一文も、不朽の名画も、何度も読み返す漫画も、心を支える一曲も、何もかも。ひとつに定めるなんてできるわけがない。

それでも決めるというなら、それは異論が出ようが何だろうが、決めるしかない。少しでも納得できる理由を挙げながら、いろいろな基準を持つ審査員を並べて選ぶしかない。八百長や不正は勘弁だが、好みや主観だって入るだろう。それでいいと思う。審査員も人間だ。そうするしかないし、それも込みで楽しむのがショーというものだと思う。

だがしかし。だからこそ、審査員は「私にはわからないけど」とか言い出すのは反則だ。わからないなら、わかって当日ジャッジができるよう準備をするべきだ。準備ができないなら、その瞬間の自らの判断に自信と責任を持つべきだ。

準備もしない。判断に責任も取らない。なら、ただでさえ「ひとつ」なんて選べないはずのものを選ぶなんて仕事をするべきじゃない。「私は準備もしないし、責任も取りたくない」と言って断るべきだ。

傲慢な審査員はまだ許容できる。そういう大会と納得して参加して、周りは見ればいい。だが、やる気(または覚悟)のない審査員は誰も幸せにしない。

「わからないけどって、なんやねん」
誰かツッコんであげればいいのに。ツッコまないから笑いにすらならない。意外とツッコミ待ちなんじゃないかとモヤモヤして眠れない。眠れないなら鬼滅リアタイすればよかった。おやすみなさい。錦鯉おめでとう!

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