花びらたちのマーチ
初めて目にしたのは、雨上がりの春の日だった。
正確には、そこで出会ったというわけじゃない。小学校だって一緒だったし、そもそも同じクラスだ。でも、あるじゃないか。名前も顔も知ってるけど、なんか視線が素通りして意識してない、止まらない。わかるよね?
春日は僕にとって、そういう存在だった。下の名前だってパッと出てこない。同じ教室にいる、誰かさん。ほんと、それくらいにしか思ってなかったんだ。
でもその日から春日は春日さんになり、すぐに春日ゆきになった。その他大勢だったはずの春日ゆきは、気がつけばいつも目の端にいる女の子になっていった。
今なら認められる。僕は春日ゆきが好きになっていた。ちょっと恥ずかしいけれど。あれは紛れもなく僕にとって、初めて自分でも意識した恋だったんだと思う。
「どこがいいんだよ。春日の」
「やめ、名前とか!」
あたりを慌てて見回す。やっぱり、コイツに言うべきじゃなかった!放課後、陽が傾きかけた教室にも、外の廊下にも人影はなかった。どこかで吹奏楽部の金管楽器が、ぼぇーっと間抜けな音をたてている。
「だって、別にそんなかわいいとかなくない?」
屈託のない表情で酷いことを言いやがる。悪意がなければ何でも許されると思ってる幼馴染を、思い切り殴ってやったらどんなにスッとするだろう。
そんな僕の気配を察したのか、隆の表情からニヤニヤが消えた。
「えっ。もしかしてマジなのか?」
「…だから相談してんじゃんか」
「…どこにホレたんだよ」
さっきまでのからかう空気は抜けた問いだった。だからかな。素直に今度は言えた。
「春日ってさ。軟テ部だろ」
「あぁ、軟式テニスな。あいつ、上手いんだっけ?」
そう。一年の時点で、春日はレギュラーに選ばれるほど上手かった。お父さんがテニス好きらしくて、小さいころからラケット振ってたらしい。だから入部早々にもかかわらず、レギュラー候補に抜擢されて、5月には夏の大会に向けて先輩に混ざって練習参加していた。
もちろん、こんな話を本人から聞けるわけがない。女子と話すなんて、そんな恥ずかしいこと!だから全部、女子の好きな噂話にこっそり聞き耳を立てた成果だ。
「それって、ストーカーじゃね?」
睨みつけると隆は頭を下げて、話の先を促した。
テニスは確かに上手いらしい。でも決して派手なタイプでも、負けん気が強いわけでもない春日にとって、テニスはあくまで楽しむためのものだったらしい。だから、一年のレギュラー抜擢など、本人も望んだわけではないようだ。
それでも真面目な性格から、一生懸命やらなきゃいけないと思った春日は、めちゃめちゃストイックに練習に打ち込んだ。誰より走り込み、ラケットを振り、ボールを追った。一年の雑用も友達と一緒にがんばった。表裏なく、ただただ一生懸命に。
僕が春日を見つけたのも、そんな走り込みをしているところだった。グランドの隅を大きく、大きく。速いテンポで走り続けている。その背中を目で追い、離せなくなってしまった。
「お前が本気なのはわかったよ。ただな、」
僕の話を聞き終えた隆はニコリともせず、その目はむしろ少し怒っているようだった。
「その相談を、何でもっと早く俺にしなかったんだよ。卒業まであと2ヶ月だぜ。いまさら…!」
理由は簡単だ。僕自身が、自分の気持ちに素直になれなかった。いつも視界の端で、心の端で春日を意識しているくせに、そんなの恥ずかしいって思ってた。うまくいく想像なんてできないし、そもそも行動を起こす気なんてなかった。
卒業という、区切りが目前に迫る今日まで。
「お前、ギターやってんだよな」
隆の唐突な問いに、面食らう。確かに父のお下がりのギターを秋にもらって、ちょこちょこ受験勉強の合間に練習してたけど。手の小さな僕には難しいことも多く、指先の痛みにも耐えかねて置物となりつつある。それが何で今出てくるんだ?
「…って海外のミュージシャン知ってるか?」
もちろん知っている。だってそのミュージシャンは、
「春日、そいつの曲が好きなんだってよ。特に一番有名なラブソングがお気に入りで、試合前にはそれ聴いて集中するんだ、って聞いたことある」
知ってる。軟テ部の女子とクラスで話しているのを聞いたことがある。だけど、まさか…
「なぁ。それ練習して弾けるようになって告白とか、どうだ!」
やっぱりだ!コイツに相談したのが間違いだ!
「やだよ!そんな恥ずかしいことできるかよ!」
「じゃあどうすんだよ。良くないか?」
好きな子の好きなラブソングを練習して歌う?どこにそんなバカな告白する奴がいるってのか。そこから延々と説得にかかり計画を立てはじめる隆を、僕は暗くなって下校時間になるまでひたすら止めるしかなかった。
隆は翌日から、作戦会議と称して様々な作戦を考えてきてくれた。そのアイデアが良いか悪いかは置いておくとして、応援したいという気持ちは伝わったし、嬉しかった。その一方で僕は何をしていたかと言えば。家でひたすらギターを練習していた。弾こうとしているのはもちろん「あの曲」だ。
受験も終わったある日。突然ギターに熱中し始めた息子を、父は大喜びで指導した。弾きたい曲があると伝えると、翌日には仕事帰りにスコアを買ってきたほど。あまりの喜びように、少しこちらが引くくらいだ。
でも、どうしてもFのコードに苦戦した。父とふたり、Youtubeの動画なども見て真似するが、身体も手も小さな僕にはあまりに高い高い壁となって立ち塞がった。
一音一音、大切に。心を込めたいのに指が言うことを聞いてくれない。
悔しかった。でも。楽しかった。
だからその日、朝のホームルームで先生に呼ばれた春日が教壇に立って、とつとつと話し始めた内容は最初理解できなかった。来週、親の仕事の都合で。春日は卒業を待たずに。海外の街へ引っ越す。高校も、むこうで。いつ日本に帰るかはわからない、と。
そこからは今日まで、しばらく頭がうまく働かなかった。隆がいろいろ話しかけてくれたけど、うまく対応できていたかわからない。ただ彼が最後には、怒るではなく悲しそうな顔をしていたことが、本当に申し訳ない気持ちになった。
明日の早朝。春日は空港に向かう。そしてこの街をでて海を越えて、僕の知らない街へ行く。
「チャンスは今夜しかないぞ」そう誰かが囁いた。立ち上がり、ギターを手にする。あの曲を、一度だけでも弾いてみようか。失敗してもいいじゃないか。彼女に聴いてもらおう。春日ゆきに会いに行こう。
適当に、シンプルで簡単なメロディを奏でる。聞いたことのあるような、それにしては物足りないような。そんなメロディに言葉を乗せる。
「10年後にまた会えるよ」
ひどい歌詞だと思う。ありきたりだし。無責任だし。
会えるはずがないし。
一晩中悩んで、たどり着いたのがこれだもの。
それでも思うんだ。きっと、もしかしたら。
その時には僕も、今度こそ。
どうか。どうかその日まで。
この頼りない、ありふれた願いが叶う日まで。
春日がどうか幸せでありますように。
想いを込めたFコードが、かつてないほど綺麗に響いたから。昇ってきた朝日から逃げるように、捕まえた音を包むように。僕は布団を頭までかぶって、静かに眠りに落ちていった。
from Aimer/花びらたちのマーチ
16thシングル収録 2019年
春の別れをテーマとした一曲。
まず思ったのは、こんな思い出も持ってみたかったな、ということ。切なく、つらいかもしれない。けど、心に大切な記憶として残る。そんな場面です。
まだまだこれから、という呑気な息子が、こんな日々を過ごす日は来るのか?そんな風にも思いました。
夜が明ければ小学校を卒業する彼に、いつか大切な思い出ができることを祈って。